『僕の場所』隈研吾著(大和書房)という本を読んでいたら、「虚の透明性」という言葉があった。レイヤーを上手く重ねることで奥行きを感じさせる絵画や建築を指す言葉らしい。英語では「Phenomenal Transparency」。
この言葉は、建築史家のコーリン・ロウが『マニエリスムと近代建築』という著書の中で使ったもので、ガラスなどの実の透明性(Literal Transparancy)と対になる概念だという。『僕の場所』から引用しよう。
(引用開始)
一つはガラスやアクリルのような、実際に透明な素材を使うことによって獲得できる透明性で、彼はそれを「実の透明性」と名付けました。
もう一つの透明性は、実際には透けていないにもかかわらず、空間構成のトリックによって、幾つかの層(レイヤー)状の空間が重なることで感じられる透明性で、これをロウは「虚の透明性」と名付けました。
(引用終了)
<同書 189ページ>
近代建築の特徴には、
1.実の透明性(Literal Transparancy)
ガラスやアクリルなどを使った透明で均等な空間
2.虚の透明性(Phenomenal Transparaency)
レイヤーを上手く重ねることで奥行きを感じさせる空間
の二つがあるというわけだ。
隈氏はこの「虚の透明性」という言葉を、評論家吉田健一が『ヨオロッパの世紀末』の中で使った「近代=モダン」の定義と重ね合わせる。再び『僕の居場所』から。
(引用開始)
僕は吉田健一から「近代=モダン」というものを教え込まれました。一言で言えば、それは「たそがれとしての近代」です。19世紀を吹き荒れた産業革命と高度成長の嵐の後に来たのが「近代」です。「新しい世界」を作ろうとするユートピア精神が支配した19世紀の後に、「近代=モダン」という成熟した静かな時代が来たというのが、吉田による「近代=モダン」の定義です。
(引用終了)
<同書 188ページ>
隈氏はこの「たそがれとしての近代」を「虚の透明性」と重ね合わせ、
(引用開始)
「虚の透明性」という概念は、僕にとって腑に落ちるものでした。それは「近代=モダン」という時代の根底にある、重要な概念です。「たそがれ」の時代には、すべてが重なって見えるのです。ロウはその意味で、僕が目指す「たそがれ」の時代の建築の姿を暗示してくれた、大切な恩人です。
現在の中に過去があり、現在の中に未来がある。自分の中にも他人があり、他人の中にも自分がいる。そのような重層性こそが、「近代=モダン」という「たそがれ」の時代の本質です。(中略)
過去と現在が重層し、近くと遠くのものが重層する状態こそが、「近代=モダン」という時代のすべての領域に共通する特質なのです。
(引用終了)
<同書 190−191ページ>
と述べる。
「実の透明性」と「虚の透明性」、近代建築を巡るこの二つの概念の対比は面白い。西欧近代文明の特徴(旗印)には「平等志向」や「陋習からの開放」などあるが、オープンな情報公開を前提とする「平等志向」は実の透明性、自分の居場所から複雑な歴史を見通すことが必要な「陋習からの開放」は、虚の透明性の概念と重なるように思う。
1.実の透明性(Literal Transparancy)
・ガラスやアクリルなどを使った透明で均等な時空
・平等志向
2.虚の透明性(Phenomenal Transparaency)
・レイヤーを上手く重ねることで奥行きを感じさせる時空
・陋習からの開放
「実の透明性」は目に見えるので分りやすい。「虚の透明性」はオープンに見通せないので、どちらかというと分りにくい。平等志向は誰にでもわかるが、陋習からの開放は、自分の居場所が分らないと把握できない。陋習という「思考の歪み」に浸っている人には、その陋習自体を客観視できないからだ。
一方、テーマは違うが、複眼主義でいう「脳の働き」「身体の働き」と、二つの透明性の関連も指摘できそうだ。「公(Public)」の役割を担う「脳の働き」は実の透明性、「私(Private)」で複雑な「身体の働き」は虚の透明性という具合。
A 「都市」−「脳(大脳新皮質)の働き」−「実の透明性」
B 「自然」−「身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き」−「虚の透明性」
これら二つの透明性と西欧近代文明、複眼主義などについて、さらに項を改めて考えてみたい。
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