前回「荷風を読む IV」の項で紹介した『おとめ座の荷風』持田叙子著(慶応義塾大学出版会)に、荷風の『帰朝者の日記』という小説の登場人物春子に関して、次のような文章がある。
(引用開始)
春子は音楽会に和服の最たる正装、美々しい三枚重ねで現われる。それでいて、アメリカの青年と英語で楽しく語らう。欧米の高官貴婦人に囲まれてまったく物怖じしない。この輝かな奇跡に自分(主人公)は打たれる。ちなみにこの春子登場にひそかに深く感動した読者がいる。三島由紀夫である。三島は春子の悠然としたおもかげを、あきらかに自作『春の雪』のヒロイン聡子に映した。
聡子は、三島のいたく愛して手のとどかなかった高貴な女性を描くと伝わる。作者の至上のヒロインであることは間違いない。その聡子が恋人に招かれ、劇場へ歌舞伎を見にゆく場面に注目したい。荷風文学を敬愛する三島は、ここで歴然と『帰朝者の日記』における春子登場のイメージを活用する。
シャンデリアきらめくロビーで聡子は、幼なじみの恋人・清顕がその留学を世話するシャムの王子たちに紹介される。聡子は英語を話さない。しかしいささかも悪びれず、「京風の三枚重ねを」ゆるゆると着こなした姿で王子たちに挨拶する。黙って花のように立つだけで、彼らを圧倒する。
その高貴な態度に異国の貴公子ふたりは魅せられ、彼女は日本で会ったもっともうつくしい人だ、君はなんと幸せな男かと清顕にささやく。清顕は聡子を新鮮に見直し、身を捨ててもの恋に落ちる。聡子は世界のどこにも通ずる社交性を自ずとわきまえる。荷風と三島は共通し、こうした和洋の段差をものともしない豪胆な貴種女性と恋に流される夢想を持つ。
(引用終了)
<同書 151−152ページ(括弧内は引用者註)>
私もかねてから三島由紀夫(本名平岡公威)には、こうした知的な若い日本女性を主人公にした作品が少なからずあることに気づいていたので、持田さんの「荷風と三島の共通性」の指摘に我が意を得たりと思った。そういう作品を辿ると、三島にも女性党作家としての資格があるように思う。今回はそれらを幾つか紹介してみたい。女性党作家とは「女性性を敬愛し、日本女性の自立を支持・応援する作家」といったほどの意味で、平和と女性(おとめ)のイノセンスを愛するという意味で「少女党」とも。
(1)『夏子の冒険』(角川文庫)
藝術家志望の若者も、大学の助手も、社長の御曹司も、誰一人夏子を満足させるだけの情熱を持っていなかった。若者たちの退屈さに愛想をつかし、函館の修道院に入ると言い出した夏子。嘆き悲しむ家族を尻目に涼しい顔だったが、函館に向かう列車の中で見知らぬ青年・毅の目に情熱的な輝きを見つけ、一転、彼について行こうと決める。魅力的なわがまま娘が北海道に展開する、奇想天外な冒険物語! 文字の読みやすい新装版で登場。(文庫本のカバー裏表紙より。解説は千野帽子さん)
初版:1951年
三島は永井荷風と同じように、優しい母親に育てられた。しかし三島には幼い彼を溺愛した祖母がいて、そのころは母親からも離され遊ぶのに外にも出してもらえなかったという。その祖母の名前が夏子だった。荷風にも幼い頃祖母に育てられた時期があるけれど、それはむしろ徳川日本の遺風を享受する楽しい時間だったようだ。溺愛され鬱陶しくもあったけれどそれなりに敬愛した祖母を、魅力的なわがまま娘に仕立てて遊ぶ三島の悪戯心が面白い。
(2)『恋の都』(ちくま文庫)
26歳、才色兼備の朝比奈まゆみはジャズバンドのマネージャーだが、根っからのアメリカ嫌い。彼女の恋人五郎は過激な右翼団体の塾生だったが、敗戦と共に切腹したという。ジャズバンドに打ち込むことで辛さをまぎらわそうとしていたまゆみの下へ届けられた、一本の白檀の扇が運命を変える。敗戦後の復興著しい東京を舞台に、戦争に翻弄される男女の運命を描く。(文庫本のカバー裏表紙より。解説は千野帽子さん)
初版:1954年
1951年から52年にかけて三島は、北米、南米、ヨーロッパを巡る世界旅行をしている。この作品は帰国後に書かれたもの。
(3)『幸福号出帆』(ちくま文庫)
「私たちは幸福号という船(この船の名は誰にも秘密にして下さい。そうしないと私たちの身が危険になります)に乗って、日本を離れます。……」密輸に手を染め、外国へ高飛びせざるを得なくなった敏夫と義理の妹三津子。二人の幸福号とは? 恋とスリルとサスペンスに満ちたエンターテインメント。フランス伝統の物語形式を取り入れた実験小説でもある。(文庫本のカバー裏表紙より。解説は鹿島茂氏)
初版:1956年
三島は戦後すぐの混乱期に三歳年下の妹をチフスで亡くす。どこかで彼は妹の死の方が日本の敗戦よりもショックだったと書いていた。その妹の名前が主人公の女性と一字違う美津子。そういえは兄の敏夫も由紀夫と音が似ている。
(4)『お嬢さん』(角川文庫)
大海電機取締役の長女・藤沢かずみは20歳の女子大生、健全で幸福な家庭のお嬢さま。休日になると藤沢家を訪れる父の部下の青年たちは花婿候補だ。かすみはその中の一人、沢井に興味を抱く。が、彼はなかなかのプレイボーイで、そんな裏の顔を知り、ますます沢井を意識する。かすみは「何一つ隠し立てしないこと」を条件に、沢井と結婚するが…。結婚をめぐる騒動を描く、三島由紀夫エンターテインメントの真骨頂、初文庫化!(文庫本のカバー裏表紙より。解説は市川眞人氏)
初版:1960年
以上四冊、どれもエンターテイメント系の小説だが、知的で行動的な日本女性の美徳を描いており、三島の女性党作家としての資格は充分にあると思う。少女党としての荷風の原点が、優しい母や祖母、鷗外・一葉といった先達作家達、西洋体験などとすれば、三島のそれは、優しい母親、早世した妹、鷗外・荷風などの先行作家、世界旅行といったところだろうか。
女性党作家であることの裏付けとして、女性による三島由紀夫の解題(解説や評論・評伝)が多くあることもここに指摘しておきたい(勿論男性によるそれも無数にあるけれど)。例としては、上に挙げた『夏子の冒険』や『恋の都』の解説者千野帽子さん、『三島由紀夫 神の影法師』(新潮社)の著者田中美代子さん、『三島由紀夫の来た夏』(扶桑社)の横山郁代さん、『三島由紀夫 悪の華へ』(アーツアンドクラフツ)の鈴木ふさ子さん、『三島あるいは空虚のヴィジョン』(河出書房新社)のマルグリッド・ユルスナール、『三島由紀夫と檀一雄』(構想社)の小島千加子さんなどなど。
さて、ここでは触れないけれど、三島の本格小説にも「女性党作家」面目躍如の小説はある。それはまた別の機会に論じることとしたい。