夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


額縁のゆらぎ

2016年03月29日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 以前「21世紀の絵画表現」の項で、

(引用開始)

 去年の11月、国立新美術館で、ゴッホ、スーラーからモンドリアンまでの点描画を集めた「印象派を越えて 点描の画家たち」を観た。19世紀後半に生まれたこれらの点描画は、思考におけるアナログからデジタルへのシステム転換であり、それは、20世紀の現代人の孤立した実存を支える「新しいパラダイム」の到来を告げるものであったとされる。(中略)
 20世紀の西洋絵画は、フォービズム、キュビズムを経て抽象絵画、シュルレアリスム、表現主義へと変化してゆくわけだが、その過程は、点描画のデジタル・システムをさらに推し進めて、形態それ自体をも解体してゆく、還元主義的な精神運動として捉えることが出来るように思う。

(引用終了)

と書いたことがある。前々回「20世紀を前にした絵画変革」の項で、『名画に隠された「二重の謎」』(三浦篤著)という本を紹介し、その中にあるスーラ(スーラー)の試みについて、「絵画の枠取りに対する固執と多様な手法」と書いたが、今回、再びスーラに焦点を当て、その「新しいパラダイム」へ向けた改革を追ってみたい。

 スーラの絵画の特徴はその点描画手法にある。三浦氏は『名画に隠された「二重の謎」』のなかで、スーラが「グランド・ジャッド島の日曜日の午後」の絵の端の部分に、点描によって細い帯状の縁取りが施していることを指摘する。それは額縁の内側に書かれた点描による額縁なのである。スーラはまた、「シャユの踊り」では点描で描いた枠の形態を内側にカールさせる。「夕方、オンフルール」では額縁そのものに点描による彩色を施す。さらに「サーカス」では、内側に書かれた縁取りと額縁の彩色を併用する。まさに「絵画の枠取りに対する固執と多様な手法」なのだが、そのことについて三浦氏は、

(引用開始)

 以上のように、《グランド・ジャッド》(P147上)の「縁取り」をきっかけとして、スーラの絵の「枠」に関して調べてみると、思わぬ視野を得ることになった。スーラの作品においては、「額縁」は「絵」に従属する「装飾」で周囲との「境界」を画するという単純な捉(とら)え方は、もはや崩れてしまっている。「額縁」そのものが「彩色」されたり、「額縁」の内側に、点描の「縁取り」が加えられたり、額縁に似た枠が描き込まれたりしていた。こうした多様な枠取りを見ていくと、スーラは「絵」と「額縁」を別個のものとして捉えるのではなく、「額縁」を含めて絵画作品を構想していたという見方が可能になってくる。
 特に「彩色された額縁」の場合は、その方向が明確に出ている。しかし、「縁取り」や「内側に描かれた額縁」の場合も、それらは「絵」から「額縁」への唐突な以降を和らげるための単なる緩衝(かんしょう)地帯ではなく、あくまでも絵の一部として機能しているのではなかろうか。ただし、それらは絵の内側と外側の間に位置する中間領域であり、内にも外にも属さない曖昧(ああいまい)さを示している。
 西洋絵画は、現実の擬似(ぎじ)的なイメージを表すときは、絵画を囲む現実との間に明確な線引きを必要とし、その役目を額縁が担っていた。しかし絵画が現実から独立した造形物に変化すると、額縁本来の役割が希薄になり、さまざまな形で絵画に取り込まれる現象が出現したように思われる。つまりところ、「枠」や「額縁」の存在に豊なゆらぎを与え、それらを絵画に吸収しよう試みたのがスーラであったと言ってよかろう。

(引用終了)
<同書 162−163ページ>

と書く。「印象派を越えて 点描の画家たち」展を観たときは本書未読だったので、残念ながらこの重要な点に気付かなかった。

 先日「背景時空について」の項で、背景時空とは、人の脳が認識しようとする主役を単体として浮かび上がらせる為のものであるとし、絵画の額縁(フレーム)もその一つであると指適した。スーラは、この背景時空そのものに揺らぎを与えたのであった。正に「新しいパラダイム」へ向けた改革というべきであろう。

