夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


賢人ネットワーク

2016年08月31日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『百花深処』で<根村才一の憂鬱>を書き、当ブログで「住宅からの象徴の喪失」を書いたが、その両項で扱った<日本の戦後の父性不在>の問題が頭から離れない。複眼主義では、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

という対比を掲げ、A側とB側のバランスを大切に考えるが、父性不在とは社会がB側に偏重してこのバランスが取れていない状態である。

 西洋と出会う前の日本では、古来A側は漢文的発想で担われてきた。「レトリックについて II」の項でもみたが、明治以降の近代日本語は、「漢文脈からの離脱」と「言文一致」によって、(もともと日本語的発想はB側が強いのにさらに)A側の発想を弱めてしまった。

 A側の発想が弱まったことは、産業構造の変化に伴う公的役割の移行、すなわち、家父長制度下での「家」から近代家族(核家族制)下での「個」への移行、をより困難なものにした。「個」が公的役割を担うには自立が求められるが、そのためにはどうしても「主格中心」の発想を強く持たなければならない。「近代西欧語のすすめ」の項で論じたのもこのことである。家父長制度の下で自立を求められたのは家長だけだったが、近代社会ではそれが核家族の世帯主に広がった。二一世紀に入り、産業構造変化によって「近代家族」は「新しい家族の枠組み」へと移り変わるが、ここにおいて公的役割を担うべき主体は、さらにすべての成年男女へと広がった。社会としてA側とB側のバランスをどう取るか。

 『日本の大問題』養老孟司・藻谷浩介共著(中央公論新社)という本を読みながら考えていたのもこのことだった。本の副題は「現在をどう生きるか」。本の帯表紙には藻谷氏の写真の横に「日本人は大丈夫でしょうか」とあり、養老氏の写真の横に(藻谷氏の質問に答えるような形で)「案外あてになる」と書いてある。「案外あてになる」のは日本人のどの部分なのか。氏のロジックに沿って考えてみよう。本文からその対話部分を引用しよう。

(引用開始)

藻谷 マスコミの経済担当どころか、経済学者でも、アベノミクスの論点が何なのかすら見えていない。「専門家」がこれで、日本は大丈夫なのでしょうか。
養老 いや、本質的には大丈夫だと思っています。前も、大衆は信用できるかという話になりましたね。日本人は、心の奥ではわかっていて、妥当な判断ができる。案外あてになるな、というのが僕の感覚です。

(引用終了)
<同書 184ページ>

「あてになる」のは「日本の大衆」。「心の奥ではわかっていて」とあるから、それは、複眼主義でいうA側の「脳(大脳新皮質)の働き」というよりも、B側の「身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き」の部分だろう。日本(語)人はこちら側が強い。氏はそれをB側の「感覚」で把握する。そして別の個所で氏は次のようにいう。

(引用開始)

養老 日本の場合、結局、個は定着できないんです。夏目漱石が西洋文化とぶつかって一番悩んだこと、それは個の問題でしょう。悩みすぎたのか、胃潰瘍になって死んでいます。

(引用終了)
<同書 189ページ>

日本人には「個」が定着しないからA側の理性的思考はだめだけれど、B側の身体感性的思考は充分あてになるということなのだ。

 ところで、ここを読んで私は夏目漱石(本名夏目金太郎)の『三四郎』(新潮文庫)の有名な個所を思い出した。上京する三四郎と、かの男(広田先生)との列車内の会話である。

(引用開始)

 三四郎は(中略)「然しこれから日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
「亡(ほろ)びるね」と云った。

(引用終了)
<同書 23ページ>

藻谷氏は山口県出の赤門卒業、養老氏は赤門の先生だから、藻谷氏が三四郎で、養老氏が広田先生。日本の将来についての養老氏の答えは「日本人は案外あてになる」で、広田先生の答えは「亡(ほろ)びるね」だから真逆だけれど、複眼主義を補助線にして考えれば、日本が「亡びる」のはA側の発想が弱いからであり、「案外あてになる」のはB側の発想の方だとわかる。

