『「かぐや姫」誕生の謎』孫崎紀子著(現代書館)という本を読んだ。ここのところ『百花深処』の方で父性(国家統治能力)の系譜を探る作業を続けているのだが、その中で、古代民族文化を辿る資料の一つとしてこの本と出合った。父性の系譜とは直接関係しないが、かぐや姫の出自についての面白い仮説なので、こちらで紹介したい。著者は元外交官孫崎享氏の奥様。
本書の副題は「渡来の王女と“道真の祟り”」とある。まず本書帯(裏)から紹介文を引用しよう。
(引用開始)
『日本書紀』の記述を手がかりに、中世ペルシャと日本の暦や祭礼のつながり、飛鳥の遺跡や地形を調査分析。さらに神社の祭神から竹取物語最古の写本まで読み解き、飛鳥〜平安〜現代と時空を超えて「かぐや姫」誕生の謎に迫る。
(引用終了)
この本で著者は、『竹取物語』の作者が、菅原道真の直孫文時(ふみとき)であること、かぐや姫のモデルが、ササン朝ペルシャ王・ヤズデギルド三世の娘舎衛女(シャー女)とその夫ダラとの間に生まれた娘(ダラ女)であること、竹取の翁とは、オータル(大建)という名の同じくペルシャ人(の長老)であることなどを、様々な史料から解き明かしてゆく。執筆動機などを述べた「あとがき」を引用する。
(引用開始)
この十年余り、日本書紀に記載されているトカラ人(実はペルシャ人)たちを追いかけてきました。最後の記述、六七五年に舎衛女(シャー女)と十五歳の堕羅女(ダラ女)が天武天皇に新年の拝謁をしたところまできた時です。何気なく思ったことは、十五歳はペルシャにおける成人であるので、それまでは人質の母親と一緒であったとしても、堕羅女はもう宮中にはいられないのでないか。そうすると、ペルシャ人のいる村に行くよりほか、行く所はない。おそらく本邦初の存在であるアーリア人の両親から生まれた少女、しかも、深窓で育った十五歳のアーリア人の少女はどんなにきれいだったであろう。金髪だったかもしれない、それを見た飛鳥の人々はどんなに驚いただろう、人垣ができたかもしれない……と想像したとき、ふと思い出したのが、竹取物語でした。突然現れた、輝くばかりに美しい少女……、一目見ようとする人垣……。
すぐに古典文学の『竹取物語』を読み、啞然としました。『竹取物語』の時代設定は、まさしく堕羅女の時代である飛鳥時代、場所も飛鳥地方での出来事でした。しかも、飛鳥には「竹取物語」ゆかりの神社、讃岐神社までありました。この神社の不思議なことは、何者かが、その名前を「散吉神の社」から「讃岐神社」に変えたことでした。また、この神社付近からは、二上山が見えます。二上山は春分にはその峰の間に陽が沈むとされ、春分が新年であるゾロアスター暦に沿って生活した当時のペルシャ人にとっては、そこはまさに格好の土地でした。
一方、『竹取物語』の作者として、どうして「文時」が浮上したかといえば、全く違うなりゆきでした。
日本書紀に現れるペルシャ人と日本との接点についてまとめようとした時、作者不明であることをよいことに、作者になりすまし、語らせて、「竹取物語」につなげようと決めました。そのために、作者の時代背景を調べていました。作者は、学者か僧侶。なぜならば、「竹取物語」には浄土思想が反映されています。そして富士山の噴火。
もう一つの時代背景は、『源氏物語』の中にある「絵合わせ」の場面に登場する「竹取翁物語」です。文章を書いたのは紀貫之で、紀貫之は九四五年に没しているので、「竹取物語」の製作はこれ以前でなければなりません。
これらを考慮すると、まず僧侶は消えます。なぜなら、この頃の浄土教の僧侶は、念仏を唱えて諸国を巡る空也の時代です。その後現れる源信は、紀貫之の没年にはまだ三歳です。
では、この頃の貴族はどうでしょう。上流階級、学識があり、熱心な浄土思想の持ち主といえば、慶滋保胤か、その師である菅原文時が浮上しました。しかし保胤も、紀貫之の没年にはまだ十一歳です。では、文時は? といえば、なんと、すべての条件に合致します。しかも「竹取物語」についてはよく言われる藤原家に恨みを持つ者、菅原家の人物でもあります。紀貫之の没年には文時四十六歳。宮中で内記として「神社の訛りと神祇を正す仕事」をして二年が過ぎていました。ここで、神社名の「散吉」を「讃岐」にしたのは、文時だとわかったのです。思いがけず、作者が捕まってしまいました。もし神祇を正すのが文時以外の人物だったとしたら、「竹取物語」は生まれていなかったと思います。道真の孫であり、祟りの恐ろしさを誰よりも身近に体験している文時であったからこそ、お鎮まりいただくために「竹取翁物語」を書き、その中に、散吉神の社の名前であり、ご祭神の名前の一部である「さるき」とその由来を残したのだと思います。(後略)
