「虚の透明性」の項で述べた、二つの透明性と西欧近代文明の話を続けたい。隈研吾氏はその本『僕の場所』(大和書房)のなかで、アメリカを中心とした20世紀の西欧近代建築は、「実の透明性」を追求したが「虚の透明性」はあまり追求しなかったと述べている。その箇所を引用しよう。
(引用開始)
コルビュジエやミースの建築はヨーロッパ近代という特殊な時代の産物ですが、同時にまたコルビュジエ達の眼は、アメリカという新しい場所、時代を向いていました。モダニズム建築は、20世紀という、アメリカがリードする新たな高度成長の時代のための、便利な建築様式でもあったのです。
コルビュジエにもミースにも、ヨーロッパの時代が終わり、アメリカの時代が始まろうとしていることがはっきりと見えていました。19世紀的で産業革命的な工業ではなく、大量生産を基本とするアメリカ的な工業が20世紀の覇権を取ることが、彼らにははっきりと見えていたのです。(中略)
彼ら二人は、「虚の透明性」の表現だけではなく、「実の透明性」の表現にもたけていたので、アメリカでもてはやされたのです。ガラス、細い鉄、薄いコンクリートなどの最先端の工業製品によってもたらされる実際の透明感を、見事に建築デザインへと昇華させたのです。結果として、コルビュジエもミースも、日本を含む新世界で大いにもてはやされ、最終的には20世紀の巨匠という特別な扱いを受けるわけです。(中略)
コーリン・ロウから「虚の透明性」を教わったせいで、コルビュジエやミースに対する違和感は少し薄れましたが、それで彼らにのめり込んだわけでもありません。彼らの中の「実の透明性」の部分、アメリカ受けを狙った部分、ガラスっぽい部分、コンクリートっぽい部分、鉄っぽい部分を、どうやったら消していけるのだろうか。学生時代の僕はぼんやりとそんなことを考えていました。もちろん、解決策がすぐに思い付くわけでもなく、拒否のもやもやとした気分だけが続いていました。
(引用終了)
<同書 192−194ページ>
「拒否のもやもやとした気分だけが続いていた」隈氏は、その後(本のタイトルからもわかるように)「場所」を大切に考える建築家となった。そのことはこれまで「場所のリノベーション」や「場所の力」の項で述べてきた。「場所」は、「実の透明性」よりも「虚の透明性」の概念と親和性がある。「虚の透明性」は、自分の今の居場所を大切にしなければ見えてこない。
「21世紀の文明様式」の項で述べたように、「平等志向」と「陋習からの開放」などによって進展したはずの西欧近代文明は、21世紀に至り、バロックを通り越してグロテスクな様相を呈してきた。その理由の一つは、20世紀を牽引したアメリカが、分りにくい「虚の透明性」よりも、分りやすい「実の透明性」を偏重しすぎたせいだと思われる。ガラスや鉄筋コンクリートを使った高層ビルの乱立するニューヨークが、20世紀における「近代=モダン」の中心地となった。実の透明性の偏重、過度の平等志向は、「自由化」の名の下における結果の不平等放置とgreedを生んだのではないか。
これからは、大量生産されたモノよりも、その場その場で起きる一回性のコトを大切に考える「モノコト・シフト」の時代である。そういう時代には、コトが起こる場所を大切に考える「虚の透明性」という概念が重要性を増してくる筈だ。隈氏の建築が、日本のみならずアメリカやヨーロッパ、中国など世界各地で人気なのは、彼の創り出す「虚の透明性」空間が評価されてに違いない。
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