以前「議論のための日本語 II」の項で、『話し言葉の日本語』井上ひさし・平田オリザ共著(新潮文庫)という本を紹介し、そこにある「議論のための日本語」に関する井上のことばを紹介したが、この本には、日本語における助詞について(同じく井上の)次のような指摘がある。
(引用開始)
井上 時枝文法では、助詞は表現される事柄に対する話し手の立場の表現だといっていますね。たとえば甲という少年が勉強している、乙も丙も勉強しているとします。そうすると、甲につく助詞によって意味が変わってくるという。
「甲は勉強している」
「甲が勉強している」
「甲も勉強している」
「甲でも勉強している」
「甲だけ勉強している」
「甲まで勉強している」とかいろいろあるわけです。僕はこれを最初に読んだときは感動しましたね(笑)。時枝さんの説は、助詞に関しては非常に正確な定義だと思うんですけど、そのへんから平田さんのせりふは始まっている。たとえば、
「私は、あなたを、愛します」
という主語+述語というせりふは日本語ではあまり言わないで、むしろ、
「わかる?」「……好きだよ」
とか言う。簡単にいうとそれが口語ではないかと。つまり、現代口語演劇というのは大変なネーミングですが、名詞、動詞を外し、むしろ、いままで「おまけ的」扱いに思われていた付属語を重要視する。実際、そうした付属語が、普通の日本人の普通の会話のなかで主役を演じているのではないかというのが、平田さんの日本語論のひとつなわけです。
(引用終了)
<同書 54−55ページ>
日本語においては、助詞(や助動詞)の果たす役割がとても大きいという指摘だが、助詞(や助動詞)について、その歴史的変遷も含め縦横に論じたのが、『日本語で一番大事なもの』大野晋・丸谷才一共著(中公文庫)という本だ。
この『日本語で一番大事なもの』という対談本の中に、「主格の助詞はなかった」という章がある。複眼主義では、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
という対比を掲げ、日本語は、英語のような「主格中心」の発想よりも、「環境中心」の発想が基本であると論じてきたが、助詞の研究からもそのことが言えるようなので、以下引用したい。
(引用開始)
丸谷 中学校のときの国文法では、係り結びといえば、「ぞ」「なむ」「か」「や」「こそ」だけで、「は」「も」が係りの助詞だなんてことは教わりませんでした。それで、「は」はなんとなく主格の助詞だと思っていたわけですね。ですから最近の国文法で、「は」「も」が係助詞になっていると聞いてびっくりしていたんですが、今度勉強して、なるほどそうなのかな、という気になってきたところです。(中略)「は」が主格の助詞だとわれわれが漠然と思っていたのは、あれは英文法の影響なんでしょうか。
大野 そうですね。明治時代から後に、英文法をもとにして、大槻文彦が日本語の文法を組み立てた。そのときに、ヨーロッパでは文を作るとき主語を必ず立てる。そこで「文には主語と述語が必要」と決めた。そこで、日本語では主語を示すのに「は」を使う、と考えたのです。ヨーロッパにあるものは日本にもなくてはぐあいが悪いというわけで、無理にいろんなものをあてはめた。(中略)
丸谷 つまりヨーロッパ風の意味では、日本語には主語というものがない。それを、「文」である以上なければおかしいというのでむりやりこしらえたんですね。(中略)
(引用終了)
<同書 186−187ページ>
ということで、大野によれば、日本語の助詞「は」は、その上にくる言葉をそれが話題であること提示し、下に答えを求める形式であるという。
(引用開始)
大野 要するに古来日本では、「は」の上にくる言葉(その表す物体でも、性質でも、何でも)は話題になって出てくる。これは目的語でもいい。たとえば「(ワインの)白は好きじゃない」というと「白」は目的語ですね。それから「アメリカは行ったことがない」「ヨーロッパは行ったことがある」という場合は、「アメリカには行ったことがない」「ヨーロッパには行ったことがある」ということで、「は」は場所格です。だから「は」は、動作の主をいう主格だとか、処分の対象をいう目的格だとか、あるいは場所格だとかいった、格には特別の限定はないいんです。「白は」というと、それは一種の問題提起なんで、その問題に何か答えなければならない。「飲みます」とか、「飲みません」とか、「好きです」とか、「嫌いです」とか。だから「は」は「は」の上の言葉(「は」の指す実態)を問題として提起し、下に答えを求める形式なんです。これが「は」の根本なんです。
(引用終了)
<同書 194−195ページ、傍点省略>
というわけだ。明治以降、英文法をもとにして「文には主語と述語が必要」と決め、日本語では主語を示すのに「は」を使うとしたけれど、それは日本語の実態とはかけ離れた卓上の空論だった。
日本(語)人は今も、様々な助詞(や助動詞)を使いながら、提示される事柄(環境)に対する話し手の立場を表現し続ける。「近代西欧語のすすめ」の項で述べたように、近代日本語は、日常会話のみならず公的議論においても、その発想が「環境中心」のままなのだ。
この『日本語で一番大事なもの』という本には、これ以外、係り結びや已然形、「かも」と「けり」、「か」と「や」、「ぞ」と「が」などなど、助詞に関する様々な研究成果が語られている。日本語を支えるいろいろな助詞(や助動詞)の役割について、これからもこの本を繰り返し読んで理解を深めたい。
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