 しかし、社会はB側だけに依存するわけにはいかない。極端なB側依存は全体主義を招く(戦前の大日本帝国のように)。このブログでは日本語の強化によって「個」の自立を促すことを提唱しているが、養老氏は日本のA側問題(父性の不在)についてどう考えるのか。それがこの項のタイトルにした「賢人ネットワーク」である。

(引用開始)

藻谷 状況依存が強い人は、アイデンティティやインテグリティ(人格的統一性)が弱くなるのでは。
養老 だから、完全な状況依存なら、その人はいらない。その人自体が状況の一部になってしまうようでは。(中略)
藻谷 世の中が滅茶苦茶になってから果敢に抵抗するのでは、英雄的な話としてはおもしろいけれど、そもそも英雄が必要な状況になる前に止めるほうがずっと良い。そう思いながらささやかに行動しているのですが、無茶な金融緩和などを見ていると、どうも雲行きが怪しくなってきました。
養老 もともとフリーメイソンとかマフィアというのは、そのためにできたんじゃないでしょうか。つまり、社会の問題を早期に是正したいと考えた人たちが作ったんじゃないか。ネットワークを使って、水面下で問題の芽を摘み取っていくために。(中略)
藻谷 日本で言えば、京都の町衆がそのネットワークに近いかもしれません。
養老 結局、都市化するとそういうものができてくるような気がします。みんな公のネットワークが頼りにならないことはよくわかっていますから。日本はそれを「世間」という言い方をしてなんとかやってきたわけです。日本で、目に見えず、社会の安定に寄与してきたのが「世間」です。
藻谷 その「世間」を、都市化の中でズタズタに解体したのが戦後日本かもしれません。それぞれの会社の中に世間があって、辞めたらサヨナラ。そうであればこそ確かに、善意の裏ネットワークというのは、これからの日本で大事になるかもしれませんね。私も年間に登壇・面談・会食の類を千回以上重ねる生活なので、できる範囲でそこそこネットワークを形成してきているかもしれません。
養老 いざとなると、藻谷さんの知り合いたちが動き出すかもしれませんよ。僕自身、すこしそうなって来ているんです。
藻谷 養老マフィアができつつある(笑)。

(引用終了)
<同書 199−213ページ>

養老マフィアとでもいうべき「賢人ネットワーク」を機能させること、それが養老氏のA側対策であるらしい。

 家父長制度に代わる新しい賢人ネットワーク。それは表立った組織とはならないけれど、非組織的な強靭な抵抗の仕方だという(同書215ページ)。何がどう動き始めるかまだわからないが、養老氏の今後の活動が興味深い。

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住宅からの象徴の消失

2016年08月23日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『日本の家』中川武著(角川ソフィア文庫)という本を読んだ。去年(2015年)10月に出版された文庫。元の単行本は2002年6月TOTO出版から刊行されたと奥付にある。建築史家が日本の家屋の詳細を綴ったもので、手軽だが写真や図も多く巻末の用語解説も充実している。本カバー裏表紙の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

たとえば大黒柱に縁側、上がり框や雪見障子、畳に襖――日本の家には四季を取り入れ、古来の習俗と共に生きてきた先人の知恵と情緒、美意識が込められている。その歴史や変遷、計算された構造を紐解きながら、家の持つ本来の意味、住まうとは何かを考える。生活が西欧化し、自由なデザインや利便性の高い住宅建築が急増する現代、伝統的な家のしつらいを見直し、世界が憧れた日本建築の全てを美しい写真と共にたどる決定版!

