夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


新しい家族概念

2018年06月24日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 「江戸時代の土地所有」、「小さな経済圏」と、日本の土地問題、住宅問題について見てきた。モノコト・シフトの時代とはいえ、日本にはまだ古い社会的仕組みが多く残っている。

 モノコト・シフトとは、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による行き過ぎた資本主義への反省として、また、科学の還元主義的思考によるモノ信仰の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、動きの見えないモノよりも動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。

 一方に「建築自由」、公よりも私を優先する土地所有制度があり、もう一方に「一住宅=一家族」、公と私の境界をはっきりさせ私人には公的領域に手を出させない住宅制度がある。この二つの制度を変えない限り、「私」はますます内に閉じ籠り、「公」はますます官僚支配に覆われる。

「私」:高層マンションの一角で携帯ゲームに耽る若者
「公」:勝手に働き方を決め賭博場を作る中央官僚

 「熱狂の時代」の項で書いたように、モノコト・シフトには、暴力を誘発するネガティブな側面がある。いま社会の仕組みを変えないと、そちらが前面に出て、殺人や傷害事件が今よりもさらに増加するだろう。自身への暴力(自傷・自殺)も増える。

 先日「新しい会社概念」の項で、モノコトシフト時代の会社組織について、「よりゆっくり、より近く、より寛容に」という原理を紹介した。「小さな経済圏」の話と併せて考えると、これからの家族概念は、この会社組織のあり方と近接してくるように思えるがいかがだろう。

 モノコトシフト時代の家族の特徴について、以前「新しい家族の枠組み」の項で次のように纏めたことがある。

1.家内領域と公共領域の接近
2.家族構成員相互の理性的関係
3.価値中心主義
4.資質と時間による分業
5.家族の自立性の強調
6.社交の復活
7.非親族への寛容
8.大家族

これは、それより前の「近代家族」が、
 
1.家内領域と公共領域の分離
2.家族構成員相互の強い情緒的関係
3.子供中心主義
4.男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5.家族の団体性の強調
6.社交の衰退
7.非親族の排除
8.核家族

という特徴を持つことから考え出したのだが、前者は、「よりゆっくり、より近く、より寛容に」という会社組織のあり方と符合するようにみえる。たとえば、

1.家内領域と公共領域の接近→より近い市場での小商い
2.家族構成員相互の理性的関係→社員間のコンセンサス重視
3.価値中心主義→会社理念の共有
4.資質と時間による分業→社員の適材適所
5.家族の自立性の強調→社員の自主性の強調
6.社交の復活→福利厚生の充実
7.非親族への寛容→多様な社員構成
8.大家族→非儲け主義

のように。

 「新しい会社概念」の項でみたこれまでの会社組織の原理は「より早く、より遠くへ、より合理的に」というもので、これは「近代家族」の特徴と親和性がある。そしてそれは「一住宅=一家族」という住宅政策とリンクする。前回の『脱住宅』序章から引用しよう。

(引用開始)

 一九世紀の産業革命以降、人間の生き方を取り巻く環境が急激に変化しました。なかでも最も大きな変化の一つだと私が思うのは、「一住宅=一家族」という住まい方が一つの普遍性を獲得したことです。一つの家族が一つの住宅に住む、そういった住宅の形式が誕生したこと、そしてこれこそ理想だと多くの人が受け入れていったこと、それこそ「住宅革命」と呼んでいいほどの二〇世紀の大転換であり、二〇世紀を象徴する出来事の一つだと考えています。「一住宅=一家族」という住宅の誕生には、産業革命が大きく影響しています。この住宅は産業労働者のために発明されたからです。(中略)
 その平穏な生活は労働者側からも、理想的な生活だと考えられました。労働者にとっては、仕事から離れ、家族のプライバシーを守りながら安らかに過ごせる空間ですから、喜んでこれを受け入れたのです。一方、供給者側にとってはすべての労働者に同じような住宅を供給することで、同じような家族が再生産されます。つまりばらつきのない均一な労働力を継続的に確保することができるわけです。そしてそれはそのままばらつきのない均一な製品に結びつきます。直接的に利潤に結びつくと考えられたわけです。一九世紀の産業資本家たちのこうした考え方は、第一次世界大戦後のヨーロッパ諸国の国家に運営システムにも大きな影響を与えました。

