夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


庭園・芸術都市

2016年06月28日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「宗教から芸術へ」の項で、平田オリザ氏の『下り坂をそろそろと下りる』(講談社新書)に触れ、氏の問題意識は『芸術立国論』の頃から変らないと書いた。今回はこのあたらしい本を紹介したい。まずは新聞の書評から。

(引用開始)

 戦後日本の価値観を転換すべき時。もはや耳慣れた主張だが、その論拠とオリジナリティに驚かされた。
 経済成長が終焉し“工業立国”でなくなった日本は今後「長い後退戦」を強いられる。教育、雇用、福祉といったシステムの改革も進まない。
 著者は「文化で社会を包み込む」方策を説き、地域の自立再生に希望を見いだす。兵庫県豊岡市では、文化施設「城崎国際アートセンター」誕生に関わった。世界のアーティストが訪れる町となり、小中学校では演劇を使ったコミュニケーション教育を実施している。サービス業が中心となる現代の産業構造に対応し、大学入試・就職が、表現力や協働性の総体である「文化資本」を問うものに変化していく流れにも通じる。
 宮城県女川町は震災後に伝統の獅子舞をいち早く復旧させ、住民が団結をとり戻した。各地域の祭りや文化活動は男女の「偶然の出会い」を創出し、少子化解決の妙手になる。移民の受け入れを含めたアジア圏との交流にも、異文化理解は欠かせない。
 <誰もみな芸術家たる感受をなせ>。著者が引いた宮沢賢治一節。私たちが意識を変えれば、“文化立国”は確かに可能なのだ。(和)

(引用終了)
<毎日新聞 5/1/2016(フリガナ省略)>

イニシャルに(和)とあるのは、毎日新聞の書評委員であり、『和の国富論』(新潮社)の著者藻谷浩介氏かもしれない。藻谷氏はこの本の帯に“避けてきた本質論を突きつけられた。経済や人口に先立つのは、やはり「文化」なのだ”というコメントを寄せておられる。作家藤沢周氏の書評も引用しよう。

(引用開始)

 平田オリザ『下り坂をそろそろと下りる』(講談社新書・八二一円)は、演劇を通して地域の自立再生やコミュニケーション教育、学びの広場造りなどを実践している記録であるとともに、「この国のあたらしいかたち」を提示するものである。
 競争と排除の理論から抜け出し、寛容と包摂の時代へ。そのためには、東京標準ではない、地方の独自性を大事にする世界標準の教育と文化が必要なのである。地方の学生や子供たち、住人たちが演劇などを通して、真の幸福とは何かをつかんでいく姿に快哉。野次やヘイトスピーチなどに、この国の未来はない。

(引用終了)
<東京新聞 5/1/2016「3冊の本棚」より(フリガナ省略)>

 この本で平田氏は、

一、もはや日本は、工業立国ではない
二、もはや日本は、成長社会ではない
三、もはやこの国は、アジア唯一の先進国ではない

という三つの時代認識を掲げ、

序章  下り坂をそろそろと下りる
第一章 小さな島の挑戦――瀬戸内・小豆島
第二章 コウノトリの郷――但馬・豊岡
第三章 学びの広場を創る――讃岐・善通寺
第四章 復興への道――東北・女川、双葉
第五章 寂しさと向き合う――東アジア・ソウル、北京
終章  寛容と包摂の社会へ

という章立てによって、自らの活動を一つひとつ紹介しながら、演劇など「芸術」による立国こそが、これからの日本に相応しいと論じてゆく。この主張は、(「宗教から芸術へ」の項でもみたが)これからの「新しい家族の枠組み」、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

ともフィットしている。是非本書を手にしてみていただきたい。芸術活動による街づくり。ワクワクするのは私だけではない筈だ。このような街には起業(個業)の種がいくらでも転がっていると思う。

 このブログでは、これからの日本の街づくりに必要なコンセプトは、「庭園都市」(庭と里山をもつ流域都市)であり、『百花深処』<二冊の本について>では、「邸宅美術館」(庭と美術品を持つ家)であると論じてきたが、これからはそれに演劇などの芸術を加え、「庭園・芸術都市」を提唱してゆきたい。

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宗教から芸術へ

2016年06月21日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 宗教学者島田裕巳氏の『宗教消滅』(SB新書)という本を興味深く読んだ。副題に「資本主義は宗教と心中する」とある。本の帯裏表紙から著者の現状認識を引用しよう。

(引用開始)

イスラム国、
無縁社会、
ゼロ葬―――
宗教崩壊は、他人事ではない!
●仏教――真言宗の本山である高野山で参拝者が4割減!
●カトリック――フランスでは空っぽの教会が次々とサーカスに売却
●プロテスタント――韓国で現世利益だけを訴える偽キリスト教が跋扈
●イスラム教――人口増による世俗化で原理主義との対立が激化
●創価学会――婦人部の会員が高齢化し集票能力に翳り
●幸福の科学――若い世代に受け継がれずに90年代の信者が高齢化
●アメリカ――広がるのは病気治しの奇跡宗教ばかり
●中国――バチカン非公認のカトリックを政府が弾圧

(引用終了)

島田氏はこういった各宗教の状況を丁寧に辿りながら、高度資本主義社会はやがてあらゆる宗教を消滅させるだろうと予測する。本のカバー裏表紙には、

(引用開始)

高度資本主義が、世界の宗教を滅ぼす!

