夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


帰属集団について

2021年12月31日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『仲人の近代』阪井裕一郎著(青弓社)という本を面白く読んだ。副題は「見合い結婚の歴史社会学」。本の帯には“「結婚」や「家」と密接に関わりがあった仲人は、どのように広まり定着して、なぜ衰退に至ったのか。明治期から戦前、そして戦後に至る仲人の役割や見合い結婚のありようをたどり、仲人の近・現代史から近代日本の家族や結婚をめぐる価値観の変容を照射する”とある。日本の近代化を語るのに、「仲人」という仕組みに目を付けたところが秀悦。まず紹介を兼ねて新聞書評を引用しよう。

(引用開始)

 結婚式から仲人が姿を消して久しい。いまや仲人という言葉を知らない若者も少なくない。仲人という制度の盛衰は近代史の重要な側面であるにもかかわらず、これまであまり注目されてこなかった。結婚の媒介として仲人の制度はいつ成立し、時が流れるなかで、いかに変容したのか。本書は意外な角度から近代史の風景を眺める扉を開けてくれた。
 仲人は古代から続いてきた日本の伝統文化だと思われがちだが、江戸時代には仲人を立てる結婚形式が武士階級に限られており、明治時代以前の村落社会では仲人だけでなく、「見合い」という習慣も行き渡っていなかった。
 日本は鎌倉時代から続いた「夜這い」の風習があり、結婚の仲介には「若者仲間」や「若者連」と呼ばれる青年男子の集団が大きくかかわっていた。配偶者の自由な選択という点において、近代以前の日本はむしろ世界の最先端に立っていた。
 近代の「文明化」の過程において、一つの逆転が起きた。地方や農漁村の婚姻習慣は野蛮な風俗とみなされ、風紀紊乱を取り締まるために、媒酌家婚という儒教的な道徳が規範化された。明治維新の立役者で、後に政府の中枢に入った旧藩士の価値観も影響しているだろうが、それ以上に、明治国家は家制度を統治の根幹においたからだ。家族主義という伝統の創出において、仲人の媒介による結婚は伝統的な婚姻様式として正当化された。近代以降、結婚が自由になったのではない。反対に、近代化に伴い、男女交際や配偶者選択の自由が奪われ、婚姻様式が画一化した。手際よい交通整理によって、近代史の真実が言説の迷路を抜け出し、みごとによみがえってきた。
 大正時代になると、恋愛を尊重する言説が登場する一方、恋愛は「正しい恋愛」と「正しくない恋愛」に区別され、家族主義の論理だけでなく、優生思想の観点から媒酌結婚が推奨されるようになった。
 人間の行動様式は内省的な知性によって規定されるだけでなく、行動の様式化は信念の形成を方向付けることもある。そのあたり見極めは難しいが、著者は言説のみならず、緻密な資料調査を通して、結婚媒介の実態にも迫った。
 結婚媒介業は明治期にさかのぼるが、のちにその公共的な側面が注目された。一九三〇年、初の公営結婚相談所が誕生し、やがて「社会事業」や「厚生事業」の根幹に位置付けられた。戦時下には「産めよ殖やせよ」政策に合わせて、結婚報国懇話会や戦時版の婚活システム「結婚斡旋網」といった官制のネットワークまでが作られるようになった。
 戦後日本の企業文化と仲人という制度の関係についての論証も鮮やかだ。経営家族主義のもとで従業員は企業に対する帰属意識が強化され、高度経済成長期の仲人ブームを支えた。バブル崩壊後、企業に対する帰属意識が希薄化するにつれ、仲人という慣習は形骸化し、やがて日本的経営との訣別とともに、旧早期に姿を消した。
 近代史を振り返ると、社会構成員の帰属先は「村落共同体」から「家」へ、「家」から「企業」へと変わってきた。帰属集団の構造的変化こそ、仲人の誕生から消滅への道のりを規定したとする著者の仮説は十分、説得力のあるものだ。
評:張競(明治大学教授・比較文化)

(引用終了)
<毎日新聞 11/27/2021(フリガナ省略)>

ここでいう帰属集団とは、家族の上位にある社会構成員の拠り所といった意味で、江戸時代は「村落共同体」、明治以降は「家」、戦後(バブル崩壊まで)は「企業」、という変遷を経て今に至った。仲人システムは、明治から戦後・高度成長まで続いたが今は衰退。このことは、我々の帰属先がいま見えなくなっていることと符合すると思われる(今でもそれら帰属先は一部に残っているが一般的な話として)。

