『脱住宅』山本理顕・仲俊治共著(平凡社)という本を読んだ。副題は“「小さな経済圏」を設計する”。まず内容を新聞の書評によって紹介しよう。
(引用開始)
紙の上に円を描いてみる。円の内側は内部空間、外側は外部空間となる。少し色をつければ、それらは私的空間、公共空間として具体化することもできる。
だが、都市の内外空間は公私空間に直結するわけではない。一軒家を取り巻く草原は外部空間であっても、公共空間とはいえまい。また、閑静な住宅地の閑静さは、公共空間を犠牲にした閑静さといってもいい。
プライバシーとセキュリティーを謳い文句にした戦後の集合住宅も閑静な住宅地と似たものだった。住戸の内部と外部は物理的・社会的に分離され、その結果、私的空間は「一住宅=一家族」の閉ざされた空間、外部空間は諸々のインフラストラクチャーに覆われた硬直化した空間となった。つまり、内外空間は公権力によって分離かつ管理される空間となった、というのが著者の見立てである。
「脱住宅」とは、私的空間を外部に向けて開くことを意味する。そのための一つの策が、私的空間の中に、外側の空間を迎え入れる「閾」という空間をつくることである。玄関をガラス扉にするという案は突飛にみえるが、玄関まわりの空間を工夫することで、自宅ビジネスの小オフィスとして使うことができる。同様に、コモン・スペースの一部を住戸つきの菜園にすれば、外部空間は私化されるよりはむしろ開放度を増すだろう。公私空間の境を決めるのは住人だという本書の指摘は重要である。
本書は建築・都市の公共空間論であるが、政治的公共空間論にも示唆を与える。共和主義は公共空間を重視する反面、私的空間を生活の巣とみなす傾向がある。一方、自由主義では、私的空間は自由の領域、外部空間は国家の領域とみなされ、正負の価値が反転する。共和主義か自由主義かではなく、二つが両立する政治空間を構想するとしたら、空間構成はどうあるべきか。本書は重要な示唆を与えるにちがいない。
(引用終了)
<朝日新聞 5/20/2018(フリガナ省略)>
「小さな経済」とは、個人の仕事、特技、趣味などを通じて、他者とかかわろうとする営みのことを指すという(同書217ページ)。副題の“「小さな経済圏」を設計する”とは、そういった営みを可能にする住宅設計のこと。
このブログでは、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による行き過ぎた資本主義への反省として、また、科学の還元主義的思考によるモノ信仰の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、動きの見えないモノよりも動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを「モノコト・シフト」と称し、いろいろな角度から論じている。
「
モノコト・シフトの研究」
「
モノコト・シフトの研究 II」
「
モノコト・シフトの研究 III」
「
モノコト・シフトの研究 IV」
「小さな経済圏」は、こういったコトを大切にする生き方、考え方の下において活性化する。だから「脱住宅」はモノコト・シフト時代の必然といえるだろう。小さな経済の意義については、以前「
ヒューマン・スケール」の項でも書いたことがある。今の日本にとって大切なことだと思う。
モノコト・シフト時代の住宅の社会的機能側面についてはこのブログでも、
「
新しい住宅」
「
新しい住宅 II」
「
新しい住宅 III」
などで論じてきた。この本には、玄関をガラス扉にするとか、向かい合わせにつくるとか、建築家ならではの住宅設計の実際が多く描かれている。実務者にとっても大いに参考になるだろう。
この本から、政府による機構改変や法律改悪を解説した部分を引用したい。104ページから111ページ、東雲キャナルコート一街区の設計に関わる章の冒頭。
(引用開始)
内側のプライバシー、内側の幸福「住宅・都市整備公団」としての最後の仕事である。この計画を最後に、都市基盤整備公団は「都市再生機構(UR)」という独立行政法人に組織替えさせられてしまった。公団のような国の組織が安い家賃の住宅を供給するから民業が圧迫されるのだという、民間ディベロッパーからの強い批判だった。小泉政権による“構造改革”という名前の利益優先政策が次々に打ち出されて、郵政も民営化された。ついでに住宅供給という国家にとって最も重要な役割があっさりと民間主導になってしまったのである。つまり住宅の供給は、そこに住む人々のためではなくて、供給する側の利益最優先ということになってしまったのである。
もともと一九五五年に「日本住宅公団」が設立された理由は、低家賃で良質な住宅を供給することが目的だった。それは単に住宅という箱の供給ではなかった。どのように住むのかという“生活の仕方”を多くの日本人に再認識させるための、いわば教育装置だったのである。生成的で健康的な生活とはどのような生活か、家族はどのように一緒に住んだらよいのか。一つの家族が一つの住宅に住むという住形式が徹底された。家族というプライバシーを守る生活がどれほど安心できるものか、プライバシーに守られた空間の中にいることがいかに幸福か、公団住宅に住むことによって、多くの日本人はそれを知ったのである。住宅とは家族のプライバシーを守るためにある。それはもはや、今のわれわれ日本人にとって“常識”になってしまっている。それほど徹底されたのである。
