『〈運ぶヒト〉の人類学』川田順三著(岩波新書)という本を読んだ。本カバー裏の紹介文には次のようにある。
(引用開始)
アフリカで生まれ、二足歩行を始めた人類は、空いた手で荷物を運び、世界にちらばっていった。この〈運ぶ〉という能力こそが、ヒトをヒトたらしめたのではないか?アフリカ、ヨーロッパ、東アジアの三つの地点を比較対照し、〈運ぶ〉文化の展開と身体との関係を探る。人類学に新たな光を当てる冒険の書。
(引用終了)
これまでヒトについての名称は、ホモ・サピエンス(知恵のあるヒト)、ホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)、ホモ・ヒエラルキクス(階層化好きのヒト)、ホモ・ファベル(作るヒト)など色々とあるが、川田氏はホモ・ポルターンス(運ぶヒト)という視点から、ヒトとその文化を考察する。
その際使われる手法が、アフリカ、ヨーロッパ、東アジアの三つの地点を比較対照する、所謂「文化の三角測量」だ。
(引用開始)
文化を比較するのには、大きく分けて二つの方法があるといえる。
一つは、歴史上関係があったことが明らかな文化を比較するもので、たとえば日本列島の文化と、中国大陸や朝鮮半島の文化の比較がそれにあたる。その場合、影響や伝播によっておこった変化、受入れられたものと、受入れられなかったもの、なぜそうだったのか、などが関心の対象となる。
もう一つは、地理的にも文化的にも著しくへだたり、相互に直接の影響関係がまったく、あるいはほとんどなかったような三つの文化を比較するもので、この本で私が用いるのはこの方法だ。私の場合、人類学を志してからの主な研究対象地域が、日本からはじまって、西アフリカ、フランスへと広がってゆき、二○代のはじめから現在まで六〇年あまり、三つの地域を行き来して研究をつづけるうちに、ひとりでに身についた比較の方法でもある。
(引用終了)
<同書 22−23ページより>
ということで、川田氏は、前者を歴史的比較、後者を論理的、ないしは発見的比較と呼ぶ。後者においては、一つの文化だけを見ていたのでは気づかない隠れた意味を発見することができるという。
氏はこの手法、文化の三角測量(フランス文化、日本文化、旧モシ王国の比較)によって、ヒトと道具における三つのモデル、
A=道具の脱人間化(フランス文化)
B=道具の人間化(日本文化)
C=人間(人体)の道具化(旧モシ王国)
を措定する。
A=道具の脱人間化(フランス文化)
B=道具の人間化(日本文化)
については、以前「脳と身体」の項で、複眼主義の二項対比に引き寄せて論じたことがある。併せてお読みいただきたい。Aには「二重の意味での人間非依存」があり、Bには「二重の意味での人間依存」があるという指摘が重要だ。
(引用開始)
モデルAにおける「二重の意味での人間非依存」とは、第一に、人間の巧みさに依存せず、誰がやっても同じようによい結果が得られるように道具を工夫するという嗜好性と、第二に、人力を省き、畜力、水力、風力など、人力以外のエネルギーをできるだけ利用して、より大きな結果を得ようとする嗜好性に、その特徴を見ることができる。(中略)
これに対して、モデルBの「二重の意味での人間依存」の第一は、人間の巧みさによって単純で機能未分化な道具を多機能に使いこなすことであり、第二に、よい結果を得るために、人力を惜しみなく投入することである。
第一の点は、箸や船を進める艪(ろ)に、よい例を見ることができよう。第二の点は、限られた水田(灌漑による稲作は、同じ土地でいくらでも連作が可能な、まれな農法だ)で、労働生産性は無視して土地生産性を上げるための、惜しみない勤労を推奨する価値観に見ることができるだろう。
(引用終了)
<同書 102−104ページより>
前者モデルAが、西洋近代文明へ繋がることは容易に想像がつく。
モデルA=西洋近代文明はその後世界を席巻し、グローバル化していく。川田氏はそれを幾つかのステージに分け、今は第五のグローバル化時代だという。
(引用開始)
第二次大戦という人類にとって空前の破壊の後に始まった、アメリカ主導の第四次グローバリゼーションのあと、ソ連圏の崩壊以降現在までつづく第五のグローバル化には、三つの特徴を見ることができる。