(引用終了)

 本の内容は、「境界空間」や「仕切り」などといった項目ごとに、<三和土(たたき)><上がり框>といった細目が並ぶ。目次を列記すると、

「境界空間」
<三和土(たたき)>
<上がり框(あがりかまち)>
<沓脱石(くつぬぎいし)>
<縁側(えんがわ)>
<土庇(どひさし)>

「仕切り」
<格子(こうし)>
<葦簀(よしず)>
<襖(ふすま)>
<雪見障子(ゆきみしょうじ)>

「場」
<囲炉裏(いろり)>
<風呂(ふろ)>
<茶の間(ちゃのま)>
<勝手(かって)>

「部位」
<大黒柱(だいこうばしら)>
<長押(なげし)>
<押板(おしいた)>
<天井(てんじょう)>

「しつらい」
<畳(たたみ)>
<箱階段(はこかいだん)>
<箪笥(たんす)>

「素材」
<漆(うるし)>
<瓦(かわら)>

「象徴」
<仏壇(ぶつだん)>
<表札(ひょうさつ)>
<地鎮祭(じちんさい)>

ということで、今の洋風家屋では忘れられた細目も多くあって勉強になる。

 このブログではこれまで、「広場の思想と縁側の思想」「境界設計」などの項で、日本家屋における「境界」の特徴を見てきたが、この本の「境界空間」「仕切り」では、その歴史や構造についてより詳細に知ることができる。

 日本の家屋は、当然のことながら、日本の家族制度と共に変遷してきた。戦前までの日本では、「公」=父性は、「個人」ではなく「家」によって担われていたが、戦後、新憲法がそれを壊して「個人」に置き換えた。近代の産業構造とも相俟って、家族制度は「家父長制」から「近代家族(核家族制)」に移行したが、個人の精神的自立が進まない日本において、「公」の担い手の(家から個人への)移行はスムーズではなかった。社会制度との整合も進まず、育児・教育・雇用・介護・相続などの面で、家族と社会における責任と権限の混乱は今も続いている。

「場」
<囲炉裏(いろり)>
<風呂(ふろ)>
<茶の間(ちゃのま)>
<勝手(かって)>

「象徴」
<仏壇(ぶつだん)>
<表札(ひょうさつ)>
<地鎮祭(じちんさい)>

の各細目は、このあたりのことを考える上で参考になる。「象徴」という項目の下に付けられた短い文章を引用したい。

(引用開始)

住宅とは何か、と問われれば、すぐには答えられないほど多くの説明が必要なように思われる。では、住宅を象徴するものは何か、という問いではどうだろうか。その答えの一つに、家族があるだろう。では家族とは、と問うと、また曖昧になってくる。そこで強引に、家族を象徴するものは生と死である、と考えることにする。現在(いま)、住宅から生と死が消滅しつつあり、家族共同体や、地縁から縁遠くなって久しい。これらはもちろん、本来象徴的にしか住宅に含むことができないものであった。この、住宅からの象徴の喪失こそ、伝統的な日本住宅の衰退の始まりだったのではないだろうか。

(引用終了)
<同書237ページ>

 近代の産業構造は二一世紀になってさらに変わり、これからは「新しい家族の枠組み」が必要とされるようになってきた。「家父長制度」→「近代家族(核家族制)」→「新しい家族の枠組み」といった変遷とその混乱を、「住宅からの象徴の消失」といった観点からみるのは面白い。

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庄内弁の小説

2016年08月16日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 先日「庄内平野の在来野菜」の項で庄内弁について触れたが、庄内弁を多用した小説といえば、『春秋山伏記』藤沢周平著(新潮文庫)を挙げることが出来る。周知のように、藤沢周平(本名小菅留治)は山形県鶴岡(庄内地方)の出身の作家である。

 この『春秋山伏記』は、羽黒山の山伏(修験者)と庄内地方の村人たちを描いた物語である。著者の「あとがき」にもあるが、どちらかというと山伏よりも村人の生活に焦点が当てられている。その「あとがき」から一部引用しよう。

(引用開始)