(引用終了)
<同書 243−245ページ(フリガナ省略)>
学者にはない斬新な発想である。外交官の妻としてロンドン、モスクワ、ボストン、バグダード、オタワ、タシケント、テヘランなどで暮らした経歴が生きている。こういう研究者がもっと出てくると古代史の真相がより見えてくるのだが。
上記に「散吉神の社」という名前がある。そこには、散吉大建命神(サルキオオタツノミコトノカミ)、散吉伊能城神(サルキイノジノカミ)という二柱の神が祀られていた。この神々はいった誰なのか。そもそも散吉(サルキ)とはどういう意味なのか。孫崎氏はその謎に果敢に挑む。「まえがき」も引用しよう。
(引用開始)
竹取物語は、伝説ではなく、知識豊かな貴族により書かれました。これは定説です。
ではその作者が誰かとなると、候補者は多くいながら、未だ定説はありません。
ところが、ここにどうしても「竹取物語」を書かねばならない人物がいたのです。それは、菅原文時、つまり菅原道真の孫です。文章博士であり、和漢の文章にも和歌にも特に優れていました。
文時は、内記の職にあった時、十年間にわたり全国の神社の神祇の乱れと神社の訛りを正しくする仕事に携わりました。六五〇〇社以上の神社にあたりましたが、そのうち半分は自分の手になるものと自ら記しています。
その中に、大和国広瀬郡「さるき(散吉)神の社」がありました。文時はこれを「さぬき(讃岐)神社」と変えました。「さるき」から「さぬき」へ、訛りを正したのです。しかし、同時に文時は大きな悩みを抱えることになってしまいました。これにより『日本三代実録』中の二柱の散吉神をも、消してしまうことになったのです。三大実録には、散吉大建命神、散吉伊能城神の神階について書かれていました。三大実録は祖父道真の仕事で、実質、道真が編纂したものであるにかかわらず、左遷と同時に、道真の名は編者から削られています。
文時は二柱のご祭神の祟りを畏れ、また、道真の祟りをも畏れました。道真は祟り神で知られています。そこで、文時は、散吉神の名「さるき」を別の形で残そうとしました。その方策として「さるきのみやつこ」を主人公とする物語『竹取の翁の物語』を書いたのです。
実際に、『源氏物語』では、竹取物語は「竹取の翁の物語」ですし、『竹取物語』の最古の写本を含め現存する手書き写本のほとんどが、翁の名は「さるきのみやつこ」となっています。「さぬき」ではありません。
しかし現在では、江戸時代の木版本による誤り“さぬきのみやつこ”と、「讃岐(さぬき)神社」の実在のために、すべてが「さぬき」となってしまいました。江戸時代には「散吉郷」まで「さぬきごう」と読まれました。しかし、「さきごう」と読むという資料もあり、「さき」の存在は「さるき」という音を示唆しています。
では、いったい「さるき」とは何でしょう。『日本書紀』の斉明天皇の項にはペルシャ人たちが登場します。彼らの「長老」は「sarkar」と呼ばれました。この音が、日本人には「さるき」ととらえられたのだと思います。散吉の散は「さる」、当時、散楽は「さるごう」と読まれていました。「き」に吉があてられています。古代の日本人にはペルシャ人たちが話すサルカルという音は「さるき」と聞こえ「散吉」と音訳したのでしょう。
これらのペルシャ人は期せずして、今につながる私たちの伝統文化に結果として関わることとなりました。このお話は、これらペルシャ人たちと謎の多い飛鳥時代の日本とのかかわりから始まります。
(引用終了)
<同書 1−3ページ(フリガナ省略、太字は傍点)>
いかがだろう、列島の古代史に興味がある方なら一読したくなるのではないか。夏休みに丁度良い読み物だとおもう。ペルシャ文化と古代日本との関係については、『ペルシャ文化渡来考』伊藤義教著(ちくま学芸文庫)にさらに詳しい。
かぐや姫に関しては、以前「日本アニメの先進性」の項で、『かぐや姫の物語』高畑勲監督(スタジオジブリ)について書いたことがある。併せてお読みいただければ嬉しい。