夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


荷風を読む

2017年08月28日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 この夏、『老いの荷風』川本三郎著(白水社)という本を読んだ。川本氏は永井壮吉(ペンネーム永井荷風)の研究家としてよく知られていて、『荷風と東京』(都市出版)、『荷風好日』(岩波書店)などの著書がある。本書は荷風の晩年の暮らしと作品に焦点を当てた評論集。本帯表紙には「第一人者の視点と筆さばき。『墨東綺譚』以降の作品を中心に、老いを生きる孤独な姿を描く」とある。まず新聞の書評を引用しよう。

(引用開始)

戦争に粘り強く否をとなえる文学

 明治・大正・昭和にわたり活躍した文学者の永井荷風は、太平洋戦争後の一九五九年、七九才で亡くなった。
 近代の作家としてずばぬけて長寿である。老いをゆたかに多彩に描いた。
 不思議な人で、若い頃から老いに魅せられていた。フランス遊学から帰国した三十代の頃より、特徴的に老いをテーマとした。作品にぞくぞくと個性的な老人を登場させた。
 たとえば『すみだ川』では、老いた遊び人がからだを張り、甥の純愛を守る。社会批判のエッセイにも、世相や政府に毒舌をふるう塩辛じいさんたちがいきいきと活躍する。
 明らかに荷風は、老いを戦略的に活用した。その荷風が自身、真に老いたとき。さあ、どうなるか。いかに老いを生きるか。著者は注目する。
 本書は、「昭和十九年(一九四四)、戦局が悪化してゆくなか、この年に六十五才になる荷風の偏奇館での独居生活は厳しさを増していた」とのことばで始まる。
 荷風の老年には戦争が重くのしかかる。「独居高齢者」の少ない当時、配給はじめ全てがシングルの荷風には不利だった。加えて自宅の偏奇館は、昭和二十年三月の東京大空襲で燃えた。以来、各地をさまよう。
 ここで荷風はダメになったとされる。戦後の文壇に復活したとはいえ、作品の実態は虚しいと酷評される。
 著者はその文学史に待ったをかける。老後に四度も空襲に遭った荷風。PTSDを患っていたかもしれない。しかしなお現実の風速に食らいつく。空襲で焼け出された庶民を描く。つよい作家魂ではないか。
 『問はずがたり』をはじめ「羊羹」「買出し」「にぎり飯」など戦後に発表された作品群は、なるほどかつてのエネルギーはないが、戦争の不条理にこづき回されて生きる庶民の生を無情に乾いた筆致でえぐる。その試みを評価する。
 荷風への愛情がある。こまやかな目配りがある。何しろ著者は自身の人生の信念をこめ、長く荷風文学とともに生きてきた人。全編に、批評の神髄の愛情があたたかく薫る。
 老荷風を支える人もいた。その群像劇も興味深い。戦下、荷風をつれて明石・岡山へと逃げた音楽家。荷風の暮らしを助けた鉄工所重役、男性ダンサー。荷風の死を発見した家政婦の「とよさん」。おかげで死体は腐らなかった。
「荷風のひかげのような小説」が、出征する若者に愛されたという事実はかくべつに感動的だ。
 安岡章太郎は中国戦線で病み、病院にあった『墨東綺譚』をしみじみ読んだ。田村隆一が学徒出陣するさい、祖父は苦心して『墨東綺譚』を手に入れ、愛する孫に贈った。
 胸を突かれる。老いた男がどぶの匂う場末の遊び場で、掃き溜めに鶴のごとき娼婦と出会い、たがいに一瞬の夢をみるはかない物語が、そんなにも深く戦いにおもむく若者の魂と触れ合っていたとは。
 このくだりにも明らかだ。軟弱・退嬰的とされる荷風文学は、じつは戦争に滅法つよい。荷風の老いは、人間がくり返す戦いに、しずかに粘り強く否をとなえる。
 老いと死を知る人間が、なぜ戦おうか。争おうか。代わりにつかの間の生の美しさ、楽しさを愛するのみ。戦いの虚無を笑うのみ。
 荷風はまじめに自分の文学と人生を合致させようとした。自身も、人生のさいごの美を楽しむ老人として歩こうとした。うまくいかず、頭も足ももつれたが、死の前日まで務めた。そして独りで倒れた。
 荷風文学と戦争。本書が提起するテーマは、これからの世紀にいよいよ切実である。