その一は、対戦終結後まもなくの技術の進歩と経済的豊かさへの漠然とした夢が、地球規模での資源の枯渇や環境破壊への危機感によって消えたこと。その二は、戦後の冷戦構造が、社会主義ブロックの崩壊によって消滅し、新・自由主義経済の弱肉強食が、世界を覆うようになったこと。第三に「情報」が肥大し、金融経済だけでなく、人類の精神生活全般にとってもつ意味が、極めて大きくなったことだ。
現在世界に求められているのは、根本的なパラダイム、考え方の枠組みの変換だ。局所療法、対症療法が、いたるところで頭打ちの困難に直面している現状で、人間の技術と、ヒト=自然関係のありかたについての、パラダイムの根源的再検討と変換への模索が必要だ。
この本で見てきたように、私たちの先祖が二足歩行により、荷物を運んでアフリカを出た結果、ホモ・サピエンスは生物の単一の種speciesとしては例外的に、世界のあらゆる自然環境に適応して異常増殖した。そして私たちの個体数は、現在でも七〇億あまり、二〇五〇年には九〇億をゆうに越えると予想されている、それは、他の多くの生物種を日々絶滅させながら、私たちが一日も休まず歩きつづけている、ヒト中心に考える限り、出口の見えない道でもある。種間倫理の探求が、差し迫った現実の問題となっている一方で、宣戦布告なきヒト同士の殺し合いが、今ほど激しい時代もなかったであろう。(中略)
文化、とくに月まで到達した科学技術の進歩に人々が喝采する一方、二十世紀は未曾有の規模で、ヒト同士の大量殺戮が行なわれた世紀だ。ヒト同士が大規模に殺し合っただけでなく、「知恵のある人」がその技術力で、ヒト以外の種の生物を無制限に殺し、生態系の調和を危うくしたのも二十世紀だ。
こうした暗い未来図を前にして、私たちが抱きうるせめてもの希望は、ヒトを絶望に向かって追い立ててきたグローバルな流れの底で、あちこちにささやかな逆流をおこしてきた、それ自体決して固定されたものでない、「エスニック」なものの芽を、「グローバル」との関係で育ててゆく努力ではないだろうか。
(引用終了)
<同書 154−157ページより>
ここにある考え方は、このブログにおける「モノコト・シフト」の認識と踵を一にするものだ。「エスニック」とは、それぞれの土地(場所)の民族文化に由来するさまであり、画一的でない多様な「コト」が起きる原動力である。
モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、20世紀の大量生産システムと人のgreed(過剰な財欲と名声欲)による、「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方・考え方への関心の高まりを指す。
川田氏はこの本の最後で、われわれが「運ぶヒト」の原点に帰ることを提唱する。
(引用開始)
アフリカでは、子どもが学校へ行くときにも、本やカバンを頭の上に乗せてゆく。日本のように太陽光がつよく、暑い国で、子どものときから荷物を手に持たず、帽子代わりに頭上で運ぶ週間がひろまれば、まず間違いなく姿勢が良くなる。女性も、頭に本をのせて歩く美容体操をしなくても、靴のかかとをひきずらなくなるだろう。
リサイクル可能な植物容器の半球型ヒョウタンの器で、頭上運搬――思えばそれは、この本のはじめに描かれた、直立二足歩行を達成した「運ぶヒト」が、アフリカを旅立ってゆく姿でもあった。
自分自身の身体を使って、身の丈(たけ)に合ったものを運ぶという、ヒトの原点にあったはずのつつましさを思い出すこと――現代以降の地球に生きる私たちホモ・サピエンス、知恵のあるヒトが、その名に値するよう、他の生きものたちと一緒にさぐってゆくべき長い道のりが、私たちの前には、のびている。
(引用終了)
<同書 169−170ページより>
これはモデルC=人間(人体)の道具化の再導入でもありなかなか興味深い。
尚、ヒトと道具における三つのモデル、
A=道具の脱人間化
B=道具の人間化
C=人間(人体)の道具化
については、姉妹サイト「茂木賛の世界」で始めた文芸評論『百花深処』の<反転同居の悟り>の項でも触れた。併せてお読みいただければ嬉しい。
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