(引用終了)
<同書 14ページ>

 「私」を外の「公」へ向かわせ、「公」を「私」のneedsに向かわせる。「私」が「公」を支え、「公」が「私」を守る社会。閾や広場の必要性。ヒューマン・スケールの小商いと小さな経済圏としての住宅。多様な家族。会社組織と家族組織の近接。ここまで考えてくると、新しい時代の会社と家族は、「教義と信仰」の項で紹介した、徳川幕府が導入した「家(イエ)」というユニークなシステムと重なってくる。あるいは「デンマークという幸せの国」でみた北欧の国々の先進性。いづれにしてもこれからの日本には大きな社会変革が求められるだろう。さらに研究したい。

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小さな経済圏

2018年06月23日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『脱住宅』山本理顕・仲俊治共著(平凡社)という本を読んだ。副題は“「小さな経済圏」を設計する”。まず内容を新聞の書評によって紹介しよう。

(引用開始)

 紙の上に円を描いてみる。円の内側は内部空間、外側は外部空間となる。少し色をつければ、それらは私的空間、公共空間として具体化することもできる。
 だが、都市の内外空間は公私空間に直結するわけではない。一軒家を取り巻く草原は外部空間であっても、公共空間とはいえまい。また、閑静な住宅地の閑静さは、公共空間を犠牲にした閑静さといってもいい。
 プライバシーとセキュリティーを謳い文句にした戦後の集合住宅も閑静な住宅地と似たものだった。住戸の内部と外部は物理的・社会的に分離され、その結果、私的空間は「一住宅=一家族」の閉ざされた空間、外部空間は諸々のインフラストラクチャーに覆われた硬直化した空間となった。つまり、内外空間は公権力によって分離かつ管理される空間となった、というのが著者の見立てである。
 「脱住宅」とは、私的空間を外部に向けて開くことを意味する。そのための一つの策が、私的空間の中に、外側の空間を迎え入れる「閾」という空間をつくることである。玄関をガラス扉にするという案は突飛にみえるが、玄関まわりの空間を工夫することで、自宅ビジネスの小オフィスとして使うことができる。同様に、コモン・スペースの一部を住戸つきの菜園にすれば、外部空間は私化されるよりはむしろ開放度を増すだろう。公私空間の境を決めるのは住人だという本書の指摘は重要である。
 本書は建築・都市の公共空間論であるが、政治的公共空間論にも示唆を与える。共和主義は公共空間を重視する反面、私的空間を生活の巣とみなす傾向がある。一方、自由主義では、私的空間は自由の領域、外部空間は国家の領域とみなされ、正負の価値が反転する。共和主義か自由主義かではなく、二つが両立する政治空間を構想するとしたら、空間構成はどうあるべきか。本書は重要な示唆を与えるにちがいない。

(引用終了)
<朝日新聞 5/20/2018(フリガナ省略)>

「小さな経済」とは、個人の仕事、特技、趣味などを通じて、他者とかかわろうとする営みのことを指すという(同書217ページ)。副題の“「小さな経済圏」を設計する”とは、そういった営みを可能にする住宅設計のこと。

 このブログでは、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による行き過ぎた資本主義への反省として、また、科学の還元主義的思考によるモノ信仰の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、動きの見えないモノよりも動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを「モノコト・シフト」と称し、いろいろな角度から論じている。

モノコト・シフトの研究
モノコト・シフトの研究 II
モノコト・シフトの研究 III
モノコト・シフトの研究 IV

「小さな経済圏」は、こういったコトを大切にする生き方、考え方の下において活性化する。だから「脱住宅」はモノコト・シフト時代の必然といえるだろう。小さな経済の意義については、以前「ヒューマン・スケール」の項でも書いたことがある。今の日本にとって大切なことだと思う。

 モノコト・シフト時代の住宅の社会的機能側面についてはこのブログでも、

新しい住宅
新しい住宅 II
新しい住宅 III

などで論じてきた。この本には、玄関をガラス扉にするとか、向かい合わせにつくるとか、建築家ならではの住宅設計の実際が多く描かれている。実務者にとっても大いに参考になるだろう。

 この本から、政府による機構改変や法律改悪を解説した部分を引用したい。104ページから111ページ、東雲キャナルコート一街区の設計に関わる章の冒頭。

(引用開始)