(引用終了)
<毎日新聞 6/25/2017(フリガナ省略)>

書評は近代文学研究者持田叙子さんによるもの。持田さんにも『朝寝の荷風』(人文書院)、『荷風へ、ようこそ』(慶應義塾大学出版社)といった著書がある。

 『老いの荷風』には、荷風の「問わずがたり」「来訪者」「浮沈」「羊羹」「或夜」「にぎり飯」「心づくし」「買出し」「吾妻橋」といった、晩年の小説が紹介されている。あまり読む機会が得られないこれらの作品とその背景について知ることが出来るのは有難い。この本にはまた、『文人荷風抄』(高橋英雄著)、『荷風余話』(相磯凌霜著)、『わが荷風』(野口富士夫著)など、荷風に関した評論・随筆の書評もある。『文人荷風抄』については、以前「日本語の勁(つよ)さと弱さ」の項で触れたことがある。フランス語の弟子の話が印象的。書評には『荷風へ、ようこそ』(持田叙子著)も含まれている。持田さんの『朝寝の荷風』は既に読んでいたが、『荷風へ、ようこそ』(2009年出版)の方は読み逃していたのでさっそく入手した。

 荷風は、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

でいうと、A側発想の強い人だ。西洋語(英語・フランス語)に堪能で、作品には漢文脈の文体を駆使した(西洋と出会うまで日本のA側は長く漢文的発想が担っていた)。

 「レトリックについて II」で述べたように、明治以降日本は、漢文を減らし平仮名を増やすことと、わかりやすい口語文で書くことを推進した。「漢文脈からの離脱」と「言文一致」である。その結果、日本語から漢文的発想が失われ、(英語的発想も上手く取り込めなかったから)日本語によるA側発想そのものが弱くなった。

 そういう中、荷風は最後まで漢文的発想に拘った。その端正な文章を私は愛惜する。しかし、荷風は「公(Public)」としての発言を避け、芸事や花柳界といった「私(Private)」の世界に耽溺した。作家として、自らの身体の要求、感性に率直に耳を傾けることを優先した。A側の眼でB側を愛でることに力を注いだ。『百花深処』で言えば<隠者の系譜>に連なるが<反転同居の悟り>も会得していただろう。まさに書評にある“荷風はまじめに自分の文学と人生を合致させようとした。自身も、人生のさいごの美を楽しむ老人として歩こうとした。うまくいかず、頭も足ももつれたが、死の前日まで務めた。そして独りで倒れた”ということなのだが、何が彼をしてそのような生き方を選ばせたのか。さらに考えてみたい。

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東のケルト

2017年08月02日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 前回に引き続き『縄文とケルト』松本武彦著(ちくま新書)の話をしたい。まず前回引用した文章(「おわりに」)の先をさらに引用する。

(引用開始)

 大陸中央部の平原で芽生えて根を張った、この文明の知識体系やそれに沿った行動様式は、環境の悪化と資源の低落による危機を肥やしにして、その実利的な結実率の高さゆえに周辺の地域にも急速にはびこっていった。ケルトとは、ユーラシア大陸の中央部から主として西方へと進んだこの動きを、一つの人間集団の移動拡散というドラマになぞらえて、後世の人びとが自らのアイデンティティと重ねながらロマン豊かに叙述したものである。
 いっぽう、ユーラシア大陸中央部から東方にも同様の動きが進んだ。克明な一国史の叙述を大の得意とするわが国の歴史学や考古学では、この島国にしっかりと足をつけて西の海の向こうをにらむ姿勢をもとに、このような動きを、弥生時代に水田稲作をもたらした「渡来人」、古墳時代に先進的な知識をもってやってきた「渡来人」(古くは「帰化人」)に集約して描こうとしてきた。後者は一時、東のケルトとでもいうべき「騎馬民族」に含めて描かれようとしたが、島国日本の伝統と純粋さを信じたい心根と、日本考古学一流の実証主義とがあいまったところから大きな反発を受け、その時点では不成功の試みに終わった。
 ともあれ、西と東のケルトは、ともにその最後の到達地であるブリテン島と日本列島とにそれぞれ歴史的な影響を及ぼし、環濠集落のような戦いと守りの記念物や、不平等や抑圧を正当化する働きをもった王や王族の豪華な墓をそこに作り出した。紀元前三〇〇〇年を過ぎたころから紀元前後くらいまでの動きである。

(引用終了)
<同書「おわりに」 237-238ページ>

 ここに「東のケルト」という言葉が出てくる。ケルトとは何か。同書によってその定義を見てみよう。

(引用開始)