さらに、それはそのまま民間ディベロッパーによる住宅供給の原則になっていった。とにかくプライバシーを守る。そのための住宅だった。住宅の内側の快適性こそが住宅という商品の商品価値になっていったのである。それは、ディベロッパーにとっても、いかにも好都合であった。周辺環境に注意を払う必要がないからである。コミュニティに注意を払う必要はない。そんなことにこだわることはむしろ、住宅を供給する側にとっては利潤の足を引っ張るマイナス要因なのである。商品価値はあくまでも住宅の内側である。内側のプライバシーであり、内側の幸福なのである。
そして、国の側はそれを大いに援助したのである。家族を住宅の内側に閉じ込めて詰め込んで高層化する。法的にそれを誘導することによって民間のディベロッパーの収益を最大化させる。
投資の対象となった住宅 一九九六年には国は公営住宅の家賃を「近傍民間同種家賃」とする、と公営住宅法を改正した。周辺の民間ディベロッパーの収益を圧迫しないように、公営住宅の家賃を上げるというわけである。低収入の人たちの行き場がなくなる等ということはこれっぽちも考えない政策である。
一九九九年には空中権売買が可能になる。空中権売買というのは、まるで冗談みたいな法律で、容積率にまだ十分余裕のある土地所有者は隣の土地所有者に対してその余裕を販売することができるという法律である。つまり隣の土地所有者はその土地の容積率制限を上回って建設することができるわけである。さらにそれが二〇〇〇年には再び改正された。改正といっても、その意味はディベロッパーに有利なように、という意味である。別に隣の敷地じゃなくても、離れた敷地でも空中権を販売できるというさらに輪をかけて冗談みたいな「特例容積率適用区制度」が制定された。都市景観がどうなるか知ったことではない、どのように住みやすい都市にするかなど知ったこっちゃないという制度改正であった。とにかく経済的な利潤だけが都市や住宅開発の目的になっていった。
二〇〇〇年には、「資産流動化法」という法律ができた。不動産の証券化である。この法律ができたおかげで投資家からお金を集めることができるようになって、ディベロッパーは手もち資金がなくても、マンションを建てられるようになった。マンション建設に投資すれば、年利五パーセント程度の配当がある。銀行に預けてもほとんど預金金利がないような政策を続けながら、一方でこんなすぇい策を実行すれば投資家が飛びつくに決まっている。民間ファンドがこぞってマンション建設に投資したのである。
これほどの悪法はないと思う。住宅が投資の対象になれば、住宅開発は投資家の方を向いて開発することになるからである。そこに住む人なんて全く眼中にない。駅前に超高層マンションがにょきにょき建つようになったのはその法律に起因している。駅に近くて、超高層で眺めがよくて、セキュリティーが完璧で、プライバシーに最大限に注意が払われていれば、それこそ売れ筋なのである。投資家にとっては十分に投資に値する物件である。住む人なんか眼中にないというのはそういう意味である。投資家の耳目を奪うことを主たる目的としてマンションが建設されているのである。「資産流動化法」のおかげである。
二〇〇三年には、「総合設計制度」が改正されて、都市部の住宅用の大規模建築物に関して、敷地に一定上の空き地を設けた場合、容積率が一・五倍まで認められるようになった。これもいい加減な法律だ。周辺環境のこと、住まい手のことなどよりもディベロッパーがどれだけ儲けられるか、それを主眼としてつくられた法律である。床面積がい大きければ大きいほど利益に直接つながるからである。
まだある。二〇〇七年には、住宅金融公庫が廃止されて住宅金融支援機構になった。支援機構が民間の銀行の保証人になって、住宅を購入する人に対して保証金なし、三五年長期ローン、固定金利等という、お買い得感満載のおすすめ借金制度をつくったのである。三五年ローンだったら、月々の返済金は賃貸住宅よりも安いですぜ、そうか、それなら住宅を買った方が借りるよりも徳だと誰だって思う。でも、これは一種の詐欺である。三五年メンテナンスしなかったら、住宅はぼろぼろになる。空調機のような設備機器は二五年程度で取り換えなくちゃならない。外壁の補修、子供が大きくなれば間取りも変更しなくてはならない。火災や地震に対する備えから何から、すべて自己責任である。三五年もたてば物件によって異なるとはいえ、相当のメンテナンス費用がかかることになるのである。借金をすすめる側(国)は維持管理にいくらお金がかかるかなど、そんなことは言わない。今、とりあえず借金をして住宅を買ってくれさえすれば、少なくとも短期的には国家の経済成長に貢献するのである。
(引用終了)
<同書 104−111ページ(図や脚注は省略)>
前回「
江戸時代の土地所有」の項では、列島における共同体の問題点を土地所有に関する法律面から論じたが、同じ問題を、住宅政策に関する法律からもよく考える必要があることが分かる。この辺りは、
「
空き家問題」
「
空き家問題 II」
「
空き家問題 III」
でも考察してきた課題である。
山本理顕氏は、以前から家族と共同体のあり方に関して『地域社会圏モデル』(2010年)や『権力の空間/空間の権力』(2015年)などの著書で問題提起を行ってこられた。このブログではそれらについて逐次論じてきた。
「
流域社会圏」
「
住宅の閾(しきい)について」
併せてお読み戴きたい。