夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


後期近代 II

2022年07月30日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 今年3月にアップした「家族類型から見た戦後日本」の項との繋がりで、フランス家族類型学者エマニュエル・トッド氏の『第三次世界大戦はもう始まっている』(文春新書、2022年6月初版)という本を読んだ。まず本の帯表紙とカバー表紙裏、帯裏表紙の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

「米国は“支援”することでウクライナを“破壊”している」
現代最高の知性が読み解くウクライナ戦争

「第三次世界大戦はもう始まっている」
本来、簡単に避けられたウクライナ戦争の原因と責任はプーチンではなく米国とNATOにある。事実上、米露の軍事衝突が始まり「世界大戦化」してしまった以上、戦争は容易に終わらず、露経済よりも西側経済の脆さが露呈してくるだろう。

・この戦争は第二次大戦より第一次大戦に似ている
・戦争の原因と責任は米国とNATOにある
・「手遅れになる前にウクライナ軍を破壊する」が露の目的だった
・反露に固執するポーランドの動きに注意せよ
・ノルド・ストリーム2の停止は米国の悲願だった
・独仏は“真のNATO”に入っていない
・「欧州と日本をロシアから離反させる」が米国の戦略だ
・人口が流出していたウクライナは戦争前から「破綻国家」だった
・ロシア経済よりも西側経済の脆弱さが露呈するだろう
・超大国は一つだけより二つ以上ある方がいい
・米国の“危うい行動”こそ日本にとって最大のリスクだ

(引用終了)

 このブログでは、「後期近代」の項で、
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 西洋で発祥した「近代」の特徴は、

〇 個の自立
〇 機会平等
〇 因習打破
〇 合理主義
〇 地理的拡大
〇 資本主義
〇 民主政治

といったことだが、これが徹底化した「後期近代」の特徴は、

〇 貧富の差の拡大
〇 男女・LGBT差別
〇 自然環境破壊
〇 デジタル・AI活用、高齢化
〇 グローバリズム
〇 金融資本主義
〇 衆愚政治

となるだろうか(項目の順番同士、ゆるい因果関係・進展関係で結ばれるように配置した)。この間、良いことも沢山あったが、徹底化して煮詰まった結果はあまり美しい状態とはいえない。
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と書き、「近代」から「後期近代」への変遷を、
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 個の自立、機会平等、因習打破によって起こされた産業は新たな富を生みだしたが、欲望を肯定し男性優位の競争社会を是とした資本主義は、結果的に富者と貧者とを分けた。キリスト教精神を伴った地理的拡大は、自然を征服の対象としか捉えず、現地国を植民地化・属国化してさらに産業を伸ばした。合理主義による科学の発展は人の寿命を延ばし、富者は家や車、ファッションなどの物質(モノ)によって貧者との差別化を図るようになった。権力を握った富者は、金融と情報の操作を通じて貧者を支配する術を得た。
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と纏め、さらに、
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 「後期近代」の先に見える未来の姿は、negativeに考えると、

● 高度監視社会
● 政治の不安定化(監視社会への人々の反撥)
● 災害の頻発(恐慌やパンデミックを含む)

といったものになるだろうが、モノコト・シフトが行き渡り、かつ複眼主義でいうAとBのバランスが取れれば、

● local communityの充実
● 継続民主政治による社会の安定
● 自然環境の保全

といったことが実現する可能性もある。(中略)

 暗い未来(前者)と明るい未来(後者)は、モノコト・シフト進行の地域差・時間差、その国(国語)のABバランス、近代化の進み具合や社会構造などに応じて、当面地球上の各地域にモザイク状に分布するものと思われる。最終的にどちらが優位に立つのかはまだわからない。
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と書いた。

 フランス人のトッド氏が語る世界情勢は、後期近代の暗い未来の方を予感させる。たしかに「空間(space)と場所(place)」の項でみたセキュリティ管理された空間(space)の増殖、サイバー空間の監視強化、ウクライナ戦争、日本の元首相の暗殺、コロナウイルスの猖獗、などを併せ見ると、世界はnegativeの方向に進んでいるように思える。

 とはいえまだ勝負がついたわけではないだろう。「界とハビトゥス」の項などで紹介した『建築家の解体』松村淳著(ちくま新書)にある「街場の建築家」のように、positiveな未来へむけた仕事をしている人も多い筈。暗い未来と明るい未来のせめぎ合いは続いている。後者の実現に向けて何をすべきかさらに考えたい。