 ケルトとは、古い時代に中央アジアから西進してきた集団の一派で、言語や文化のうえでヨーロッパの基層を形成したと考えられてきた人びとのことをいう。考古学では、青銅器時代の後半から鉄器時代にかけて、すなわち紀元前一〇〇〇年を過ぎてからの数百年のあいだ、現在のフランス、ドイツ、オーストリア、チェコなどのヨーロッパ大陸中央部で栄えた文化の担い手が、ケルトに当たるとみなされてきた。馬を駆り、丘の上に城砦を築き、地中海や北海の地方と広く交易をし、戦車などを副葬する大きな墳丘墓を築いた人びとである。さらに時期が下がってローマ時代になると、その支配にときに立ち向かい、ときに傭兵や商売相手ともなる辺境民の雄として、歴史記録に登場することになる。

(引用終了)
<同書 170ページ>

 ここのところ『百花深処』の方で、父性(国家統治能力)の系譜を探る作業を続けていることは「かぐや姫考」でも書いた。そのなかで、「北方アジア経由の遊牧民族」を中世武士思想のルーツたる「騎馬文化」の一翼と措定したのだが、「北方アジア経由の遊牧民族」はこの「東のケルト」と重なる。

 これまで日本人の歴史学者や考古学者は、なかなかこのような大きなスケールでものを見ようとしなかった。ものごとを大きく上から俯瞰すること。

(引用開始)

 このように、大陸の辺境に浮かぶ島々に国を作った外からの力を、英国史では「ケルト」というグローバルな動きの一翼としてとらえ、日本史ではあくまでも島民としての立場からみた「渡来人」の受け入れとして理解してきた。大陸からの営力が外縁の島々に及ぶさまを、英国では宇宙の高いところから眺めているのに比べ、日本では島の地面に足をつけ、目の高さで海の向こうを見つめている。いうなれば、同じ動きを、英国史ではヨーロッパ史の一部としてみているのに対し、日本史ではどこまでも日本史としてにらんでいるのである。

(引用終了)
<同書 223ページ>

これは、以前から「現場のビジネス英語“Resource PlanningとProcess Technology” 」や「鳥瞰的な視野の大切さ」などの項で強調してきた、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

におけるA側の視点である。複眼主義ではAとBのバランスを大切に考える。さらに「おわりに」の引用を続けよう。

(引用開始)

 しかし、東西ケルトの動きの最終的帰結ともいえる大陸の古代帝国――漢とローマ――が日本列島とブリテン島とに関わった程度と方向性は大きく異なり、そのことは、両地域がたどったその後の歴史の歩みの違いと、そこから来る相互の個性を作り出すに至る。大陸との間を隔てる海が狭かったがゆえにローマの支配にほぼ完全に飲み込まれたブリテン島では、文字や貨幣制度など、抽象的な記号を媒介とする知財や情報の交換システム――人類第三次の知識体系――に根ざした新しいヨーロッパ社会の一翼としてその後の歴史の歩みに入っていった。
 これに対し、もっと広い海で大陸から隔てられていた日本列島は、漢の直接支配下に入ることなく、王族たちが独自の政権を作り、前方後円墳という固有の記念物を生み出し、独自のアイデンティティを固める時期がイギリスよりもはるかに長かった。私たち現代日本人は、このような感性や世界観を受け継いでいる。「縄文時代」「弥生時代」「古墳時代」と、同じ島国のイギリスの歴史ではほとんど用いられない一国史的な時代区分を守り、東のケルト史観たる騎馬民族説に反発する日本人の歴史学者や考古学者の観念もまた、そこに由来するのかもしれない。

(引用終了)
<同書「おわりに」 238−239ページ>

 モノコト・シフトでB側に注目が集まるのはいいが、思考は常にA側とB側の視点のバランスを取る必要がある。日本語的発想はそもそもB側だから、日本人はA側をより意識しなければならない。複眼的視野を持つ松本氏のこれからの仕事に注目したい。そういえば「かぐや姫考」で紹介した孫崎紀子さんも俯瞰してペルシャと日本列島との関係を見ておられた。松本氏や孫崎さんのような人がもっと出てくると、歴史の真相がより見えてくるのだが。

 最後に、本書第四章にある文章の間違いを指摘しておきたい。

(引用開始)

 つまり、青銅器時代の記念物は、新石器時代のそれに比べて、集団よりも個人を、平等性よりも階層性を表現した記念物と言ってよいだろう。このような記念物による、個人や階層を前面に押し出したまつりが、支配的な思潮を表す世の中になってきた。これが、新石器時代から青銅器時代へ、ひいては「文明」から「非文明」へという時代の移り変わりの、歴史的本質だったのである。

