夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


中国ビジネス

2020年11月23日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 本棚を整理していたら『男脳中国 女脳日本』谷崎光著(集英社インターナショナル)という本をみつけた。副題は「なぜ彼らはだますのか」。出版は2012年3月。本帯の裏表紙には、

(引用開始)

中国人は「男」によく似ている。面子(プライド)命で、おおざっぱで博打好きなリスクテイカー。だけど政治には強く、金と権力が好きなパワー指向。一方、日本人は「女」である。まじめでやることはなんでもていねいで几帳面。手先も器用。この男女の違いから、中国と日本を読み解いてみようと思う。
―著者まえがきより

(引用終了)

とある。新聞の書評によって内容を簡単に紹介しよう。

(引用開始)

 中国商社勤務を経て、その後北京大学に留学し、いまは北京在住。そんな中国通の女性作家が描く日中文化論。中国はおおざっぱで金と権力が大好きでリスクを辞さない。日本人は丁寧で几帳面だが小心で空気を読んでばかり。そんな間柄を男女関係になぞらえる。だが、現実の性別は別。現にある日本の商社の中国人女性副社長は、留学先の日本で社長の愛人になり中国人夫を捨て、金と地位と子供を手にした揚げ句、子供の日用品や食料まで会社の経費で落とすという厚かましさなのだ。
 抱腹絶倒の中国ウォッチ本。

(引用終了)
<日刊ゲンダイ 4/17/2012>

 男脳中国、女脳日本という指摘は、「日本語を鍛える」の項などこのブログで言及している複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

と整合的だ。日本でも江戸時代までは漢字・漢文がA側の発想を支える主流だったわけだから、中国語的発想がA側に強くて不思議はない。

 著者の谷崎さんは彼らにたやすく騙される日本人たちを憂いて次のようにいう。

(引用開始)

 今の日本が危機的状況を脱する方法がひとつだけあるとするならば、個人ひとりひとりが強くなることだろう。独立か会社員か、などということはさほど重要ではない。個人が会社の、または誰かの言いなりにならない力をつけるしかない。

(引用終了)
<同書 286ページ>

個人の自立、複眼主義でいうA側の力を付けることがここでも求められるわけだ。

 私もソニー時代に仕事で中国へ何度も行ったが、この本の指摘は概ね実感と合う。研究書ではないから読み易い。中国ビジネスに興味のある方は一読されるとよいと思う。

 2013年2月に出た『おどろきの中国』橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司共著(講談社現代新書)は、もう少し学問寄りの本だ。本帯表紙には“そもそも「国家」なのか? あの国を動かす原理は何か? 私たちはどう付き合ってゆけばいいのか?”とある。新聞の書評を紹介しよう。

(引用開始)

西洋を標準とせずに見る

 中国に進出している日本企業の数は3万社に近いと言われる。米国進出企業の5倍弱だ。本来、隣接する名目GDP(国内総生産)世界2位と3位の国が良好な関係を保つことは、お互いの大きな利益になる。また、欧州大陸の例にもあるように、経済関係の深化は最大の安全保障になりうる。
 しかし、頭でそれが分かっていても、中国を理解することは非常に難しい。中国でビジネスを行ってきた人ですら戸惑っている。本書はその理由を、「われわれが、社会や文化を理解するうえでの基本となる理論や枠組みが、学問のレベルでも、また常識のレベルでも、西洋を標準としてきた」からだと主張する。
 中国を「ディープ」に旅行してきた3人の社会学者による熱い鼎談(ていだん)で本書は構成されている。
「陥りやすい勘違いや落とし穴など、目を付けるべきポイント」がテーマに選ばれた。「中国は『国家』なのか」「2千年以上前に統一できたのはなぜか」「日本人と幹事の関係」「なぜ近代化が遅れたのか」「日中戦争とはなんだったのか」「『社会主義市場経済』の衝撃」「民主化の可能性は?」等々である。
 橋爪氏は、「中国の実際を日本人は知らなすぎる」と述べている。その批判は耳に痛いが、本書には“目からウロコ”の議論が多数載っている。

(引用終了)
<朝日新聞 3/3/2013>

 本の目次は、

まえがき
第1部 中国とはそもそも何か
第2部 近代中国と毛沢東の謎
第3部 日中の歴史問題をどう考えるか
第4部 中国のいま・日本のこれから
あとがき

で、第1部を読めば中国の社会学的理解の概要が得られる。著者のひとり橋爪氏は小室直樹の弟子だから、内容的には1996年に出た『小室直樹の中国原論』小室直樹著(徳間書店)における幇(ヨコの共同体)、宗族(タテの共同体としての父系集団)、情誼(人間関係)、儒教と法家の役割、最高聖典としての歴史、といった基礎知識を踏まえたものとなっている。第1部の内容をいくつか箇条書きにしてみよう。

