先日「“する”ことと“しない”こと」の項で、何かを“する”ということは、そのとき、他のすべてを“しない”ことと同義だと述べたが、この“する”を“書く”に置き換えると、何かを“書く”ということは、そのとき、他のことを“書かない”、他の言い方を“しない”ことと同義だ、ということになる。これを読む側からすると、書かれた内容の裏に何があるのか、を探る動機が生じる。ここから、「行間を読む」という読書法が生まれる。
辞書によると「行間を読む」とは、「文章には直接表現されていない筆者の真意をくみ取ること」(『デジタル大辞泉(小学館)』とある。たとえば、
(引用開始)
<記事の切り抜き授業>
削られた言葉の行間を読む
「たった一つの記事の中から、かくれた思いを導き出すように、コメントを書いた」。昨年の夏休み明け、課題の「A3新聞切り抜き作品」づくりを振り返った一人の六年生の児童の言葉だ。
提出された彼女の作品は「原爆 全てを奪った」。新聞記事よりもコメントの方が圧倒的に多く、ぱっと見たときには違和感があった。もっとたくさんの記事を使った方がいいのにと感じた。しかし、作品を読み込むうちに、彼女の意図が伝わってきた。記者は、限られたスペースに記事を収めるため、言葉を削っている。彼女は、その削られてしまった言葉を読み込もうとしたのだ。行間を読み解いていたといってよい。原爆の恐ろしさや憤りと向き合いながら書き込まれたたくさんのコメント。まとめには「今、伝えなければ風化してしまうという心が生まれて、私の手を動かしました。平和が当たり前の人生から、平和がどれほど大切かに変わりました」と結んでいた。行間を読み解くというユニークな視点に、新たな新聞の活用の仕方に気付かされた。(後略)
(引用終了)
<東京新聞(「学校と新聞」)3/3/2021>
といったこと。
しかし「行間」、「そこに書かれていないこと」は、筆者の真意だけとは限らない。筆者の主観が強すぎて、書かれたことが客観性を欠いているケース。思い込み(「認知の歪みを誘発する要因」)に偏した文章だ。さらに、筆者が真実を隠そうとして嘘をついている場合。読者を騙そうとして書かれた文章だ。スピンともいう。一方、読む側も、思い入れに左右されている場合があるから、「書かれたこと」と「書かれていないこと」のどちらに真実があるのかの判断は、一筋縄ではいかない。「行間を読む」のはなかなか高度の技なのである。全体として、
@ 表現されていることを正確に理解する。
A 行間を読む。表現されていない部分に注目してみる。
B この段階で、真意・真実のありかを推測する。
C 自分の方に思い込みがないか反省してみる。
C 別の人の書いたものがあれば読んでみる。
D そのうえで、真意・真実を見極める。
E 後日分かったことがあれば、見極めを修正する。
といったステップが求められる。
身近な出来事やフィクションについてはこれでだいたい真意・真実が見えてくるが、大規模イベントや歴史など、多くの人が関わったことの記録には、「書かれたこと」と「書かれなかったこと」が多重・多様に存在し、真意・真実を見極めるのは容易ではない。そこから「真実は一つではない」とする懐疑主義も生まれるが、歴史を学ぶことの意味は、見極めた真実を自らの指針に反映させる処にある。
日本の歴史について私はこれまで、上記ステップを踏んで、
「歴史の裏と表」
「古代史の表と裏」
「古代史の表と裏 II」
「戦国史の表と裏」
「幕末史の表と裏」
と書いてきた。そしてそこから見えてきたことを指針として、これからの国家理念について、
「新しい統治正当性」
「新しい統治思想の枠組み」
「新しい統治思想の枠組み II」
と論じてきた。この件、これからも引き続き考えてゆきたい。