前回「虚の透明性とモダニズム文学」の項で紹介した作家丸谷才一(本名根村才一)は、自身多くの書評を執筆するとともに、毎日新聞社の書評欄「今週の本棚」の充実を図ったことで知られる。書評は本の紹介として役立つばかりではなく、社会の文化水準を示すというのが氏の考え方だった。今回は、その考え方のエッセンスを「書評文化」と題して紹介してみたい。
『ロンドンで本を読む』丸谷才一篇著(マガジンハウス)にある、氏の「イギリス書評の藝と風格について」という文章(前書き)から引用しよう。冒頭の「そんな事情」とは、イギリスの雑誌ジャーナリズム事情のこと。
(引用開始)
そんな事情で読まれる記事だから、書評はまず本の紹介であった。どういふことがどんな具合に書いてあるかを上手に伝達し、それを読めば問題の新著を読まなくてもいちおう何とか社会に伍してゆけるのでなくちやならない。(中略)
紹介に次に大事なのは、評価といふ機能である。つまり、この本は読むに値するかどうか。それについての諸評価の判断を、読者のほうでは、掲載紙の格式や傾向、諸評価の信用度などを参照しながら、受入れたり受入れなかったりするわけだ。(中略)
そして書評家を花やかな存在にするのは、まず文章の魅力のゆゑである。イーヴリン・ウォーの新聞雑誌への寄稿は、流暢で優雅で個性のある文章のせいで圧倒的な人気を博したと言はれるが、この三つの美質(流暢、優雅、個性)は、たとへウォーほどではなくても、一応の書評家ならばかならず備えているものだらう。(中略)
しかし紹介とか評価とかよりももつと次元の高い機能もある。それは対象である新刊本をきつかけにして見識と趣味を披露し、知性を刺激し、あはよくば生きる力を更新することである。つまり批評性。読者は、究極的にはその批評の有無によってこの書評者が信用できるかどうかを判断するのだ。この場合一冊の新刊書をひもといて文明の動向を占ひ、一人の著者の資質と力量を判定しながら世界を眺望するといふ、話の構への大きさが要求されるのは当然だらう。
<同書 6−9ページ>
ここで丸谷は、本の紹介、本の評価、文章力、批評性の四つを書評の基準として挙げているわけだが、特に最後の「批評性」は、前回の項で挙げた氏の作品の特徴、
1.古典に新たな光を当てようとする(源氏物語や忠臣蔵など)
2.言葉への拘り(旧仮名や多彩なレトリックの使用)
3.社会のあり方への提言(社交や挨拶の重視、書評やエッセイの執筆)
の中の3.と直結する指摘・要請だ。
評論家の湯川豊氏は、丸谷才一のこの前書きについて、『書物の達人 丸谷才一』菅野昭正・編(集英社新書)の中で次のように書いている。
(引用開始)
「イギリス書評の藝と風格について」は、日本の書評家たちのかっこうな指南書であるとともに、丸谷さんが、イギリスの書評のどこに心ひかれていたのかを、おのずから明らかにしてもいます。
ジョン・レイモンドというジャーナリスト批評家の書評を格別に愛好し、それを読むことで、「社会に背を向けずに本を読むイギリス人の生き方を知つた」と書いています。丸谷さんの持論、たびたび引用した「書評といふジャーナリズムこそ社会と文学とを具体的に結びつけるもの」という思想が、レイモンドの評価のすぐ後ろにつづいているのは、いうまでもありません。
丸谷さんはまた、シリル・コナリーという批評家が書いた書評にふれて、次のようにいいます。
「これならば、クロスワード・パズルに飽きて何の気なしに書評欄を覗いた旅行者に、列車それとも飛行機から降りたらすぐ本屋へゆかうと決意させることができる。書評といふのは、このやうな、藝と内容、見識と趣味による誘惑者の作品でなければならない」(「書評と『週刊朝日』」)
丸谷さんの書評論はすべて、読者の存在が強く意識されているのですが、ここでも私たちはその一例に出会うのです。おそらくそれは、文学が社会から遠く離れて存在しているのではない、社会のなかでふつうの人びとに読まれてはじめて存在しうるのだ、という丸谷才一の文学観に深いところで結びついていることなのです。
また別のところでの、次のような発言もあります(「本好きの共同体のために」)。
書評はもともと孤独な作品ではない。著者、訳者、編者、編集者、批評家、読者などが形づくる読書共同体があってはじめて成立する読物なのである。上質な共同体がしっかりと存在しているとき、書評というものが同時に文明批評となることができる。
(引用終了)
<同書 92−94ページ>
丸谷は「社会のあり方への提言としての書評文化」といったものを理想と考えていたわけだ。書評というものを、これほどはっきり社会と関連付けて定義した人は(日本では)今までいなかったのではないか。
このブログでもこれまで多くの本を紹介してきた。これからも四つの基準を念頭に筆を磨いてゆこうと思う。丸谷才一の書評の纏まったものとしては、
『快楽としての読書[海外篇]』(ちくま文庫)
『快楽としての読書[日本篇]』(ちくま文庫)
『快楽としてのミステリー』(ちくま文庫)
の3冊がさしあたり手近だ。丸谷の書評を読みながら、日本社会や文明の行く末などについていろいろと考えを巡らせたい([海外篇]の最後、「書評のカノン」と題した解説文のなかで、仏文学者鹿島茂氏も「イギリス書評の藝と風格について」を引用している)。
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