〇中国には中央という意識しかない(名前がない)
〇周囲は東夷、南蛮、西戎、北狄
〇西洋標準でいう国家とはいえない
〇ヨーロッパのEUと似ている
〇二千年以上前に統一できたのは地形的要因が大きい
〇政治的統一こそが根本
〇儒教によって支配しツールとして法家を使う
〇幇としての中国共産党
〇聖人による政治、宗族による禅譲が理想
〇過去(歴史)指向
〇天が統治権を付与するが農民の支持が正統を証明
〇天とは統一できたという事実を物象化したもの
〇日本の国学は天を否定
〇科挙の本質は軍事では決めないということ
〇文民支配だがランキングに異常な拘りが生まれる
〇党派闘争が起る
〇漢字による言語共同体
〇農民は団結できない
〇過去指向も漢字の有限要素性が大きい
〇道教、仏教は裏儒教という考え方

といったところだが、多くの人は未だ宗族や幇にしばられ、支配ツールとしての法は人の権利を守らない。「社会と国民」の項で論じた西洋近代の「社会」(個人の自立と法による公平)はまだ中国にないことがわかる。

 前半では中国の人々の男性性が強いことを見たが、多くの人のそれ(男性性)を、いかに他者の人間性=創造性=自発性=自由の承認にまで持ってくるかが、いまの中国の課題なのだろう。

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posted by 茂木賛 at 10:39 | Permalink | Comment(0) | 起業論

日本語を鍛える

2020年11月16日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「社会と国民」の項で、日本には「国家」はあるが「社会」がない、「世間」はあるが「社会」がない、だから「国民」=「世間」になってしまっているという話をしたが、明治維新以来、150年経っても日本に「社会」がないというのは驚きだ。日本はまだ、個人の自立を確立した西洋近代を通過していないということなのだろう。

 この実態に対して、『同調圧力』や『「社会」のない国、日本』の著者は、まずはその事実を知ること(佐藤直樹氏)、複数の弱い世間に関わること(鴻上尚史氏)、人を差別しないなど身の回りのことから実践する(菊谷和宏氏)といった対処の仕方を述べておられる。空気支配に対しては水を差すのが有効(『「空気」の研究』山本七平著)という話も昔あった。

 このブログでは、日本で個人の自立が果たされないのは、明治期における日本語の近代化の失敗によるところが大きいと論じている。複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

でいう「日本語的発想」のもととなる今の日本語のことだ。複眼主義ではA側とB側のバランスを大切に考える。今の日本語はうまくA側の「英語的発想」を取り込めていない。だから「公(Public)」の場でも、発想がB側に傾斜してしまう。それが「世間」の蔓延を容認する。この日本語をA側の発想もできるように鍛え直さない限り、水を差すなどの対処法だけでは、これから150年経っても個人の自立は覚束ないだろう。

 江戸時代までの日本は、男手(漢字)と女手(ひらがな)の使い分けによって、AとBのバランスを保っていた。当時は個人ではなく「家」や「藩」の自立ではあったけれど。

 今の日本語をどのように鍛えるか。このブログで提案してきたのは、数詞や感嘆符など、西洋から齎された記号を積極的に主語や存在詞として使用することである。自分や相手を表現するのに1や2といった数詞を使う、存在のbeを表現するのに「!」を使う。詳しくは、

新しい日本語
議論のための日本語
議論のための日本語 II

などの項をご覧いただきたい。これらは「公(Public)」の場で使用される言葉として導入する。「敬語システム」で述べたような日本語の良さは「私(Private)」の場において今まで通り活用する。「会話と対話」の項で述べたような使い分けというと分かり易いかもしれない。

 江戸時代までとは違い、近代国家では自立していなければならないのは「個人」である。その違いはあっても、公的日本語と私的日本語とを分けるという先人の知恵に学ばない手はないと思うがいかがだろう。言語学者でない私には数詞や感嘆符を使うといったことしか今のところ思い浮かばないが、より良い考えがあればご教授いただきたい。

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posted by 茂木賛 at 10:27 | Permalink | Comment(0) | 言葉について