内側のプライバシー、内側の幸福

「住宅・都市整備公団」としての最後の仕事である。この計画を最後に、都市基盤整備公団は「都市再生機構(UR)」という独立行政法人に組織替えさせられてしまった。公団のような国の組織が安い家賃の住宅を供給するから民業が圧迫されるのだという、民間ディベロッパーからの強い批判だった。小泉政権による“構造改革”という名前の利益優先政策が次々に打ち出されて、郵政も民営化された。ついでに住宅供給という国家にとって最も重要な役割があっさりと民間主導になってしまったのである。つまり住宅の供給は、そこに住む人々のためではなくて、供給する側の利益最優先ということになってしまったのである。
 もともと一九五五年に「日本住宅公団」が設立された理由は、低家賃で良質な住宅を供給することが目的だった。それは単に住宅という箱の供給ではなかった。どのように住むのかという“生活の仕方”を多くの日本人に再認識させるための、いわば教育装置だったのである。生成的で健康的な生活とはどのような生活か、家族はどのように一緒に住んだらよいのか。一つの家族が一つの住宅に住むという住形式が徹底された。家族というプライバシーを守る生活がどれほど安心できるものか、プライバシーに守られた空間の中にいることがいかに幸福か、公団住宅に住むことによって、多くの日本人はそれを知ったのである。住宅とは家族のプライバシーを守るためにある。それはもはや、今のわれわれ日本人にとって“常識”になってしまっている。それほど徹底されたのである。
 さらに、それはそのまま民間ディベロッパーによる住宅供給の原則になっていった。とにかくプライバシーを守る。そのための住宅だった。住宅の内側の快適性こそが住宅という商品の商品価値になっていったのである。それは、ディベロッパーにとっても、いかにも好都合であった。周辺環境に注意を払う必要がないからである。コミュニティに注意を払う必要はない。そんなことにこだわることはむしろ、住宅を供給する側にとっては利潤の足を引っ張るマイナス要因なのである。商品価値はあくまでも住宅の内側である。内側のプライバシーであり、内側の幸福なのである。
 そして、国の側はそれを大いに援助したのである。家族を住宅の内側に閉じ込めて詰め込んで高層化する。法的にそれを誘導することによって民間のディベロッパーの収益を最大化させる。

投資の対象となった住宅

 一九九六年には国は公営住宅の家賃を「近傍民間同種家賃」とする、と公営住宅法を改正した。周辺の民間ディベロッパーの収益を圧迫しないように、公営住宅の家賃を上げるというわけである。低収入の人たちの行き場がなくなる等ということはこれっぽちも考えない政策である。
 一九九九年には空中権売買が可能になる。空中権売買というのは、まるで冗談みたいな法律で、容積率にまだ十分余裕のある土地所有者は隣の土地所有者に対してその余裕を販売することができるという法律である。つまり隣の土地所有者はその土地の容積率制限を上回って建設することができるわけである。さらにそれが二〇〇〇年には再び改正された。改正といっても、その意味はディベロッパーに有利なように、という意味である。別に隣の敷地じゃなくても、離れた敷地でも空中権を販売できるというさらに輪をかけて冗談みたいな「特例容積率適用区制度」が制定された。都市景観がどうなるか知ったことではない、どのように住みやすい都市にするかなど知ったこっちゃないという制度改正であった。とにかく経済的な利潤だけが都市や住宅開発の目的になっていった。
 二〇〇〇年には、「資産流動化法」という法律ができた。不動産の証券化である。この法律ができたおかげで投資家からお金を集めることができるようになって、ディベロッパーは手もち資金がなくても、マンションを建てられるようになった。マンション建設に投資すれば、年利五パーセント程度の配当がある。銀行に預けてもほとんど預金金利がないような政策を続けながら、一方でこんなすぇい策を実行すれば投資家が飛びつくに決まっている。民間ファンドがこぞってマンション建設に投資したのである。
 これほどの悪法はないと思う。住宅が投資の対象になれば、住宅開発は投資家の方を向いて開発することになるからである。そこに住む人なんて全く眼中にない。駅前に超高層マンションがにょきにょき建つようになったのはその法律に起因している。駅に近くて、超高層で眺めがよくて、セキュリティーが完璧で、プライバシーに最大限に注意が払われていれば、それこそ売れ筋なのである。投資家にとっては十分に投資に値する物件である。住む人なんか眼中にないというのはそういう意味である。投資家の耳目を奪うことを主たる目的としてマンションが建設されているのである。「資産流動化法」のおかげである。
 二〇〇三年には、「総合設計制度」が改正されて、都市部の住宅用の大規模建築物に関して、敷地に一定上の空き地を設けた場合、容積率が一・五倍まで認められるようになった。これもいい加減な法律だ。周辺環境のこと、住まい手のことなどよりもディベロッパーがどれだけ儲けられるか、それを主眼としてつくられた法律である。床面積がい大きければ大きいほど利益に直接つながるからである。
 まだある。二〇〇七年には、住宅金融公庫が廃止されて住宅金融支援機構になった。支援機構が民間の銀行の保証人になって、住宅を購入する人に対して保証金なし、三五年長期ローン、固定金利等という、お買い得感満載のおすすめ借金制度をつくったのである。三五年ローンだったら、月々の返済金は賃貸住宅よりも安いですぜ、そうか、それなら住宅を買った方が借りるよりも徳だと誰だって思う。でも、これは一種の詐欺である。三五年メンテナンスしなかったら、住宅はぼろぼろになる。空調機のような設備機器は二五年程度で取り換えなくちゃならない。外壁の補修、子供が大きくなれば間取りも変更しなくてはならない。火災や地震に対する備えから何から、すべて自己責任である。三五年もたてば物件によって異なるとはいえ、相当のメンテナンス費用がかかることになるのである。借金をすすめる側(国)は維持管理にいくらお金がかかるかなど、そんなことは言わない。今、とりあえず借金をして住宅を買ってくれさえすれば、少なくとも短期的には国家の経済成長に貢献するのである。