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posted by 茂木賛 at 09:46 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

空間(space)と場所(place)

2022年07月29日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「界とハビトゥス」の項で参照した『建築家の解体』村松淳著(ちくま新書)にある、<空間(space)と場所(place)>という概念についても言及しておきたい。これは先日「後期近代」の項で引用したイギリスの社会学者アンソニー・ギデンズの概念で、当ブログで提唱している複眼主義のAとBの対比と重なるように思う。まず同書から引用しよう。

(引用開始)

 後期近代論においては、近代の特質の一つとして「時間と空間の分離」が挙げられているが、それに関してギデンズは以下のように述べている。

  前近代社会では、ほとんどの人にとって、社会生活の空間的特性は「目の前にあるもの」によって――特定の場所に限定された活動によって――支配されていたため、場所と空間はおおむね一致していた。モダニティの出現は、「目の前にない」他者との、つまり、所与の体面的相互行為の位置的に隔てられた他者との関係の発達を促進することで、空間を無理やり場所から切り離していった。

 ギデンズは「空間(Space)と「場所(Place)」を区別して述べているが、この区別は重要である。
 空間と場所(引用者註:場所と空間か)のそれぞれの特性については、ポストモダン地理学という分野において盛んに研究されてきたが、ここで両者の違いを簡単に確認しておこう。前者が(自分自身の)身体を中心に認識された具体的な空間の広がりであるのに対して、後者では、任意の点を中心にして、そこから広がりを持つ抽象的なものとして定義できる。
 さらに言い換えれば、場所は個人のアイデンティティに紐付いたかけがえのないものである。たとえば、社会学者の金菱清は「場所性」という言葉に「そこでなければ」というルビを振っているが、そのことからも場所の性格の創造がつくのではないだろうか。典型的な「場所」としては、生まれ育った家や、近所の公園や学校や児童館、あるいは商店街のなじみの店などが挙げられるだろう。
 一方、典型的な「空間」の例としては、郊外の巨大なショッピングモールやコンビニエンスストア、全国チェーンの店などを挙げることが出来る。こうした空間の特徴は、消費を主目的としていること、そして、監視カメラや警備員によって厳重にセキュリティ管理されていることなどが挙げられるだろう。ただ、近年では、ショッピングセンターのフードコートなどは、地元の中高生にとって場所に近い存在になっていることは指摘しておくべきだろう。

(引用終了)
<同書 182−183ページ>

松村氏は、後期近代は場所(place)よりも空間(space)を重視するが、それを飽き足らなく思う建築家は、空間(space)よりも場所(place)を大切にするとして、そういう建築家を「街場の建築家」と呼び、同書後半で紹介している。

 このブログでは複眼主義を提唱しているが、ギデンズの空間(space)と場所(place)の対比は、複眼主義のAとBの対比と重なるように思う。複眼主義のAとBとは、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

などの内容を指し、複眼主義では両者のバランスを大切に考える。ただし、
・各々の特徴は「どちらかと云うと」という冗長性あり。
・感性の強い影響下にある思考は「身体の働き」に含む。
・男女とも男性性と女性性の両方をある比率で併せ持つ。
・列島におけるA側は中世まで漢文的発想が担っていた。
・今でも日本語の語彙のうち漢語はA側の発想を支える。

空間(space)と場所(place)を複眼主義で考えれば、抽象的な空間(space)はA側に属し、身体的な場所(place)はB側に属す。

 「後期近代」の項でも述べたように、このブログでは、今の時代に見える傾向を「モノコト・シフト」と呼んでいる。モノコト・シフトとは、20世紀の「大量モノ生産・輸送・消費システム」と人のgreed(過剰な財欲と名声欲)が生んだ、「行き過ぎた資本主義」(環境破壊、富の偏在化など)に対する反省として、また、科学の「還元主義的思考」によって生まれた“モノ信仰”の行き詰まりに対する新しい枠組みとして、(動きの見えない“モノ”よりも)動きのある“コト”を大切にする生き方・考え方への関心の高まりを指す。複眼主義でいえば、“モノ信仰”は所有原理のA側の偏重、“コト”を大切にするとは、関係原理のB側を大切にするということで、それは空間(space)よりも場所(place)を大切にする「街場の建築家」の態度につながる。

 松村氏の考えるあたらしい建築家像が、このブログの複眼主義とモノコト・シフトと整合的であることに我が意を強くする。これからもこれらのコンセプトを使って後期近代の先を展望したい。