 庄内平野に霰が降りしきるころ、山伏装束をつけ、高足駄を履いた山伏が、村の家々を一軒ずつ回ってきたことをおぼえている。(中略)
 こういう子供のころの記憶と、病気をなおし、卦を立て、寺子屋を開き、つまり村のインテリとして定住した里山伏に対する興味が、この小説の母体になっている。
 とは言っても、山伏に対する子供のころの畏怖は、まだ私の中に残っているようだ。彼らは普通人と同じように、村の中で暮らすことも出来たが、修験によって体得した特殊な精神世界を所有することで、彼らは一点やはり普通の村びとと違っていただろうと考える。そこは、ただの人間である私には、のぞき見ることが出来ない世界である。畏怖はそこからくる。
 そういうわけで、この小説は山伏が主人公のようでありながら、じつは江戸後期の村びとの誰かれが主人公である物語になっている。
 またこの小説で、私はほとんど恣意的なまでに、方言(庄内弁)にこだわって書いている。およみくださる読者は閉口されるに違いないが、私には、方言は急速に衰弱にむかっているという考えがあるので、あまりいい加減な言葉も書きたくなかったである。ご諒承いただきたいものである。

(引用終了)
<同書 306-308ページ(フリガナ省略)>

閉口するどころか、私は大いに庄内弁を楽しんだ。村人たちが遣う日常の言葉は物語にリアリティを与えている。土地の言葉は歴史(時空の集積)そのものだからだ。

 同書の解説によると、「庄内弁とは恐らく、京都の言葉が海岸沿いに北進してこの地方に定着し、東北訛(なま)りと融合したものであろう」とのことである。その一端を同書から抜書きしてみよう。物語の最初に、村人「おとし」が、山伏・大鷲坊となって帰ってきた「鷲蔵」と出会うときの会話。

(引用開始)

「お前(め)、鷲蔵さんでねえろが?」
「ンだ」
 と大男の山伏は言った。
「あいや、肝消(きもげ)だ(驚いた)ごど」
 おとしは本当に驚いて言った。
「せば、おらっさけだ(さっき)、鷲蔵さんから助けらえだなだがや」
「お前(め)は誰(だえ)だっけの?」
 大鷲坊は首をひねってじっとおとしの顔を見た。
「おら、重右ェ門(じようえむ)のおとしだども」
「重右ェ門? ああ、おとし……」(中略)「思い出した。お前(め)は泣き味噌(みそ)の女子(おなんこ)での。俺がわぎさ行(え)っただけで、泣き出したもんだった」
「ンだがものう。鷲蔵さんはおっかなかったもの」
「しかし、あの泣き味噌が、きれいなあねさまになったもんだの」
「やんだ、おら」
 おとしは顔を隠して言い、手を離すと赤い顔になって大鷲坊をみ、小さな笑い声を立てた。眼の前の怖い山伏が、あの鼻つまみの鷲蔵だとわかった気楽さと、きれいなあねさまというひと言に誘われて、思わず若い身振りになっていた。(中略)
「おとし、さっけだ(さっき)がら、その……」
 大鷲坊がおとしの抱えている笊(ざる)を指さした。
「笊かっつめ(抱え)でいるども、それは何だ?」
「あ、これ」
 おとしはあわてて笊の青物をさしだした。
「これ、さっけあだのお礼に持ってきたなだもの。だべでくらへ」

(引用終了)
<同書 24−25ページ>

 「庄内平野の在来野菜」でも書いたように、これからはこういうlocalな価値がものを云う時代だと思う。『春秋山伏記』は、昭和53年(1978年)に書かれた。戦後の高度成長期(1955年−1973年)と、その後のバブル期(1985年−1991年)との中間時点である(各期の年代は諸説ある内の一つ)。多くの日本人が経済成長に舞い上がっていたこの時期、将来を見据えてこういう作品を残してくれた作家もいたのである。

 修験道については、以前『百花深処』<修験道について>の項で書いたことがある。併せてお読みいただきたい。写真は先日旅行時に撮った羽黒山五重の塔。

062.JPG

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日本の美術館

2016年08月12日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 このブログでは、日本の街づくりに必要なコンセプトとして、「庭園・芸術都市」(庭園や里山、邸宅美術館や芸術劇場を持つ流域都市)を提唱しているが、その提唱者としては、最近出版された『フランス人がときめいた日本の美術館』ソフィー・リチャード著(集英社インターナショナル)を紹介しないわけにゆかない。ソフィーさんの写真が添えられた本の帯表紙から、紹介文を引用しよう。