(引用終了)
<同書 104−111ページ(図や脚注は省略)>

前回「江戸時代の土地所有」の項では、列島における共同体の問題点を土地所有に関する法律面から論じたが、同じ問題を、住宅政策に関する法律からもよく考える必要があることが分かる。この辺りは、

空き家問題
空き家問題 II
空き家問題 III

でも考察してきた課題である。

 山本理顕氏は、以前から家族と共同体のあり方に関して『地域社会圏モデル』(2010年)や『権力の空間/空間の権力』(2015年)などの著書で問題提起を行ってこられた。このブログではそれらについて逐次論じてきた。

流域社会圏
住宅の閾(しきい)について

併せてお読み戴きたい。

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posted by 茂木賛 at 11:42 | Permalink | Comment(0) | 街づくり

江戸時代の土地所有

2018年06月16日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 日本の土地問題に関して、以前「建築自由と建築不自由」の項で、“日本では、近代化、復興と成長を推し進めるために都市計画法が存在したので、土地所有も建築自由のままできてしまった”と書き、「対抗要件と成立要件」の項で、この建築自由の考え方の基は、明治政府が民法を制定するにあたり手本としたフランスの民法が、土地所有権者の自由を尊重するものだったことにあるらしいと記した。ここで「建築自由」というのは、土地は本来的に所有者の自由になるものだという考え方を指す。それに対して「建築不自由」とは、土地所有権はもともと制限されているもの、義務を伴うものであるという(ドイツ法の)考え方だ。

 今の日本はこの「建築自由」、土地は利用よりも所有が優先するという考え方が蔓延し、廃屋や空き地の第三者有効利用がなかなか進まない。人口が減って私有地の約20%が所有者不明となっているにもかかわらず、行政はそれを利用するための有効な手が打てない。

 それでは、明治時代以前の土地所有はどうなっていたのか。『百姓の力』渡辺尚志著(角川ソフィア文庫)によって、一般的な土地所有のあり方を見てみたい。「おわりに」から引用する。

(引用開始)