日本社会において、新宗教が衰退しているからといって、多くの人は何の問題も感じないかもしれない。しかし、新宗教の教団が、皆、戦後に急速に拡大していったことを考えると、そこには日本社会が変容をとげようとする姿が見えてくる。しかも衰退しているのは新宗教だけではない。仏教だろうと神道だろうと、やはり衰退の兆しが見える。なぜ、そうした事態が生じているのか。これから考えようとするのは、極めて重要な問題である。

(引用終了)

とある。氏はこのような問題意識から、さまざまな国や地域の宗教をめぐる状況を調べるなかで、そこに予想以上の大きな変動が起っていることがわかってきたという。高度資本主義による伝統的な社会システムの崩壊、個人が共同体とは無縁な生活を送る状況などなど。詳しくは本書をお読みいただきたいが、「あとがき」から氏の言葉を引用したい。

(引用開始)

 なぜそうした変化が起っているのか。
 そこには、資本主義のおかれた今日的な状況が深くかかわっている。東西の冷戦が終焉を迎えたときには、資本主義が世界全体に広まり、それによって自由で豊な社会が各地に拡大されていくと信じられた。
 しかし、冷戦の崩壊がもたらした経済のグローバル化は、必ずしも豊かさだけをもたらしたわけではない。経済格差や貧困、そして、異なる宗教を信仰する人々のあいだでの対立や抗争をももたらした。
 経済は無限に発展し続けるものではない。ある程度の豊かさが実現されれば、高度な発展には終焉がもたらされる。資本主義は、市場を拡大することで発展していくものだが、市場の拡大にはどうしても限界があるからだ。
 経済と宗教とは深く連動している。とくにそのことは、現代の社会において明確になってきたのかもしれない。宗教は、日本人の多くが考えるように、たんにこころの問題ではなく、社会の動きと密接な関係を持っているのだ。
 経済学の分野では、昨今、資本主義の終焉ということが強く言われるようになってきた。資本主義が終焉を迎えるということは、それと深く連動してきた宗教にも根本的な変化がもたらされることを意味する。それはどうやら、宗教の消滅という方向にむかいつつあるのである。
 資本主義の先に何があるのか。それを考える上においても、宗教の動向を見ていくことは不可欠である。本書が人類社会のこれからを考えていく上で、少しでも役立てば幸いである。

(引用終了)
<同書242−243ページ>

 この先に何があるのか。このブログでは、21世紀はモノコト・シフトの時代だと書いている。モノコト・シフトとは、「 “モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。動きのない「モノ」は、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

におけるAと親和性が強く、動きのある「コト」はBと親和性が強い。複眼主義ではAとBのバランスを大切に考える。

 宗教に引き寄せてこの対比を考えてみると、一神教と多神教の違いはあるが、宗教における「教義」の部分は、もっぱらAの側で理論構築され、感性が支配する「信仰」部分は、おおむねBの側と親和性が強い。

 普通の宗教はAとBのバランスの上に築かれるもので、独善的な教義や行き過ぎた信仰行為は抑制されるが、島田氏のいう宗教崩壊とは、このバランスが崩れた状態を指すだろう。

 モノコト・シフトの時代は、Bの考え方の比重が高まるわけで、時として過激な熱狂=信仰が社会を揺り動かす。このことは「熱狂の時代」の項で書いた。熱狂は外に向かって先鋭化するとテロなどを起こす。一方それについていけない人々の一部は、熱狂心をゲームやアイドルなどに振り向ける。それが行き過ぎると殺傷事件などを引き起こす。

 この先の時代、AとBのバランスをどう取っていくか。参考になることが『芸術立国論』平田オリザ著(集英社新書)に書いてある。この本は2001年初版だからもう15年前に出たものだがその内容は今尚新鮮だ。本のカバー裏の紹介文を引用する。

(引用開始)

 日本再生のカギは芸術文化立国をめざすところにある!著者は人気劇作家・演出家として日本各地をまわり、また芸術文化行政について活発に発言する論客として知られる。精神の健康、経済再生、教育等の面から、日本人に今、いかに芸術が必要か、文化予算はどう使われるべきかを、体験とデータをもとに綿密に検証する。真に実効性のある芸術文化政策を提言する画期的なヴィジョンの書。これは芸術の観点から考えた構造改革だ!