(引用開始)

フランスの美術史家が、10年かけて日本各地を旅し、選りすぐった「本当に価値のある」美術館。英語圏で大評判のガイドブック待望の翻訳!
朽木ゆり子氏推薦!「私も知らない美術館がこんなに!ソフィーさんの眼力に脱帽」

(引用終了)

ということで、この本には日本全国、50箇所ほどの美術館・博物館が、綺麗な写真と共に、基本見開き一ページ/一箇所で紹介されている。それ以外に追加情報として言及された美術館もある。

 彼女の「日本の読者の皆さんへ」という巻頭にある文章を一部紹介する。

(引用開始)

 世界中どこへ行っても美術館めぐりをするのが好きなので、日本でも美術館を訪ねてまわりました。ほどなく、この国には信じられないほど多くの美術館があること、その一方で、日本語のできない者が美術館情報を見つけるのは容易でないことがわかりました。美術館への好奇心が高まるままに、もともとリストづくりが好きだったわたしは、訪ねてみたい美術館の一覧表をつくりはじめました。
 そんなある日、美術館をテーマにして本を書こうと思い立ったのです。日本文化を知るにはそれがいちばんだと思いました。伝統美術から最先端をいく現代アート。写真から民藝。芸術家の住まいを改装した瀟洒な美術館から堂々たる大型美術館……。日本の美術館はバラエティに富んでいます。わたしはこうした美術館を通じて過去と現代の日本のすばらしさを知り、日本を体験することができました。

(引用終了)
<同書 2−3ページ(フリガナ省略)>

 このブログでは、「観光業について」や「観光業について II」の項などで、海外観光客向けになすべきこととして、

(1)日本語(文化)のユニークさをアピールする
(2)パーソナルな人と人との繋がりをつくる
(3)街の景観を整える(庭園都市)

という三点を挙げているが、この本の原著は、海外の人々に(1)の日本文化のユニークさをアピールする役割を果たしてくれているわけだ。そして日本語のこの本は、我々日本人に、日本がこれから「庭園・芸術都市」としてやってゆく自信を与えてくれる。

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タノシイとウレシイ

2016年08月02日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 黒川伊保子さんの新しい本、『感じることば』(河出文庫)を面白く読んだ。黒川さんは、「株式会社感性リサーチ代表取締役。メーカーで人工知能の開発に従事した後、世界初の語感分析法を開発。マーケティング分野に新境地を拓く感性分析の第一人者」(カバー表紙裏の略歴から)で、このブログではこれまで、「発音体感」「発音体感 II」などの項でその著書を紹介してきた。
 
 この本に、「楽しい(タノシイ)」と「嬉しい(ウレシイ)」の語感の違いを説明した箇所がある。「成程!」と思ったので紹介しておきたい。まずは二つの言葉の語感から。

(引用開始)

 今この瞬間の充実した気持ち。それを記憶に留めるのが、タノシイ。
 今までずっと抱いてきた気持ち。それを溢れさせるのが、ウレシイ。

(引用終了)
<同書 103ページ>

とある。では、どうしてそう言えるのか。発音体感に即した説明を以下引用する。まずはウレシイの方から、そのあとタノシイについて。

(引用開始)

