『百花深処』で<根村才一の憂鬱>を書き、当ブログで「住宅からの象徴の喪失」を書いたが、その両項で扱った<日本の戦後の父性不在>の問題が頭から離れない。複眼主義では、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」
という対比を掲げ、A側とB側のバランスを大切に考えるが、父性不在とは社会がB側に偏重してこのバランスが取れていない状態である。
西洋と出会う前の日本では、古来A側は漢文的発想で担われてきた。「レトリックについて II」の項でもみたが、明治以降の近代日本語は、「漢文脈からの離脱」と「言文一致」によって、(もともと日本語的発想はB側が強いのにさらに)A側の発想を弱めてしまった。
A側の発想が弱まったことは、産業構造の変化に伴う公的役割の移行、すなわち、家父長制度下での「家」から近代家族(核家族制)下での「個」への移行、をより困難なものにした。「個」が公的役割を担うには自立が求められるが、そのためにはどうしても「主格中心」の発想を強く持たなければならない。「近代西欧語のすすめ」の項で論じたのもこのことである。家父長制度の下で自立を求められたのは家長だけだったが、近代社会ではそれが核家族の世帯主に広がった。二一世紀に入り、産業構造変化によって「近代家族」は「新しい家族の枠組み」へと移り変わるが、ここにおいて公的役割を担うべき主体は、さらにすべての成年男女へと広がった。社会としてA側とB側のバランスをどう取るか。
『日本の大問題』養老孟司・藻谷浩介共著(中央公論新社)という本を読みながら考えていたのもこのことだった。本の副題は「現在をどう生きるか」。本の帯表紙には藻谷氏の写真の横に「日本人は大丈夫でしょうか」とあり、養老氏の写真の横に(藻谷氏の質問に答えるような形で)「案外あてになる」と書いてある。「案外あてになる」のは日本人のどの部分なのか。氏のロジックに沿って考えてみよう。本文からその対話部分を引用しよう。
(引用開始)
藻谷 マスコミの経済担当どころか、経済学者でも、アベノミクスの論点が何なのかすら見えていない。「専門家」がこれで、日本は大丈夫なのでしょうか。
養老 いや、本質的には大丈夫だと思っています。前も、大衆は信用できるかという話になりましたね。日本人は、心の奥ではわかっていて、妥当な判断ができる。案外あてになるな、というのが僕の感覚です。
(引用終了)
<同書 184ページ>
「あてになる」のは「日本の大衆」。「心の奥ではわかっていて」とあるから、それは、複眼主義でいうA側の「脳(大脳新皮質)の働き」というよりも、B側の「身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き」の部分だろう。日本(語)人はこちら側が強い。氏はそれをB側の「感覚」で把握する。そして別の個所で氏は次のようにいう。
(引用開始)
養老 日本の場合、結局、個は定着できないんです。夏目漱石が西洋文化とぶつかって一番悩んだこと、それは個の問題でしょう。悩みすぎたのか、胃潰瘍になって死んでいます。
(引用終了)
<同書 189ページ>
日本人には「個」が定着しないからA側の理性的思考はだめだけれど、B側の身体感性的思考は充分あてになるということなのだ。
ところで、ここを読んで私は夏目漱石(本名夏目金太郎)の『三四郎』(新潮文庫)の有名な個所を思い出した。上京する三四郎と、かの男(広田先生)との列車内の会話である。
(引用開始)
三四郎は(中略)「然しこれから日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
「亡(ほろ)びるね」と云った。
(引用終了)
<同書 23ページ>
藻谷氏は山口県出の赤門卒業、養老氏は赤門の先生だから、藻谷氏が三四郎で、養老氏が広田先生。日本の将来についての養老氏の答えは「日本人は案外あてになる」で、広田先生の答えは「亡(ほろ)びるね」だから真逆だけれど、複眼主義を補助線にして考えれば、日本が「亡びる」のはA側の発想が弱いからであり、「案外あてになる」のはB側の発想の方だとわかる。
しかし、社会はB側だけに依存するわけにはいかない。極端なB側依存は全体主義を招く(戦前の大日本帝国のように)。このブログでは日本語の強化によって「個」の自立を促すことを提唱しているが、養老氏は日本のA側問題(父性の不在)についてどう考えるのか。それがこの項のタイトルにした「賢人ネットワーク」である。
(引用開始)
藻谷 状況依存が強い人は、アイデンティティやインテグリティ(人格的統一性)が弱くなるのでは。
養老 だから、完全な状況依存なら、その人はいらない。その人自体が状況の一部になってしまうようでは。(中略)
藻谷 世の中が滅茶苦茶になってから果敢に抵抗するのでは、英雄的な話としてはおもしろいけれど、そもそも英雄が必要な状況になる前に止めるほうがずっと良い。そう思いながらささやかに行動しているのですが、無茶な金融緩和などを見ていると、どうも雲行きが怪しくなってきました。
養老 もともとフリーメイソンとかマフィアというのは、そのためにできたんじゃないでしょうか。つまり、社会の問題を早期に是正したいと考えた人たちが作ったんじゃないか。ネットワークを使って、水面下で問題の芽を摘み取っていくために。(中略)
藻谷 日本で言えば、京都の町衆がそのネットワークに近いかもしれません。
養老 結局、都市化するとそういうものができてくるような気がします。みんな公のネットワークが頼りにならないことはよくわかっていますから。日本はそれを「世間」という言い方をしてなんとかやってきたわけです。日本で、目に見えず、社会の安定に寄与してきたのが「世間」です。
藻谷 その「世間」を、都市化の中でズタズタに解体したのが戦後日本かもしれません。それぞれの会社の中に世間があって、辞めたらサヨナラ。そうであればこそ確かに、善意の裏ネットワークというのは、これからの日本で大事になるかもしれませんね。私も年間に登壇・面談・会食の類を千回以上重ねる生活なので、できる範囲でそこそこネットワークを形成してきているかもしれません。
養老 いざとなると、藻谷さんの知り合いたちが動き出すかもしれませんよ。僕自身、すこしそうなって来ているんです。
藻谷 養老マフィアができつつある(笑)。
(引用終了)
<同書 199−213ページ>
養老マフィアとでもいうべき「賢人ネットワーク」を機能させること、それが養老氏のA側対策であるらしい。
家父長制度に代わる新しい賢人ネットワーク。それは表立った組織とはならないけれど、非組織的な強靭な抵抗の仕方だという(同書215ページ)。何がどう動き始めるかまだわからないが、養老氏の今後の活動が興味深い。