(引用終了)
<同書 164ページ>

この最後の“「文明」から「非文明」へ”は、“「非文明」から「文明」へ”の間違いだと思う。

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文明と非文明の社会

2017年08月01日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 『縄文とケルト』松本武彦著(ちくま新書)という本が出た。日本列島とイギリスの古代遺跡を比較検討する内容で、副題に「辺境の比較考古学」とある。まず本カバー表紙裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 ユーラシア大陸の正反対の位置にある日本とイギリス。新石器時代、大陸では四大文明の地域のような「文明型」の社会が広まっていくなか、その果てにあった両地域は、「非文明型」の社会へと発展していった。直接的な交流がないこの二つの地域になぜ共通性が生まれたのか? また、同じホモ・サピエンスなのに、なぜ大陸とは異なる方向へ進んだのか? ストーンサークルや巨大な墓など、それぞれの遺跡を訪れることで、いままで見えてこなかった知られざる歴史に迫る。

(引用終了)

 去年「観光業について II」の項で、観光客には日本語(文化)のユニークさをアピールするべきだとし、特にこれからはユーラシアからの観光客が増えるだろうから、“日本の歴史を振り返り、古代からのユーラシアとの接点をいろいろと探り出すのも面白いかもしれない。ユーラシア大陸の西端にある英国と組んで、二つの島国の似ているところ、違っているところを大陸の文化と関連付けて研究するのも楽しいかもしれない”と書いたが、そのままの内容の本がこうして出版されたことはとても嬉しい。

 両国の古代遺跡の類似性・違いは、地図などと併せて整理すれば観光資源として大いに役立つだろう。新聞の紹介文も引用しておこう。

(引用開始)

 太陽の運行に生死を重ねたり、斧を振り上げた時の重みと遠心力に破壊力を想起したり。「文明」以前、人類が共有した感覚が、先史時代の遺跡のかたちに投影されている。英国と日本、それぞれの遺跡を探訪して比較。大陸の東西の果てで、金属器の伝播とともに変わってゆく「非文明」の世界を生きた人々の精神世界を読み解く。

(引用終了)
<朝日新聞 6/11/2017(フリガナ省略>

 最初の引用のなかに、「文明型」と「非文明型」の社会という言葉が出てくる。約一万年前、氷河期が終わって温暖化した中緯度地帯の平原や森林で、人びとは多人数で定住するようになる。やがて約五千年前ごろ、太陽の活動に変化が起こり、地位緯度地帯の多くの地域は、冷涼化と資源の減少に直面した。この危機の中で、大陸中央部の平原では農耕を強化し、それを取り仕切る王や都市を核とする「文明」の社会が出来た。そこから離れた辺境の島々では、集団のきずなを強化し、資源がもたらす太陽や季節の順調なめぐりに精神的な働きかけを行う「非文明」の社会が発展したという。

(引用開始)

 非文明の社会。それは、人間が「科学」という思考と行為にたどりつくより前に生み出していた高度な知の体系の上に構築されたシステムだった。自らの生と死を軸としたさまざまな現象をアナロジー(類似やたとえ)の網でつむぎ合わせ、万象のしくみを説明しようとした。アナロジーは、ホモ・サピエンスのすべての個体が長い進化の結果として普遍的に共有した心の働きであるために、この段階での記念物は、地球上のどこへ行ってもよく似ている。たとえばストーン・サークルは、日本列島やブリテン島だけではなく、この段階に属するすべての大陸や海洋の社会で認められる形である。定住して大きな社会を作り始めたヒトが、初めて発展させた第一次の知識体系。人類学の巨人クロード・レヴィ=ストロースが「野生の思考」と呼んだものと、それは重なるところがあるのだろう。
 これに対して文明とは、非文明のさまざまな知的試行や積み重ねの中から生み出されて広まった、人類第二次の知識体系である。さまざまな出来事の見かけや外見をそぎ落とし、内側にあってそれを動かす原理と構造をえぐり出すことを旨とするこの知の威力は強大で、成功率は飛躍的に高く、広まった先々でさまざまな革新や発展をもたらした。だが、実利的な合理性がきわめて強いがゆえに、この知の体系は、周囲の万物や万象を統制して収奪する志向が強く、自然に対しては集約的農業にみられる環境の改変、牧畜を端緒とする生命への干渉などを、人間に対しては戦争や抑圧、不平等や階層化などを導いた。

(引用終了)
<同書「おわりに」 236−237ページ>

 このブログでは、21世紀はモノコト・シフトの時代だと書いている。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。動きのない「モノ」は、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

におけるAと親和性が強く、動きのある「コト」はBと親和性が強い。複眼主義ではAとBのバランスを大切に考える。

 これに「文明型」と「非文明型」の社会を重ねると、「非文明型」、つまり引用にある「第一次知識体系」はBと親和性が強く、「文明型」、つまり「第二次知識体系」はAと親和性が強い(Aの英語的発想は勿論今の英語)。「文明型」の社会が行き詰まる中、「非文明型」社会から学べることは多いと思う。

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