 尚、時間と空間の分離については、以前「時空の分離」(8/9/2013)の項で、アインシュタインの特殊相対性理論が時間と空間の分離を説明したとし、それが近代のパラダイムであるところの「空間重視」に科学的なお墨付きを与えたと論じたことがある。

 また、場所(place)と空間(space)をバランスよく配置する街づくりについて、先日「店の3分類」という項で、ローカル、チェーン、ニューウェーブという言葉を使って提案したことがある。併せてお読みいただければ嬉しい。

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posted by 茂木賛 at 10:03 | Permalink | Comment(0) | 街づくり

界とハビトゥス

2022年07月28日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『建築家の解体』村松淳著(ちくま新書)という本を面白く読んだ。社会学者による建築家の解題で、フランスの社会学者ピエール・ブルデュー(1930-2002)の<界>や<ハビトゥス>、イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズ(1938−)の<後期近代>や<空間(space)と場所(place)>といった概念を援用し、日本の建築家が果たしてきた社会的役割を概観、後期近代における建築家の職業像を探る内容となっている。松村氏については、去年「後期近代」の項で、氏の前著『建築家として生きる』(晃洋書房)から<後期近代>について引用させてもらった。今回はブルデューの<界>と<ハビトゥス>について、『建築家の解体』から引用したい。

 <界>とは、社会の中に存在する集団のことで、各界は相対的に自立している。それぞれの界には固有の秩序や規範、動的なメカニズムが存在している。

(引用開始)

 近代社会は歴史的な機能分化の過程で、様々な界を生み出していった。政治界や経済界、スポーツ界などである。こうした界はさらに下位分化し、様々な下位界を生み出している。例えばスポーツ界が下位分化したものとして、<角界(相撲界)><野球界><サッカー界>などが生み出されている。ここで重要なことは、すべての下位界は独自の仕組み、規則と規則性を有している、ということであり、他の界からの影響を受けることのない、相対的な自律性を保っているということである。それぞれの界には、そこを取り仕切っている者がいる。そしてそれぞれの界に入るためには、そうした権力者・支配者が課してくる基準を満たす必要があるのだ。
 さらに界において、位置(position)も重要である。界の内部の者たち(行為者)は、それぞれの位置に収まっている。その位置は何によって決まるのだろうか。答えは、それぞれの行為者が持っている<資本>の総量と種類による。資本とはあとで、より詳しく言及するが、芸能界に所属している芸能人であれば、ルックスや歌唱力、演技力など、その界で役に立ちそうな資質のことである。(中略)
 界で進行している闘争とは、その界固有の資本の分布構造を守り通すか、ひっくり返すかの闘いである。資本を独占している者たちはそれを守り通そうとする戦略を打ち立てる。一方で、資本を持たない新参者は、それをひっくり返す転覆の戦略を練るのである。

(引用終了)
<同書 40−41ページ>

 <ハビトゥス>とは、界において行為者が身に付ける暗黙の知の体系で、その界において個人がほぼ自動的に行っている価値判断やモノの見方を指す。

(引用開始)

 また、ハビトゥスは、単独で使用できる概念ではなく、界や資本といった他の重要な概念と組み合わせて考えるべきものである。ハビトゥスとその他の概念との関係性について理解するために社会学者の磯直樹による整理を確認してみたい。

  ハビトゥスは特定の界の中で、その規則と特定の作用を受け続ける。一方で、ある界において行為者がどのように振舞うかは、ハビトゥスの作用に大きく依存するのである。界における行為者の客観的な位置関係は資本の種類と総量によって規定されるが、実際に界の中でどのように闘争やゲームを行えるかは、どのようなハビトゥスを有しているかによって異なる。これが、界の内部とハビトゥスの関係である。

(引用終了)
<同書 45−46ページ>

 この<界>と<ハビトゥス>、界の「社会の中に存在する集団」という定義を上位統合すると、「世界の中に存在する社会集団」となり、日本国民(nation)を「列島に住む日本語を母語とする集団」という一つの<界>とみることができる。その場合、日本国民という界(日本界?)の<ハビトゥス>は、「界において行為者が身に付ける暗黙の知の体系で、その界において個人がほぼ自動的に行っている価値判断やモノの見方を指す」わけだから、「集団の無意識」の項でみた戦後日本の無意識と重なるように思う。

