「空き家問題 II」でも触れた『都市計画法改正―「土地総有」の提言』五十嵐敬喜・野口和雄・萩原淳司共著(第一法規)を再読していたら、第3章「近代都市計画法の構造」3都市計画法内部の構造と論点(7)<世界の都市計画法と建築許可>の項に、「建築自由」と「建築不自由」という言葉があった。
同項は、日本と西欧(アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ)の都市計画法の違いを論じているのだが、日本における都市計画のマスタープランは、議会の議決もなく有効性が薄く、開発や建築確認がマスタープランと無関係に行われるのに対して、西欧におけるマスタープランは、都市の将来像を示すものとして議会の議決を要し、現実の建築に影響していくとした上で、この違いの根幹には、土地所有権に対する哲学と法制度の差異があるという。
(引用開始)
このように双方を分岐していくのは、結局のところ、土地所有権に対する哲学と法制度の差異である。既にみたように、土地は本来基本的に自由なのであって、これが制約を受けるのは、その利用が他者を害する時だけであるとし、この他者への侵害を「公共の福祉」として捉え直し、これを法的に構成したのが日本の憲法の土地所有権であった。これを建築自由といおう。各国は、これとは反対の論理構成をとっている。つまり、土地所有権はもともと制限されているものであり、これを開放していくのが都市法であるというのである。これを建築不自由といおう。これはいわば前にみたワイマール憲法の「土地所有権には義務が伴う」を前提として都市計画を構成しようとするものである。
(引用終了)
<同書 124−125ページ>
以前「都市計画の不在」の項で、「日本の都市には、都市の文脈の中で建築物をどうつくるかという、本来あるべき長期的な視点に立ったResource Planningがまったく不在だという」と書いたが、都市計画法や建築基準法はあっても理念に基づいた本来の都市計画が不在であり、「建築自由」つまり土地所有に義務が伴わないのであれば、今の日本各地でみられるような、自治体の恣意的な取り決めと市場原理主義(儲け主義)とによる、「乱開発と空き家増加の同時進行」は避けられないわけだ。勿論例外自治体はあるにしても。
日本では、近代化、復興と成長を推し進めるために都市計画法が存在したので、土地所有権も建築自由のままで来てしまった。それに対して、
(引用開始)
欧米の近代国家は、初期の資本主義の段階で、建築の自由から建築の不自由へいち早く転換し始め、特に都市への人と経済活動の集中に伴い発生した都市の爆発的拡大をゾーニングにより制御しようとしていた。後にこれに「計画」の概念が付加されて都市計画となるのである。
(引用終了)
<同書 20ページ>
日本には議会で定める長期的な視野に立った都市計画はないが、中央官僚がつくる景気刺激策としての公共事業は山のようにある。その多くは「公共の福祉」の名を借りた無駄なものだ。「道路、河川等々の公共事業は、計画、財源、そして組織などのすべて、いわば頭から尻まで「国」が独占的に仕切っていて、市民はもちろん、自治体すらほとんど介入の余地がないというのが日本の法的な現実」(同書105ページ)なのである。
複眼主義の、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」
という対比において、A側、すなわち「公(Public)」=「都市」における諸活動は、他人との利害調整を必要とすることが多く、その場合活動は一般的に「原則制限、例外許可」という形を取らざるを得ない。ただしその「原則」は市民の合意に基づくものであることが前提だが。一方B側、すなわち「私(Private)」=「自然」における諸活動は、「原則自由、例外制限」であることが普通だ。
近代国家における「土地」の所有はA側に属する活動である。だからそもそも「原則制限、例外許可」のはずなのだが、言語的に発想がB側に偏っている日本において、それがB側の「原則自由、例外制限」となっている。近代化の過程で起きたこの捻じれ現象は興味深い。
『都市計画法改正―「土地総有」の提言』における「土地総有」というコンセプトは、西洋的な「コモンズ」=「ある特定の人々の集団あるいはコミュニティにとって、その生活上、或いは生存のために重要な役割を果たす希少資源そのものか、あるいはそのような希少資源を生み出すような特定の場所を限定して、その利用に関して特定のルールを定めるような制度を指す」(同書172−173ページ)と似ているが、土地そのものを対象にする点で「コモンズ」ルールのさらに上を行く。
発想がB側に偏っている日本人は、近代国家における土地所有の「原則制限、例外許可」という概念を一気に飛び越えて、「原則自由、例外制限」どころか「土地も空気や水と同じ自然であるからそれは個人の所有にそぐわない」という超越的発想が可能なのかもしれない。そこまで著者たちの射程距離に入っている(提言の前提に含まれている)のかもしれない。
複眼主義ではAとBのバランスを大切に考える。「新しい会社概念」の項で、資本主義終焉のあとの会社の在り方について考えたが、これからの新しい土地所有概念についても、複眼的視点でさらに研究したい。