(引用終了)

 演劇など「芸術」による立国。この考え方は日本だけでなくこれからの(宗教が消滅する)世界に通用すると思う。近代以前、さらに近代に入ってからもしばらく、社会はAとBのバランス統治を、健全な宗教に求めてきた。しかし伝統的共同体が崩壊する一方で科学が発展し、いろいろな事象の因果関係がより高解像度で見えてくると、宗教に代わる、より理知的なバランス統治の仕組みが必要になってくる。これまでの「近代家族」の枠組みは、

1. 家内領域と公共領域の分離
2. 家族構成員相互の強い情緒的関係
3. 子供中心主義
4. 男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5. 家族の団体性の強化
6. 社交の衰退
7. 非親族の排除
8. 核家族

であり、これからの「新しい家族の枠組み」は、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

である。これからの共同体の紐帯は、情緒的・宗教的なものから、より理性的なものになっていく筈だ。理知的といっても複眼主義でいうAの側だけでなく、Bの側にも充分訴えかけるもの。人々の熱狂をも吸収できる仕組み。それはAとB双方に親和性を持つ「芸術」以外にないのではないか。芸術による街づくり。それがこれから求められると思う。先日『百花深処』<二冊の本について>の項でみた、「邸宅美術館」とも通ずる考え方である。

 尚、平田氏には、最近の著作とし『下り坂をそろそろと下りる』(講談社現代新書)がある。その問題意識は『芸術立国論』から変らない。その間に書かれた『わかりあえないことから』(講談社現代新書)について、以前「会話と対話」の項で論じた。このことは前回「日本流ディベート」でも触れた。出版の順番は、

『芸術立国論』(2001年)
『わかりあえないことから』(2012年)
『下り坂をそろそろと下りる』(2016年)

である。「会話と対話」の項も併せてお読みいただければ嬉しい。

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posted by 茂木賛 at 15:03 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

日本流ディベート

2016年06月14日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 今回は『和の国富論』藻谷浩介著(新潮社)にある「日本流ディベート」という言葉を紹介したい。この言葉は、<第四章:「崩壊学級」でリーダーが育つ……菊池省三(元小学校教師)>の中に出てくる。少し長くなるがその対話部分を引用する。

(引用開始)

藻谷 もう一つ、菊池先生の授業で素晴らしいと思ったのは、ディベートです。
菊池 そう言ってもらえるのは嬉しいです。二十年近く前から始めたんですが、当時はまだ「一斉指導がすべて」「授業は知識を教えるもの」という古い授業感の時代でしたから、すっかりお偉方の先生から睨まれてしまって……周りの教師仲間も離れていき、あの頃はかなり苦しい思いをしました。
藻谷 きっと「小学生に“言い争い”をさせるなんて、とんでもない」とか、訳の分からん批判をする人がいたんでしょう。でも、ディベートは世界に出て行くビジネスパーソンになるためには必須のスキルです。もちろん、義務教育で世界に通じるビジネスパーソンを育てる必要はないいだけど……。
菊池 いや、ディベートはやり方がまずいとトラブルになりかねないので、事前にルールを丁寧に説明します。ディベートと言うと、アメリカ型のガチガチの討論をイメージしてしまうかもしれませんが、私の授業では、相手のプライドを叩き潰すような議論はルール違反。互いの価値観を尊重しながら堂々と意見をぶつけ合う“日本流ディベート”をやろうとしています。
藻谷 そこが素晴らしいと思ったポイントです。自動車でも料理でも、西洋のものが日本に入ってくると、マイルドで優しく、かつ汎用性が高い形にモディファイされて、それがまた西洋社会に還元されていく。特に日本に限らずアジアでのビジネスでは、相手のメンツを立てつつ、かつ言うべきことは言って、互いが折り合う地点を見つけていくという能力が極めて重要になりますから、今後、菊池先生の日本流ディベートの教育はどんどん世界に広がっていくべきではないでしょうか。
菊池 ただ、ディベートを授業に取り入れるためにいろいろ勉強したのですが、やはり個が自立している西洋社会に比べると、日本はまだ「群れ」社会だと思いました。「群れ」の外にいる人とのコミュニケーション力がとても弱い。(中略)だから、お互いを知り合い、「安心できる集団」と「自分への自信」を育むため、私の学級では「ほめ言葉シャワー」をやるんです。帰りのホームルームで、その日の日直がみなの前に立ち、クラスの子たちが思い思いに挙手して、その子のいいところを見つけて、とにかく褒めまくる。褒めるためには、その子に関心を抱いてよく観察しないといけませんし、その理由を表現する力も必要です。子供は誰でも「褒められたい」という思いがあるから、そこを刺戟されると、次はもっと褒められたいとやる気が出る、この好循環を生み出すためには、それなりの方法論が必要ですが、「ほめ言葉シャワー」をうまく回せるようになれば、集団に対する安心感と、自分に対する自信が培われます。するとクラスに落ち着きが生まれ、互いに相手を尊重する雰囲気が生まれます。