 さて、日本という界を取り仕切っている者は誰か。それは「国家理念の実現」の項でみた米軍と官僚だろう。村松氏は『建築家の解体』の中で、後期近代において、それまであった建築家の界とハビトゥスは、自由に職能を展開していくうえで足かせとなる可能性があるとし、「街場の建築家」というあたらしい建築家像を提出しておられる。日本国民という界とハビトゥスにおいても、後期近代を生き延びるには、新しい国民像が必要になってくると思う。今の界とハビトゥスをよく研究し、次の展開に備えたい。

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posted by 茂木賛 at 08:40 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

江藤淳と石原慎太郎

2022年07月23日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 「集団の無意識」の項でみた戦後日本の無意識。同項では、戦後日本の無意識→国家統治能力(父性)の不在、と纏めた。それにチャレンジした二人の文学者について、文芸評論『百花深処』の方で論じたのでこちらにも紹介しておきたい。

江頭淳夫の迷走
石原慎太郎の焦燥

 詳細は上記に譲るが、この課題に対する二人の挑戦はどちらも失敗に終わる。尤もこれまで成功した人が居ないから、今も(日米安保と日米合同会議などによって)米軍支配が続いているわけだが。失敗から学ぶことは多い筈。敗戦を湘南で迎えた二人の少年(当時十二歳)。彼らのチャレンジとその方法を我々は記憶しておくべきだろう。

 尚、江藤と石原より七歳年上で、同じくこの問題に挑戦した文学者に三島由紀夫(本名:平岡公威)がいる。『百花深処』では、<平岡公威の冒険>と題して彼の自決の動機解明を連載している。併せてお読みいただければ嬉しい。

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集団の無意識

2022年07月20日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「家族類型から見た戦後日本」の項で、『エマニュエル・トッドで読み解く世界史の深層』鹿島茂著(ベスト新書)を参照しながら、戦後日本の家族の問題を考えたが、同書の中で鹿島氏は、自分がトッドの家族類型論に行き着いたもとには、ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)の「集団の無意識」というコンセプトがあった、と述べておられる。今回は、戦後日本の(集団としての)無意識について、私の考えを整理しておきたい。まず同書から鹿島氏のその部分を引用しよう。

(引用開始)

 私がトッドに興味を持ったきっかけは、「集団の無意識」というものへの関心からでした。
 ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンはこの集団の無意識(ただし、ベンヤミンは集団の意識と呼ぶ)について、大体こんなことを述べています。
 個人は一人ひとりはっきりと覚醒しているが、これが集まって集団となると、個人が覚醒しているのとは裏腹に集団は深い眠りに入っていく。とくに、資本主義が発展していくと、眠りは深くなり、集団はそのなかで夢をみる。それは集団の無意識としてさまざまな形象となって現れる。たとえば、パサージュ、万博会場、鉄道駅あるいはモード、広告など。だから、「集団の無意識」を解き明かすには、こうした夢の形象について考えなければならない。
 私が初期に、万国博、デパート、広告を取り入れたジャーナリズムなどを取り上げたのはこうした問題意識からでした。やがて、ベンヤミンから出発して、たどり着いたのが人口動態学でした。人口にこそ集団の無意識が最も強くあらわれると確信し、ルイ・アンリに始まるフランスの歴史人口学者の系譜をたどって行って、トッドに行き着いたわけです。こうしてトッドの著作をすべて読み、家族類型、女性識字率、といったトッドの提示する概念こそが人類の無意識を解く最も重要なパラメターだと今は思っています。

(引用終了)
<同書34−35ページ>

 考えを整理するに当り、戦後日本の無意識をいくつかの項目に分けて検討してみる。そしてそれぞれの最後に夢の形象も選んでみた。

(1)家族類型

 戦後日本の家族制度は、占領軍によってそれまでの直系家族からアメリカ的な絶対核家族に変更された。しかし核家族の価値観は未消化・不十分で、人々のメンタルには、それまでの直系家族的価値観が残っている。儒教的価値観、組織における先輩・後輩関係の重要視、妻よりも夫の不倫への世間的寛容、老後の親の面倒をみる、先祖代々の墓を継承する、などが依然として長男(もしくは長女)の仕事とされているケースなど。しかし直系家族にあった家長の権威と権力は、制度的には消滅している。夢の形象には無能な二世議員、三世議員たちの姿が相応しいだろう。

(2)平和憲法

 戦後日本の無意識のなかに平和憲法が占める度合いは大きいと思われる。戦争は憲法第9条によって回避でき、本土は(安保条約があるから)駐留米軍によって守られる。国民は経済成長に邁進すればよく、国家統治能力(父性)は必要ではない。制度的には官僚が米軍を補佐、政治的には衆愚政治であっても経済が回れば善しとする。夢の形象は広島の原爆ドームか。

