ここまで数回にわたり、徳川幕府をベンチャー企業に擬えて、武士のサラリーマン化と組織規模の問題(「経営の落とし穴」)、AとBのバランス(「教義と信仰」・「徳川時代の文化興隆」)、「家(イエ)」システム(「教義と信仰」)、ユニークな認識法(「反転法」)、経営理念の重要性(「経営の停滞」)などを論じてきた。ここでいうA、Bとは勿論複眼主義の対比、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」
におけるそれぞれを指す。列島のA側は長く漢文的発想が担っていたが、戦国時代以降、漢文的発想と西洋語的発想とは共存、その後長い時間をかけて漢文的発想は英語的発想に置き換わってゆく。複眼主義では両者のバランスを大切に考える。
前回「経営の停滞」の最後に、“国家経営の革新は幕末以降にまで持ち越されることとなった”と書いたが、今回は、何故そうなってしまったのかという理由、言い換えれば徳川幕府の崩壊の理由、を纏めてみたい。
まず、崩壊の理由・要因を幕府の内的なものと外的なものに分けてみよう。内的要因としては、〔1〕武士のサラリーマン化、〔2〕「家(イエ)」システムの形骸化、〔3〕幕府正当性の理論付けが弱かった、〔4〕鎖国により海外情報や交易が限定的、〔5〕AとBのバランス悪し。外的要因としては、〔1〕西洋近代国家のアジア進出、〔2〕各大名(とくに西南雄藩)が力をつけてきた、〔3〕農工商(とくに商)階層が力をつけてきた、〔4〕天災など。以上のようなところだろうか。次に内的要因を子細に見ていこう。
〔1〕武士のサラリーマン化
幕府崩壊の内的要因はどれもこの〔1〕に起因・連動していると考えられる。徳川時代初期(三代将軍家光あたりまで)は幕府内に戦国武士の気風が残っていただろうが、四代家綱、五代綱吉、六代家宣、七代家継と時代が下るにつ入れて、武士のサラリーマン化と組織の肥大が進んだ。幕府は大勢のサラリーマン化した武士を抱えたまま慢性的財政難に陥る。八代将軍吉宗の時代に財政は一時持ち直すもほどなく悪化。幕府三大改革(享保の改革、寛政の改革、天保の改革)はどれも財政再建を謳うが、本当に必要だったのは武士の気風の再建だったのではなかろうか。
〔2〕「家(イエ)」システムの形骸化
武士のサラリーマン化に伴って、幕府が広めた「家(イエ)」システムも形骸化してゆく。将軍家でも、実力で選ばれた吉宗(御三家紀伊からの養子)のあとは鳴かず飛ばずの将軍が続く。実力よりも血族や仲間内の諍いを経て将軍が決まるようになる。十一代将軍家斉に至っては、50年間も将軍位にありながら、政治は側近に任せ自らは奢侈な生活を送り続けた。
〔3〕幕府正当性の理論付けが弱かった
『江戸の思想史』田尻祐一郎著(中公新書)から引用したい。徳川時代後期、水戸藩の会沢正志斎が「徳川国家の正当性は民心の掌握という点で無力だ」と論じたことを受けて、著者は、
(引用開始)
というより、徳川国家はこの時まで、自らの体制を支えるべきイデオロギーについて、突き詰めて考えてこなかった。「公儀」による「泰平」は盤石に思われたから、一方で「武威」をかざし、他方で朝廷・天皇の権威(律令国家の枠組み)を利用して、儒教・仏教・神道を状況や領域ごとに組み合わせて体制を保ってこられたのである。
それは朱子学を正当として掲げ、イデオロギー的な一元性を強固に保つことで社会体制を維持していく中国や朝鮮の科挙社会との決定的な違いである。
(引用終了)
<同書 202ページ(フリガナ省略)>
と書く。徳川朱子学がその「至高」を天皇においたのは、下克上(武ののさばり)を抑える目的だった。どこかの時点で、「至高」を信長時代の天命、もしくは戦国時代の天道等に変更しておけば、幕府は会沢正志斎ら後期水戸学の国家論に対抗できる正当性を主張できたはずだ(勿論それなりの理論は必要だが)。しかし、武士のサラリーマン化、「家(イエ)」システムの形骸化が進むなかで、そのようなその見直しはされなかった。
〔4〕鎖国により海外情報や交易が限定的
鎖国政策は、徳川時代初期にスペイン・ポルトガルの脅威と耶蘇教の禁制に伴って取られた処置だ。その後幕府が蘭学をきちんと学んで、キリスト教にもアウレリウス派からアリウス派、カトリックからプロテスタント、英国国教会からギリシャ正教、マリア信仰から理神論まで様々あることを把握していれば、そして列島にふさわしい信仰の在り方を検討していれば、スペイン・ポルトガルの脅威が減少した徳川中期のどこか(田沼時代あたり?)で、鎖国政策を変更し、交易を活発化させることも可能だった筈だ。国家統治に関する世界標準の考え方も広範に習得できたに違いない。幕府と各大名との間で海外交易に関する取り決めは必要だただろうが。
〔5〕AとBのバランス悪し
徳川時代中期以降、社会のバランスはB側に寄っていった。列島における国家統治能力としてのA側は、
(1)騎馬文化=中世武士思想のルーツ
(2)乗船文化=武士思想の一側面
(3)漢字文化=律令体制の確立
(4)西洋文化=キリスト教と合理思想
とあったが、幕府内においては、武士のサラリーマン化で(1)が弱まり(3)が主流になっていた。(3)の官僚主義は新しいことを嫌う。(2)と(4)はそれなりに社会で機能していたのだが、それは幕府においてではなく、(2)は特に関西において商業の思想的基盤として、(4)は長崎の出島を前線に蘭学としてだった。徳川時代末期、西洋の英語的発想=弁証法が漢文的発想に置き換わってゆくと、蘭学(と陽明学)は幕府政策に影響力を持ってくる。しかしそれは負の影響力だった。幕府主流は(3)のままだから新しいことを嫌った。だから(4)はもっぱら反幕府側の思考を支えることとなった。幕府のA側は脆弱だったといえるだろう。
以上、内的要因〔1〕から〔5〕までを見てきた。「経営の停滞」の項で、徳川幕府は「組織理念の再確認」が必要だったのではと書いたが、これら内的要因によって、幕府は、時代にこたえる新しい国家理念を打ち出せなかった。ここが重要なポイントだと思う。そのことによって(現象的には内的要因と外的要因が殻を内側と外側から同時に叩く如くにして)、三百年弱続いた徳川幕府という卵は壊れたのだと思う。