社会と国民

2020年11月06日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 ここのところ「自粛警察」「“群れ”と“集団”」「同調圧力」などの項で、社会と世間との違い、日本には世間はあるが社会がない、といったことを見てきた。今回は一歩進めて、社会と国民について考えてみたい。社会がない日本の国民とは何なのだろうか。それぞれの言葉の簡単な定義は、上記及び「nationとstate」「国家の理念(Mission)」などの項から、

「社会」:バラバラの個人の集合体で法のルールによって動く。
「世間」:法のルールではなく同調圧力によって動く。

「国民(nation)」:文化や言語、宗教や歴史を共有する人々の集団。
「国家(state)」:国民の居場所と機構。

としよう。

 『「社会」のない国、日本』菊谷和宏著(講談社選書メチエ)という本がある。副題は「ドレフュス事件・大逆事件と荷風の悲嘆」、書名の「社会」にはコンヴィヴィアリテ(共に生きることという意味のフランス語)というルビが振られている。本カバー裏表紙の紹介文には、

(引用開始)

国家による冤罪事件として知られるフランスのドレフュス事件と日本の大逆事件。スパイの嫌疑を受けたドレフュスは最終的に無罪になったが、日本では幸徳秋水ら一二名が処刑された。両国の違いはどこにあるのか?答えは、日本には「国家」はあるが「社会」はないことにある。今日も何ら変わっていないこの事実に抗い、「共に生きること(コンヴィヴィアリテ)」を実現するには?日本の未来に向けられた希望の書!

(引用終了)

とある。

 著者の菊谷氏は、国家とは制度、システムであるとした上で、次のように書く。

(引用開始)

 制度とは、別言すればルールだ。それは現実(内容)そのものではなく、むしろ現実に押し当てられ現実を規制しようとする「形式」だ。(中略)
 だから、国家においては、各人は匿名的なのだ。人はそこでは「国民」という形式的な資格としてのみ現れる。そこでは各人はいわばそれぞれの機能を果たす部品であり、交換可能な存在だ。そこでは人格やその唯一性(ユニークネス)は考慮されない。ドレフュスがそうであったように。
 これと異なって、家族や地域に代表される共同体は、先に述べた通り情的なものだ。それは構成員の「情」に支えられている。(中略)
 共同体とは、端的に言って、人間の「生の条件」だ。それは、それが生に与えられたものである限りにおいて環境であって、いわば自然条件だ。(中略)それは意思によって選択されたものでも知性によって構築されたものでもなく、自然によって与えられたものであるのだから否定できないのだ。本書でも、永井荷風とその家族との、とりわけ父との関係の中にみることができた。
 これらに対して社会とは、意思的なものなのだ。繰り返すが、社会は各人が他者を人間であると「意思する」ことに基づいている。そのような各人の行為、各人の賭けを土台としているものだ。それは他者の人間性=創造性=自発性=自由の承認である。つまりそれは、人々が自由意志をもって日々生きているという社会生活の現実の有り様そのものであり、いわば「生の内容」なのだ。既に拙稿で詳述し、本書の第1章第四節でも触れた通り、神的超越性を前提としない場合、つまり人間が人間であり社会が社会であることの根拠に照らし合わせて論理的に考え続けた場合、人間の人間性は「そこに賭けるという意思」にならざるをえないのだから。(中略)
 人間性の発祥地(partie)フランスの歴史の中で、社会はhumanite(人間性、人類)の全体として表象され、そのようなものとして生み出された。それは人が共に生きる現実それ自体であった。

(引用終了)
<同書 217−228ページ>

社会とは、「人間の意思」によって作られるものであり、自然によって与えられる家族や地域といった共同体とは違う、という菊谷氏の主張はこのブログの考察と整合的だ。

 社会は人の意思によって生み出され、共同体=世間は人の情によって保たれる。複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

でいえば、

A 社会(意思によって作られる)
B 世間(自然によって与えられる)

ということになろう。複眼主義ではAとBのバランスを大切に考える。人は常に自分の立場を、社会と世間とのバランスの上で考えなければならない。

 「社会」とは、フランスなどの西洋近代が生み出した概念であり、人間の「共に生きる意思」によって作られるもの。それは、自然に与えられる家族や地域といった共同体=世間とは異なる。そうだとすると、近代国家という制度側面においては、国民はまず社会人であることが求めらる。日本国という国家に日本国民がいる。しかし列島という自然条件と国家という制度が1対1対応し、言語特性によってB側に傾斜した人が多い日本では、世間の集合体がそのまま国民となってしまっているところに問題があるのだろう。

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posted by 茂木賛 at 11:01 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

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