 社会構成員の拠り所としての、社会的に認知された帰属集団、共同体。その存在意義について、『日本のリアル』養老孟司著(PHP新書、2012年)という対談本から、養老氏の次の言葉を引用しておこう。対談の相手は食卓の変化を通じて家族の変容を調査している岩村暢子氏。

(引用開始)

岩村:十数年調査してきて、やはり家族それぞれがますます「自分」を大切にし、個を優先するようになっていると感じています。食卓にもそれははっきり表れていて、家族が家にいても同時に食卓に着かず、たとえ一緒に食卓を囲んでも違う物を食べる「バラバラ食」、さらには一日三食も崩れて、みんな自分のペースで好きな時間に勝手に食べる「勝手食い」も増えています。「バラバラ食」や「勝手食い」の家では、親は子供が何を食べたのかも知らなかったり、無関心になっている。
養老:そのような社会の中で、途方に暮れている人もいるはずですよ。社会はどんどん個にバラけていきましたが、日本にはアメリカ風の自助の精神はありません。戦後の新憲法は、独立した家族が集まって集団をつくり、国家を運営していくという理想像を描きましたが、日本人の中では自助の精神はあまり育たず、伝統的な「長いものには巻かれろ」式の考え方でやってきたのですから、「これからは個として生きろ」といきなり言われても、どう生きてよいのか分からない人は多いはずなんです。(中略)先日、ヨーロッパに行って、ようやくわかったのですが、ユダヤ人は、いったんユダヤ人になったらずっとユダヤ人なんです。永久にユダヤ人であるとは、死んでも共同体のメンバーであり続けるという意味です。人間にはそういう共同体が必要なのだと思います。中国人社会にも華僑会のような相互扶助組織があるでしょう。一種、マフィア的でもありますが、構成員に対しては、保険会社や銀行がしてくれないようなこともしてくれる。

(引用終了)
<同書 18−28ページより>

皆さんの中には「そんな帰属集団、無いほうが清々していい」と思う人もあるだろう。それは「個」として生きる力のある人で、未成年を含め一般的には、家族の上位に何らかの拠り所があったほうが生きやすいと思う。社会的に認知された拠り所がないと、自殺を誘発したり、如何わしい新興宗教や闇組織などがその代わりを果たす可能性がある。

 今の多くの日本人は、拠り所としての帰属先が無いまま、(市町村や都道府県といった中間機構を経由しつつ)政府の行政に直面する羽目に陥っているから、結婚だけでなく子育てや仕事、社交などにおいてとてもストレスが大きいのではないだろうか。著者の阪井氏は、終章“「ポスト仲人社会」を考える”の最後に、

(引用開始)

 われわれは、仲人とともに日本社会が何を失ったのかを問うていく必要がある。この問いは、裏を返せば、近代日本が「仲人」に何を託し、依存してきたのかを考えることでもある。近・現代の日本は「仲人」という存在に多くの役割を背負わせたがゆえに、本来ならば発達すべきだった重要な社会関係が未発達のまま放置されてきたともいえる。あるいは、仲人という「伝統」に頼る発想しかもっていなかったゆえに、パートナー関係や家族関係をめぐって未解決のままにされてきた問題があるのかもしれない。
 現代社会で、家族や結婚を巡る諸問題、そして家族を超えた社交関係や相互扶助の理念を問い直すうえでも、あらためて「仲人の近代」を問うことには意義があるはずだ。仲人というシステムが、社会のどのような機能を担保し、同時に社会から何を簒奪してきたのか、そして、それが消滅したことで社会から何が失われたのかを考えることは、現代日本の「デモクラシー」のあり方を探る際に必要になる作業の一つだと考えている。

(引用終了)
<同書 201−202ページ>

と書いておられる。

 以前、新しい時代の家族のあり方について「新しい家族の枠組み」(2012年)の項で、前出した養老氏の一案について「賢人ネットワーク」(2016年)の項でそれぞれ見たが、家族の帰属先としての「新しい拠り所」をどう制度設計してゆけば良いのか、さらに考えたい。

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posted by 茂木賛 at 11:32 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

モノとコトの間 

2021年12月08日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日、ツイッターで「モノとコトの間」というタイトルの連続投稿をしたが、こちらでも同じ論点を整理・敷衍しておきたい。モノとコトの違いを突き詰めて考えることで、今の時代に起こっている「モノからコトへのパラダイム・シフト(モノコト・シフト)」の特性の一端を明らかにしたいからだ。

