先日「街場の建築家」の項の最後に、「(直系家族ではなく)核家族や新しい家族の価値観を良く消化・吸収しておく必要があると思う」と書いた。今回はその「核家族」の価値観について考えてみたい。
「家族類型から見た戦後日本」の項にあるように、核家族型の特徴は、親子関係が権威主義的でないことだ。親が子を導くのは権威によってではなく自らの価値観によってである。親子関係を一般的組織に広げて考えれば、メンバーを導くのはリーダーの理念や価値観であり、それが明確に示されれば組織は健全に働く。逆に親やリーダーの価値観が偏っていれば子供や組織はうまく育たない。
次に、核家族は横で見守る親族がいないから、集団との軋轢(あつれき)に対するバッファーとして、local communityの役割が重要だ。それがないと、親子だけで集団と対峙せざるを得ない。親の力が弱いと子供は(親も)集団圧力に負けてしまう。組織もスタート時単独では弱いからそれを保護する機構を必要とする。local communityは多様な価値観の交流・発展の場としても重要。
また、権威によらない価値の伝達には、相手をリラックスさせて納得してもらう必要がある。そのためにはユーモアが欠かせない。以前「現場のビジネス英語“sense of humor”」の項で欧米人のユーモアを幾つか拾い出したことがあるので参照して戴きたい。
日本は戦前まで直系家族型だったから、こういった親の価値観の自律性、local communityの役割への認識が甘い。親は外の権威(世間の評判や学校教育、宗教の教えや統治者の指示)によって子を導くことが多く、親子は集団との軋轢に裸で対峙させられ、その圧力に負けることが多い。組織における外の権威にはOBの圧力や古い習慣なども加わろう。いまでも学校などでは真面目で冗談を言わない生徒の方が信用される傾向がある。
核家族の具体例を欧米文学に探すと、アメリカのローラ・インガルス・ワイルダーが書いた『大草原の小さな家』という児童小説がまず念頭に浮かぶ。テレビドラマにもなったから覚えている方も多いだろう。映画でいうと『サウンド・オブ・ミュージック』で、マリアがトラップ大佐と結婚したあとのトラップ・ファミリー。日本の歌では吉田拓郎の「落陽」という曲に直系家族にない生き方の芽生えを感じる。
核家族における価値観を消化・吸収しないと、これからの日本の家族や組織はやってゆけないと思う。直系家族にあった家長の権威がまだ残っていてそれに守られる家族や組織もあるだろうが、戦後、直系家族の家長の権威は法制度的に消滅しているからだ。精神的に自立して理念を子供に伝える、対話する、ユーモアのセンスを欠かさず、local communityを大切にして自ら参加する、そういった人が増えると良いと思う。
さて、以前「近代家族」の項で、近代以降の家族を指す社会学の用語として「近代家族」という言葉を紹介し、その特徴を、
1.家内領域と公共領域の分離
2.家族成員相互の強い情緒的関係
3.子供中心主義
4.男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5.家族の団体性の強化
6.社交の衰退
7.非親族の排除
8.核家族
と記したことがある。これは西洋近代の特徴のひとつである「資本主義」の労働者家族にフィットした家族形態で、欧米の核家族を祖型としている。戦争に負けて核家族化した日本以外でも、それまで直系家族や共同体家族型だった西側社会の多くが資本主義の徹底化でこのように形態変化した(日本同様それまでの家族類型の特徴を保ちつつ)。しかしこれは後期近代に至り制度疲労を起こしてきた。そこでモノコト・シフト時代の家族について、「新しい家族の枠組み」の項で、
1.家内領域と公共領域の近接
2.家族成員相互の強い理性的関係
3.価値中心主義
4.資質と時間による分業
5.家族の自立性の強化
6.社交の復活
7.非親族への寛容
8.大家族
といった特徴を挙げた。ここでいう大家族とは家族類型としての直系家族や共同体家族を指すのではなく、local communityによりオープンな家族形態をイメージしている。この新しい家族の価値観については、項を改めて考えてみたい。