 江戸時代における百姓の耕地・屋敷地の所有は、近代的土地所有とは異なる性質をもっていました。まず、土地は幕府・領主との重層的関係のもとにあり、絶対的・排他的所有ではありませんでした。また、契約文書の文言より慣行が優先される場合があり、「契約の絶対性」が貫かれていませんでした。所有の主体の多くは家・村落共同体のような集団であり、個人的所有権は弱かったという点など、近代・現代の所有とは大きく違う点が少なくなかったのです。江戸時代後期には、地主・豪農層を中心に、近代的土地所有につながる考え方も芽生えていましたが、いまだ支配的にはなりえませんでした。
 日本における近代的土地所有権は、明治政府により、上から設定されたという性格が強いものでした。江戸時代の土地所有関係に対して、地券交付・地租改正を通じた近代的土地所有権の実現は、甚大な影響をおよぼしました。個人の排他的な土地所有権を認定することによって、村内の土地各種の有機的な結びつきを切断し、従来の個別所有地のもつ共同体的性格、「村の土地は村のもの」を否定したのです。
 地租改正の実施と、明治一六(一八八三)年以降に続発した困民党事件をはじめとする負債農民騒擾の鎮静化を経て、土地所有のあり方は大きく変わりました。困民党事件後も、農民の間から、近世的な土地所有意識がすっかり消えてしまったわけではありません。ただ、それは弱体化し、近代的な土地所有観念が優勢になったことも否定できません。その意味で、地租改正と困民党事件は、農民の土地所有に関して、近世と近代を分かつ大きな画期でした。以降、明治二〇(一八八七)年の登記法施行、同二二年の地券廃止・土地台帳規則制定と、近代的土地所有は急激に整備されていったのです。

(引用終了)
<同書 239−240ページ(フリガナ省略)>

江戸時代の土地所有は、あきらかに「建築不自由」、土地所有権はもともと制限されているもの、義務を伴うものであるという考え方だ。

 明治新政府は、西洋に追い付け追い越せというスローガンの下、国に民法というものがあること自体が大事で、それまでの考え方との整合性は深く考えなかったのではないか。そのうちに手直しすればよいと思っていたのかもしれない。しかし、戦争に次ぐ戦争、さらに大敗戦と続く中、その機会はついに訪れなかった。

 「建築自由」は公よりも私を優先する。実験的な面白い建物が都市にできるのは良いが、環境保護や景観への配慮は退く。建てたものは古びるから責任者たちがいなくなれば廃屋や廃墟が増える。統治の問題。同書の「おわりに」から最後の部分を引用しよう。

(引用開始)

 現在、私的欲望の野放図な解放は、生態系の破壊や資源の枯渇のみならず、人類の生存まで脅かすにいたりました。転じて江戸時代を見れば、村落共同体は村域内のすみずみまで責任をもち、結果として環境保護や資源の保全という機能を担っていました。つまり、村は土地の共同所有にもとづき、村人の生を担保していたのです。
 これは私たちの先祖の貴重な達成として、繰り返し思い起こされるべきでしょう。

(引用終了)
<同書 241ページ>

これからの時代、先人の知恵に学ぶところは多い筈。『百姓の力』には、土地所有以外にも共同体のあり方がさまざま紹介されていて示唆に富む。副題は「江戸時代から見える日本」。一読をお勧めしたい。

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関東学

2018年06月04日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 『日本史への挑戦』森浩一・網野善彦共著(ちくま学芸文庫)という本がある。副題は“「関東学」の創造をめざして”。第一刷発行は2008年12月(大巧社のハードカバー版発刊は2000年8月)。まず本の帯表紙、カバー裏表紙の紹介文を順に引用しよう。

(引用開始)

「関東」から日本を問う
いま明らかになる、その豊かな個性と潜在力

「関東」は、日本史のなかでは鄙の地として、奈良や京都のはるか遠景に置かれてきた。しかし、この地に鎌倉幕府が置かれ、江戸幕府が開かれたのは偶然ではなく、関東に大きな潜在力があったからである。――古代考古学と中世史の二人の碩学が、関東という地域社会の独自な発展の歴史を掘り起こし、日本列島の中で、また東アジア、アメリカ大陸との交流も視野に入れて、その豊かな個性を明らかにする。地理的な特徴、交通と交易、独自な産業、渡来人の文化、宗教の系譜など、さまざまな視点から関東の歴史を語り、新たな「関東学」の地平を開く、刺激的な対論。

(引用終了)

 先日「古代史の表と裏 II」の項で、“(1)は、古代海洋国家群を通過して、或いはさらに北から、時計回りに内陸に入ってきた遊牧民族を祖に持つと思われる”と書いたが、この本の中に、そのことにつながる叙述がある。ここで(1)とは、列島の父性(国家統治能力)の源泉、

(1)騎馬文化=中世武士思想のルーツ
(2)乗船文化=武士思想の一側面 
(3)漢字文化=律令体制の確立
(4)西洋文化=キリスト教と合理思想

における(1)騎馬文化を指す。

(引用開始)