 ウレシイは、口腔に、内向する力を創り出す母音ウで始まることば。ウを発音するとき、私たちは、舌にくぼみをつくるようにして奥へ引く。このため、ウには、受け止めるイメージ、あるいは内向するイメージがある。
 さらに、先頭音に使われるウには、発音の口腔形を作ってから、実際に音が発生するまでに時間がかかるという特徴がある。このため、先頭にウが来ることばには、「長く抱く、内向して熟成させる」イメージがある。すなわち、先頭のウには、“思いの時間”があるのである。
 だから、ウレシイもウラメシイも、「ずっと思っていたこと」に由来した気持ちの表明によく似合う。妻が夫をウチノヒトと呼ぶようになるまでにいくばくかの時間が必要なのも、ウの時間パワーのせいだ。
 二音目のレは、舌を広くして、ひらりと翻す。まるで宝塚のレビューのように、何かを華やかにお披露目するイメージだ。
 続くシは、光と風を感じさせる。舌の上を滑りでた息が、前歯の裏側で擦られて、放射線状に広がるから。最後のイは、舌に前向きの強い力を加えて、前向きの意志を感じさせる母音。語尾に使うと、「差し出す感じ」「押し出す感じ」を添える。
 こうして、ウレシイの発音体感は、「私の心にずっと抱いていたものを誇らしげに披露する」というイメージを創りだす。ウレシイと言われた側も、その発音体感を無意識のうちに想起して、その語感に照らされる。だから、「あなたとの時間が嬉しい」というのは、この上ない愛のことばなのである。
 さぁ、一方の、タノシイのほう。
 先頭音のタは、舌に息を孕(はら)んで、一気に弾き出す音だ。音の発生直前、舌が息を孕んで膨らむので、充実感がある。っぷり、んまり、らふく、らり……その充填されて膨らんだ印象は、発音時の舌が感じていることに他ならない。
 発音の瞬間には、舌の上の唾をすべてはがすようにして、息が弾き出される。このため、唾が派手に飛ぶ。これが、賑やかさやいきいきとした生命力を醸し出す。
 こうして、タ行の音は、発音直後の膨らむ舌が感じる充実感、充満感、確かさ、ぎりぎりまで耐える粘りと、発話直後の飛び散る唾によって生じる賑やかさや生命力という二重のイメージを持っているのである。
 したがって、タノシイは、先頭音のタが、充実した賑やかな時間を表現している。包み込むようなノスタルジーのノにいって、それを思い出に変え、続くシイで光の中に押し出す。
 このため、面白いことに、タノシイと言ったそばから、目の前の現実も思い出に変っていくのである。
 あるいは、人は、現在進行中の楽しい出来事を記憶に留めようとして、あえてこのことばを口にするのかもしれない。

(引用終了)
<同書 100−102ページ(傍点は太字)>

いかがだろう。発音時に口内で起る壮大な熱力学と流動力学(!)。

 さて、デートのとき、この「ウレシイ」と「タノシイ」はどのようなsituationで使われるかを見てみよう。

(引用開始)

「楽しかったわ」
 デートの終盤、オトナの女性がこれを口にしたら、ほぼ九割は「さぁ、帰りましょう」の合図である。「充実した時間だった。いい思い出になったよね」というご挨拶。もちろん相手を嫌っているわけじゃないけれど、離れがたさよりも、電車の時間や家族の心配が気になっている。
 ただし、気をつけて。あまりにも離れがたい思いが強すぎて、勢いのあるタノシイで、なんとか踏ん切りをつけようとする場合もある。
 トテモ、ノシカッ、マ、アッテネ。あまりにも離れがたくて、ここまで舌の破裂音を重ねないと、とても帰れない……そんな思いを幾度か重ねた後、やがて率直に「あなたに逢えて、嬉しい」と甘いため息をつく晩がやってくるのだろう。その果ての「あなたと過ごした時間は楽しかったわ、ありがとう」と別れゆくその日まで、男と女の時間は、ウレシイとタノシイの綾織りなのに違いない。

(引用終了)
<同書 103−104ページ(傍点は太字)>

 日本語の語感は、この発音体感と、石川九揚氏の「筆蝕体感」によって形成される、というのが(黒川さんと石川氏に導かれての)私の考え。起業家の皆さんは、社名や商品名を創るときなどに、この二つ(発音体感と筆蝕体感)を参考にすると良いと思う。

 尚、黒川さんの著書については、「日本語の力」「少数意見」「男性性と女性性」「現場のビジネス英語“sleep on it”」「流行について」などの項でも紹介してきた。併せてお読みいただきたい。

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