(引用終了)
<同書 125−127ページ>

 以前「会話と対話」の項で、『わかりあえないことから』平田オリザ著(講談社現代新書)の「会話」と「対話」の定義、

「会話」:価値観や生活習慣なども近い親しい者同士のおしゃべり。
「対話」:あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは親しい人同士でも、価値観が異なるときに起こるその摺りあわせなど。

を紹介し、「複眼主義」によって、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き(大脳新皮質主体の思考)―「公(Public)」
「対話」−社交性の重視

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き(脳幹・大脳旧皮質主体の思考)―「私(Private)」
「会話」−協調性の重視

と関連付けたことがあるが、「日本流ディベート」は、日本人が両方を上手くコントロールして成果を挙げる手法として素晴らしいと思う。

 「会話と対話」の項でも述べたが、ディベート(対話)は、「新しい家族の枠組み」8項目、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

とも整合するし、起業家にとってもその能力は欠かすことが出来ない。「ほめ言葉シャワー」という手法は子供だけでなく大人の間でも通用すると思う。皆さんの組織でも実践してみてはいかがだろう。

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posted by 茂木賛 at 18:42 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

営業生活権

2016年06月07日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 引き続き『和の国富論』藻谷浩介著(新潮社)に拠って、起業論を深めていこう。今回は「里山システムと国づくり III」で引用した氏の文章(や目次)にある「営業生活権」について。この言葉は、「個業」と同じ<第三章:「空き家」活用で日本中が甦る……清水義次(都市・建築再生プロデューサー)>の中に出てくる。その対話部分を引用しよう。藻谷氏の、今の日本にはまだ会社を辞めて食べていくためには特別な能力が必要なのではないかと信じ込んでいる人が多い、というコメントを受けて清水氏がいう。

(引用開始)

清水 実際は全然そんなことないのに(笑)。僕は人間が生まれながらに持っている権利に「営業生活権」というものがあると思っているんです。
藻谷 それはいわゆる生業権みたいなものですか?
清水 関東大震災からの復興の際に、東京商科大学(今の一橋大学)の福田徳三という経済学者が唱えた概念です。
 当時、帝都復興院総裁の後藤新平は、インフラ投資で機能分化した都市を築くのが復興だと考えた。郊外に住宅地を造って、道路や鉄道を引いて、都心にビルを建てて、大企業が人々に仕事を用意してやればよいと考えたわけです。
 これに対して福田は、「人間には自分で営業して生活を営む権利があるはずだ」と反対しました。僕はこの考えにとても共感しています。だから東日本大震災の時も、「営業生活権の復活こそが復興だ」と言って回りました。
藻谷 なんで日本では、営業生活権を捨てて、大企業の部品になるしかないと勘違いする人が多いのでしょうか?
清水 わかりませんが、おそらく明治以降の国策として、組織の中でよく働く人間を育成することに一生懸命になった結果じゃないでしょうか。国の教育方針に問題があると感じています。

(引用終了)
<同書 113−114ページ>

関東大震災は1923年(大正12年)の出来事だから、福田徳三が「営業生活権」を唱えたのは、今からおよそ百年も前のことだ。当時日本は近代社会づくりを目指していた。その家族の枠組みは、

1. 家内領域と公共領域の分離
2. 家族構成員相互の強い情緒的関係
3. 子供中心主義
4. 男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5. 家族の団体性の強化
6. 社交の衰退
7. 非親族の排除
8. 核家族

を目標にしていただろう。後藤新平の復興策は概ねこの路線に沿うと思われる。

 それに対して福田の「営業生活権」という概念は、本人がどういう家族を想定したのか分からないが、今の新しい家族の枠組み、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

に(特に項目1.に)フィットする。清水氏の言うとおり、今の時代に甦るべき考え方に違いない。

 さらに付け加えれば、これからの起業は、「営業生活権」「個業」「スモールビジネス」といったキーワードと共に、社会のベースとなる新しい家族の枠組み8項目全てを十分考慮に入れたものであるべきだろう。それは、以前論じた「ヴァージンの流儀」的経営とオーバーラップする筈だ。

 藻谷氏は「営業生活権」を「雇用とは一味違う豊かさと楽しさ」と表現しておられる。その「豊かさと楽しさ」感は、新しい家族の枠組み8項目全体に亘って(21世紀的生き方そのものに対して)いえると思う。

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posted by 茂木賛 at 13:32 | Permalink | Comment(0) | 起業論

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