 「関東学」の対象になる範囲は、さきほど網野さんからでましたので、そういう地域に、なにか地理的な特徴がないかと思って考えたのですが、東西だけではなく南北にずうっと続いているのが関東ではないでしょうか。(中略)
 それから北のほうは、山越えをすると新潟のほうへでて日本海沿岸につながります。このルートは非常に重要ではないかと思います。日本海の方面から入ってきた大陸の文化、主に朝鮮半島や華北の文化だと思うのですが、そういうものがたとえば群馬のあたりに影響する。だから群馬の高崎市にある綿貫観音山という前方後円墳からは、近畿ではみないような遺物が出ています。その一つに銅製の水瓶があるのですが、その発掘があってしばらくして、中国山西省の北斉の墓で、ほとんど同じものが出たのです。北朝につながる文物といってよいでしょう。その目でもう一度見直すと、観音山古墳には「三人童女」と俗に呼んでいる若い少女が三人、一つの楕円形の敷物に座っている埴輪があります。その埴輪をよく見ると、スカートの先端にレースのようなものがついている。これなどは北魏の雲崗の石窟の、横に描かれている供養者の女人のスカートに非常によく似ています。おそらく鮮卑族の女性の服装につながるものでしょう。そうすると観音山古墳というのは、日本列島のなかでのつながりはどうか。もちろん埴輪という目でみれば日本列島のなかのものになるけれども、埴輪に表現されている女性の衣装などを見た場合に、朝鮮半島を飛び越えて北魏につながるものも出てくるわけです。北魏は北から南下して大同から都を洛陽に移します。そして洛陽にきたら、みずから漢人との融合を政策としたとされている。だから北魏は日本の歴史ではあまり関係を評価されていません。ところが北魏のことを書いた『洛陽伽藍記』を読んでいたら、洛陽の都には扶桑館があって、「東夷」の人たちがそこに住んでいる、とある。一種のゲストハウスですね。国家対国家の正史にのこるような交渉があったかどうかはともかくとして、商人たちの交渉はあったと思いますね。そういうふうに北からの文化も入ってきます。だから群馬県には、渡来系の人たちが集中して住み、そのために一つの群をつくった多胡郡という地域があって、中国の六朝に流行した形の碑がたっています。この碑はそのルートからの影響をうけたものだろうと思います。
 つぎに、これは当然ですが、東西の道ですね。東の道はのちの白河関への道、そして海岸通りの勿来関、古くは菊田関とよばれていた関を通る道など数本の道があると思うけれども、エミシ(蝦夷)との交流の道になっていて、東ないし北から人びとや品物の入ったルートでしょうね。(中略)「蝦夷」といえば東北のことだと思い込んでいる文献学の人がいるように思いますし、考古学者にもそれに輪をかけてそう考えている人がいます。しかし七、八世紀、あるいは九世紀ころの文献を断片的にみても、エミシとの衝突をしているときもあれば、交易をしている状況もあるから、関東のなかでのエミシの問題やエミシとの交流については、いままであまり意識されていないと思います。これは大いにやらなくてはいけないでしょう。
 西方へのルートは、ふつう碓氷峠とか箱根や足柄からのルートを考えるけれども、それ以外にも、長野や山梨県から埼玉県や群馬県へ入る小さな山道は、相当多いですね。大きなルートは今日の中央線沿いや信越線沿いのルートですが、それ以外にも多くの道があります。何年か前、小渕前首相〔当時〕の出身地の群馬県中之条町によったら、天神や川端という弥生遺跡がほぼ今日の集落に重なるようにしてあるのを知りました。町の歴史館に陳列してある遺物を見ても、関東屈指の弥生集落で、このとき交通路の重要さを改めて感じました。中之条は西へ行くと鳥居峠をこして長野県の上田へ通じているし、草津を通って北方の新潟、つまり日本海方面にも行けるところなんです。弥生時代といっても、米の生産だけでなく、交通上の要地であることも富の一部だったのですね。
 そして長野には、高句麗系の王族を中心にした大集団が一つの郡(高井郡)をつくっています。高井郡には日本の積石塚の半分ぐらいは集中している。そういう集団のさらに拡張したというか、周囲に広まったのが、山梨の渡来系の集団です。山梨は二十年ほど前まで積石塚はないといわれていたけれど、最近は県の西部にたくさん見つかっています。以前は積石塚というのは、四国の石清尾山古墳群のような大きな板状の石を積んだものが連想されていたのでしょうね。さらに東京都の狛江市のあたりまで広がっていて、霊亀二年(七一六)に武蔵国に高麗郡ができたのです。
 長野県の高井郡には高井氏という、高句麗にあっても国王の家柄、一代目の朱蒙(鄒牟)という伝説上の始祖王の子孫を唱える、高句麗でも名門の一族が移ってきています。しかも有力な家来衆を従えてきていて、卦婁、後部、前部、下部、上部など高句麗での名前もずっと残っています。それが西から関東へくる道ぞいの状況です。