(3)言語特性

 「脳における自他認識と言語処理」の項の仮説に基づくと、日本語は母音言語であり、脳内の自他分離機能をあまり刺激しないという。そのことで日本人には個の自立よりも、グループ内の関係性に気を配る傾向が強い(気配り、忖度など)と考えられる。主格中心の英語的発想に比べて、日本語的発想は環境中心で、空間重視・所有原理の男性性よりも、時間重視・関係原理の女性性が優位。華やかさや粘り強さはあるが、全体を俯瞰し適材適所を構築する力は強くない。夢の形象はサブカルのかわいいキャラクターたち。

(4)歴史認識

 日本は万世一系の天皇を頂点とする神の国である。これは明治維新以降強化された歴史認識だが、直系家族的価値観と並び、戦後も根強く人々の無意識下に眠っている。だから災害時などに人々はよく神に祈る(苦しい時の神頼み)。神道は教義を持たないから、他の新しい宗教にも寛容だ。夢の形象は神社の鳥居だろうか。

 以上、戦後日本の無意識を4項目に整理したが、無能な政治家、原爆ドーム、ゆるキャラ、神社の鳥居、といった夢の形象を繋いでみると、戦後日本の無意識の内に、国家統治のための理念的・戦略的能力を示すような形象が見当たらない。いまだに国家運営を(日米安保と日米合同会議などによって)米軍に委ねて平気でいられるメンタルは、無能な政治家を選挙で国会に送り込み、過ちは繰り返しませぬと唱え続け、テレビの漫才やゆるキャラに熱中し、事あるごとに神社にお参りする人々の「集団の無意識」が為せる業(わざ)なのだ。国家統治能力(父性)の不在。しかしこれからの時代、今のままで果たして日本はやってゆけるのだろうか。この問題を解決しなければ、いかなる政治・憲法議論もただの空論でしかないと思うがいかがだろう。

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読書家のオアシス

2022年07月06日 [ 書店の力 ]@sanmotegiをフォローする

 過日神田神保町すずらん通りにある「PASSAGE by ALL REVIEWS」という書店に立ち寄った。本棚の一角を個人が借り受けて自分の好きな本を販売するスタイルの古書店で、書評アーカイブサイト「ALL REVIEWS」が運営、プロデュースは仏文学者・鹿島茂氏。氏のTwitterをフォローしているので今年オープンしたこの書店のことを知った。

 このブログでは、<書店の力>というカテゴリを設け、以前からモノコト・シフト時代の書店のあり方を探ってきた。モノコト・シフトとは、20世紀の「大量モノ生産・輸送・消費システム」と人のgreed(過剰な財欲と名声欲)が生んだ、「行き過ぎた資本主義」(環境破壊、富の偏在化など)に対する反省として、また、科学の「還元主義的思考」によって生まれた“モノ信仰”の行き詰まりに対する新しい枠組みとして、(動きの見えない“モノ”よりも)動きのある“コト”を大切にする生き方・考え方への関心の高まりを指す。

・「出来事としての書店」(11/2019)
・「書評文化」(8/2014)
・「本の系譜」(11/2011)
・「書籍ビジネス」(12/2009)
・「山の本屋」(7/2009)
・「アートビジネス」(8/2008)

 「PASSAGE by ALL REVIEWS」は、私がこれまで書いてきたことを丸ごと実現してくれたような場所で、まさに“読書家のオアシス”、一つひとつの棚をじっくり拝見させていただいた。店内は優雅で心地がよい。入り口は狭いけれど中はなかなか広く、パリの通りの名前が付いた本棚が左右と奥の壁に並ぶ。アーチ状の天井や洒落た照明などデザインも凝っている。中央に置かれた大きな机が人の集合を誘う。場所が世界の古書店街・神保町にあるというのも心豊かにしてくれる要因だ(家賃は高いだろうが!)。棚主同士や顧客との交流も行われるという。日本文化の底力といったようなものを感じ、店を出てからも心地よさがしばし持続した。

 私自身ビジネスコンサルとして電子ペーパーや電子書籍に関わってきたこともあって、リアルの紙の本と電子書籍の役割の違いなどについて様々研究してきた。「PASSAGE by ALL REVIEWS」は、リアルの本の販売方法として一つの理想形だと思う。さらなる発展を期待したい。

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