『翻訳問答』片岡義男・鴻巣友季子共著(左右社)を読んだ。副題は「英語と日本語行ったり来たり」。左右社というのはあまり見ない出版社だがこれは秀悦な本だ。二人が英語の名作小説の冒頭を翻訳し語り合う内容で、小説を読む愉しさ、書く楽しさを教えてくれる。作家と翻訳家の違いも面白い。新聞の簡単な書評を紹介しよう。
(引用開始)
英語を日本語に「翻訳」するとはどういうことなのか。「あてはめ主義」で行くとクールに語る作家・片岡と、「文体が降りてくる」という憑依体質の職人・鴻巣が、名高い小説の一場面を競訳し、互いの訳について話し合う。オースティンやチャンドラー、サリンジャーにE・ブロンテ……小説のタイプはさまざま。原作者の意図だけでなく、小説の語りそのものをくみ取り、言葉を選んでいく結果の、異なる二つの日本語文。細部にわたるやりとりは「翻訳」の本質に踏み込む。落語の「こんにゃく問答」を想起させる表題にもにんまりするが、片岡による英語題は「Lost and Found in Translation」。さて、これを日本語訳すれば?
(引用終了)
<朝日新聞 8/17/2014>
英語題名の「Lost and Found in Translation」は、ソフィア・コッポラ監督の映画「Lost in Translation」と、遺失物取扱所を意味する「Lost and Found」とを合わせた愉快なアイデアだ。「Found」が翻訳の奥深さを言い表している。
たとえば「おわりに」のなかに、金子光晴の「富士」という詩の最後の五行が、アーサー・ビナード氏の英訳と共に引用してある。
(引用開始)
雨は止んでゐる。
息子のゐないうつろな空に
なんだ。糞面白くもない
あらひざした浴衣のやうな
富士。
これをビナードさんはこう英訳しています。
The rain has let up. Overhead
The sky is empty, our son nowhere in sight.
This is shit, and on top of it all,
There’s Fuji, looking like a faded
old bathrobe.
(引用終了)
<213−214ページ>
この英訳について、片岡氏は、日本語の場合「息子のゐないうつろな空に」という文章は「息子の」「ゐない」「うつろな」が全部「空」にかかって全体が一つの名詞形になっているけれど、英訳では、いきなりOverheadという言葉がきて読者の視線を上に向かわせたあと、the sky is emty「空はからっぽだ」と空だけを問題にし、次にour son nowhere in sight と息子が問題にされ、すべてが「空」にかかってはいない、と論じる。
原文では、「雨は止んでゐる」と「息子のゐないうつろな空に」との間(の視線の移動など)を読者が補わなければならないが、英訳では、Overheadという言葉で書き手側が明示する。片岡氏は原文の方が、
(引用開始)
片岡 読む人に負担がかかりますね。最後に富士が出てきて、そこにすべての言葉が掛かっているのですから。僕は英訳のほうが好きです。言葉のならびかた、つまり機能のしかたが、当然のことですが、まるっきりちがいます。英語には輪郭や機能がはっきりした言葉のつながりがあるので、明確な前進性が出ます。
(引用終了)
<同書 215ページ>
と述べる。このあたりが翻訳による「Found」の部分なのだろう。この「前進性」という英語の特徴を示す言葉が面白い。
(引用開始)
片岡 この英訳はどの言葉もきちんと論理的に整理されていて、読者の気持ちが脇へ漏れ出す隙間がないのです。ということは、書く人も読む人も、前に進むしかないのです。
鴻巣 片岡さんの文は素材のまま読者に渡して、読者の調味してもらっているように見えます。この「富士」にもおなじ印象を持ちました。日本語原文ははじめから調味されていますが、英訳のほうは「空です、うつろです、息子はいません」とフラットに並列されていますね。
片岡 the sky is empty, のコンマの存在がまた注目です。
鴻巣 このコンマ、具体的に何も指示していませんね。
片岡 コンマによって左右に分けられた、二つの状況の並列でしょう。しかし、そうすることによって、誰も止めることのできない前進力が生まれます。
(引用終了)
<同書 215−216ページ>
これを複眼主義に引き寄せて言えば、英語は「主格中心」の言葉なので書き手が明示的に話を前進させてゆくのに対して、日本語は「環境中心」だから、書き手は後ろに下がって全体の景色が前面に出る、という違いといえるだろう。
だから、英訳では前進性を味わえるが、原文の方では、書き手と遠くに見える富士との間の、前進性のない、まったりとした空気感を味わうことが出来る。英訳ではこの空気感は後方に退く。ここは翻訳による「Lost」の部分かもしれない。
ところで英語題名「Lost and Found in Translation」は片岡訳とあるが、そうすると「英語と日本語行ったり来たり」という日本語の副題は鴻巣さんが考えたのだろうか。こちらは二人の「問答」の感じ、バイリンガル作家と翻訳家の資質の違いをうまく伝えている。
また、この本で片岡氏が述べる『「風呂に入る」という日本語の意味が子どもの僕にはわからなかった』という話は、『日本語と英語』片岡義男著(NHK出版新書)にも載っている。併せて読むと日本語と英語の違いに関する興味が深まると思う。
『日本語と英語』に関しては、以前「いつのまにかそうなっている」と「現在地にあなたはいない」という二つの記事を書いた。こちらも参考にしていただけると嬉しい。
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