 複眼主義では、世界は無数の固有時空の複合体であると考える。世界を線、平面、立体、時間といった次元分割では考えない。これを踏まえて複眼主義におけるモノとコトとの定義は、

話者からみて、
動きが見えない時空=モノ
動きが見える時空=コト

となる。

 この定義にある「話者からみて」とはどういうことかまず説明しよう。ある対象を考えるとき、話者の着眼点によって、それをモノと見るかコトとして見るかが違ってくる。たとえば「地層」をどう見るか。同じ地層でも、それを岩の塊としてみればモノ、地球の活動の跡としてみればコト、となる。

 ここで現れる違いはなにかというと、地層をモノとして見る人は、自分の生命時空(寿命と身体)の尺度で地層を捉えるのに対して、コトとして見る人は、地球生命時空の尺度で地層を捉えているということである。普通の人は前者、地質学に関心のある人は後者の見かたをするだろう。

 人の生命時空と地球生命時空とはあまりにも速さ大きさが違いすぎるから、人は普通地層の動きを直接見ることがない。だからそれをモノと見る。しかし、地球の活動に興味をいだいていれば、地層を見てその動きを感じることが出来る。だからそれをコトとして見るわけだ。

 この違いはまた、対象を自分都合で考えるか、相手都合で考えるかの違いともいえよう。自分都合で考えるとは、対象を自分の時空に引き寄せて、その基準で対象を値踏みするということ。地層は、自分の生命時空(寿命)とはおよそ関わらないから、普通の人にとってそれは単なる「岩の塊=モノ」でしかない。ときに美しい「モノ」かもしれないが。相手都合で考えるとは、対象を相手の時空(この場合は地球生命時空)に合わせて、その尺度で自分との関係を考えるということ。その場合地層は、自分に「地球生命時空の活動=コト」を知らせてくれる貴重な相方となる。

 複眼主義ではモノとコトの特徴を、

「モノ」:空間重視・所有原理
「コト」:時間重視・関係原理

とも分析してきた(そして生き方としては、どちらか一方の見かたに偏らないバランス感覚を大切に考える)。

 これまでこのブログでは、モノコト・シフトについて、次のように書いてきた。

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モノコト・シフトとは、「モノからコトへ≠フパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。
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今回の話を踏まえると、モノコト・シフトの時代とは、同じ対象でもそれを常に自分都合で考えるのではなく、できるだけ相手都合で考えようとする思いやりの時代、ともいえるだろう。

 同じ対象をモノと見るかコトとして見るか、例を続けよう。たとえば人。人を人口(労働人口など)として考えればモノ、生物(命)として考えればコトとなる。社会学的には前者、文学的には後者だろう。

 たとえば種(タネ)。タネを売買対象と考えればモノ、植物(命)と考えればコト。商売人はタネを「モノ」として考えるのに対して、心ある農家はタネを「コト」として考えている筈だ。これに関して先日、『農業消滅』鈴木宣弘著(平凡社新書)という本を読んだ。ここに出てくるグローバル企業や政治家は、タネをひたすら「モノ」として考えているに違いない。副題は「農政の失敗がまねく国家存亡の危機」。本カバー表紙裏の紹介文を引用しておこう。

(引用開始)

徹底した規制緩和で、食料関連の市場規模はこの30年で1.5倍に膨らむ一方、食料自給率は38%まで低下。農業の総収入は13.5兆円から10.5兆円へと減少し、低賃金に、農業従事者の高齢化と慢性的な担い手不足もあいまって、“農業消滅”が現実のものとなろうとしている。
人口増加による食糧需要の増大や気候変動による生産量の減少で、世界的に食料の価格が高騰し、輸出制限が懸念されるなか、日本は食の安全保障を確立することができるのか。
農政の実態を明らかにし、私たちの未来を守るための展望を論じる。

(引用終了)

著者のようにタネを「コト」として考える人がもっと増えればよいのだが。

 同じ対象をモノと見るかコトとして見るか。たとえばウイルス。それを感染人口で捉えればモノ、細胞とのやりとりを観察すればコト。前者はワクチン、行動制限、治療薬で対応できるとするが、異変種への対応を常時に求められる。後者はそのルーツを分析し、暮らし方を変えるなどしてウイルスとの共生の道を探る筈。いかがだろう。この辺りの話は、

コロナウイルスとモノコト・シフト」(2020年3月10日)
周辺国で完結する市場」(2020年6月22日)
応仁の乱後の日本」(2020年8月1日)

の各項も参照いただきたい。

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posted by 茂木賛 at 11:40 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

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