(引用終了)
<同書 61−73ページ(フリガナ及び注省略)>

長い引用になったが、越や北陸の古代海洋国家群を通過して、或いはもっと北方から、時計回りに関東に入ってくる遊牧民族の様子がよくわかる。『古代史の謎は「鉄」で解ける』長野正孝著(PHP新書)89ページにあるように、彼らは海を渡った後、先達が築いた川沿いの石墳墓や天空の星を道しるべに内陸へ移動しただろう。

 狩猟や騎馬文化、武士のルーツについての話もある。

(引用開始)

網野 もう一つは、関東について狩猟について考えてみたほうが良いと思います。さきほどもいったように将門と牧の関係も深かったといわれていますが、幕府成立直後に頼朝の行った富士の裾野での大規模な巻狩は、東国の王権の性格をよく示していますね。牧を背景にして馬を飼育し、騎馬で狩猟をやるわけです。これも関東の大事な文化要素です。
 前の話と関連させますと、『延喜式』には武蔵国の檜前馬牧をあげていますが、この牧は浅草付近ではなく、美里町駒衣付近に想定してよいでしょう。美里町の白石古墳群や後山王遺跡からは、立派な馬の埴輪が出土していて、馬牧がおかれたとしてもおかしくない環境です。(中略)
 埴輪にはかなり地域的特色があります。それをいままで地域的特色としてはとらえていません。つまり日本文化をいうときに、ならしてしまって、関東にはこういう例がある、群馬にはこういう例がある、とほかの土地にもあるかのように扱うけれども、これもきちっととらえ直さなければいけないですね。なぜ人物や馬の埴輪が関東に多いか。馬の埴輪なんて、全国の出土数の九割は関東に集中しているでしょう。(中略)
網野 狩猟はもちろん中世でも全国でやっていますし、九州も盛んだったと思いますが、関東の狩猟は非常に長く深い伝統があるのでしょうね。ですから頼朝が政権を樹立すると、まず最初に関東の原野で大規模な巻狩をやって大デモンストレーションをします。(中略)
 馬に乗って弓を射るということから考えると、明治や大正の時代に書かれた関東についての諸論文についての評価というか注目度が弱いといえます。たとえば、大正七年(一九一八)に鳥居龍蔵先生が雑誌『武蔵野』にお書きになった「武蔵野の高麗人(高句麗人)」、あれは短い文章ですが、みごとに問題提起をした論文ですね。武蔵野には高句麗系の高麗氏が住んでいる、そしてそれが武蔵野の武人になるという流れで書いています。そういう発想はその後あまりないのですね。十年ほど前に埼玉県行田市の酒巻一四号墳で、馬のおしりに旗を立てた埴輪、まるで高句麗の壁画に描かれている馬を埴輪にしたようなものが、初めて出ました。埴輪の旗ですから一センチぐらい分厚いものですけど、あのときに「大和に出ればおかしくないけれど、なぜ埼玉に出たのだろう」という新聞談話がありましたが、なぜ鳥居先生の有名な論文を読まずに発言したのかと。鳥居論文を読んでいれば、「鳥居龍蔵先生が大正時代に見通されたとおりのものが出ました」でよいわけでしょう。

(引用終了)
<同書 146−152ページ(フリガナ及び注省略)>

 関東学の対象はもちろん古代だけではない。この本には中世や近世に関する興味深い話も多く載っている。森氏の「文庫のためのあとがき」によるとこの対談が行われたのは1999年10月。いまでは両著者とも鬼籍に入られたが、このような地域学研究はその後も続いたのだろうか。いろいろと調べてみたい。

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