 このあと西洋近代絵画は、点描画のコンセプトをさらに推し進めて形態それ自体をも解体してゆくわけだが、スーラはまだそこまで行っていない。

(引用開始)

 スーラにとって芸術のキーワードは「調和」であったという。《グランド・ジャッド》を見ても、そこにはパリ郊外の島で余暇を楽しむさまざまな階級、職業の人々の調和があり、斬新な主題を古典的な構図でまとめあげた伝統と近代の調和もあり、さらには色彩理論、光学理論を絵画に適用するという意味で芸術と科学の調和もあると言えよう。そこにはまた、内側と外側の関係を捉え直すような、絵と枠との調和もまた見出すことができるのである。

(引用終了)
<同書 163ページ>

と三浦氏は述べる。

 これからの絵画は、この「調和」をどのように取り戻すのか。「21世紀の絵画表現」では、「フェルメールからモネの睡蓮を通って、主題を持たず動き(時間)そのものを描こうとする筋があり、その線上に、21世紀の絵画表現の一つがあるのかもしれない」と書いたけれど、また時をみてこの辺りのことを考えてみたい。

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小説『古い校舎に陽が昇る』について

2016年03月22日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 電子書籍サイト「茂木賛の世界」で、小説『古い校舎に陽が昇る』の集中連載を終えた。本作は「綾木孝二郎」シリーズの二作目で、一作目『蔦の館』を同サイトにアップしたのが2014年の9月だから、1年半ぶりのこととなる。140枚程度の拙いものだが時間があればお読みいただきたい。

 本作は、2014年の12月に書いた「後継者づくり」のスキームをそのまま使ってストーリーを展開させた。登場人物たちの名前もそのまま用いている。

 「後継者づくり」の項で、「なんだか小説みたいになってきた」と書いたのは、当時から、この地方自治と街づくりの話が小説に発展する予感があったからかもしれない。

 小説に発展したのは、2015年2月に「地方の時代 III」で紹介した『脱・談合知事』チームニッポン特命取材班著/田中康夫監修(扶桑社新書)と『日本を MNIMA JAPONIA』田中康夫著(講談社)を読んだからである。これらの本によって地方自治の様々な問題に眼を開かされた。田中氏に感謝したい。

 このテーマが「綾木孝二郎」シリーズと合体したのは、『百花深処』<二冊の本について>でも書いたように、同シリーズが「主人公の趣味や信条を通して、現代社会の一面を描くこと」を目的としている一種のビヘイビア小説だからだ。

 地方自治と街づくりは当ブログでもメイン・テーマの一つだが、小説の形でこれを展開できたのは良かった。そういえば他の『あなたの中にあなたはいない』などの作品も当ブログ記事と連動している。読者の皆さんも興味あるテーマがあったらお寄せいただきたい。感想もお待ちしている。

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20世紀を前にした絵画変革

2016年03月15日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 映画の話の次は絵画について書こう。『名画に隠された「二重の謎」』三浦篤著(小学館101ビジュアル新書)という本が面白かった。本カバー表紙裏の紹介文には、

(引用開始)

「見ることの専門家」である「わたし」が美術館でみつけた、名画に残された「事件」の痕跡。
その小さな痕跡を探ってゆくと、
大きな謎の存在が明らかになる……。
19世紀末、芸術の都パリを震撼させた「二重の謎」が、
いま白日の下にさらされる。
共謀したのはゴッホやマネ、ドガ、セザンヌなどの巨匠たち。
西洋近代絵画に起った一連の「変革」の意味について、
推理小説仕立てで描き出す、新しいスタイルの美術入門書。
美麗な図版と貴重な部分図、満載!

(引用終了)

とある。目次にある「事件」とは以下の通り。

第一章 謎は細部に宿る
1 マネのためらい――「残された二つの署名」
2 アングルの予言――「ヴィーナスの二本の右腕」
3 クールベの告白――「二人の少年の冒険」

第二章 映し出された謎
1 ドガの情念――「見捨てられた人形」
2 ボナールの幻視――「鏡の間の裸婦」
3 マティスの緊張――「闇に向かって開かれた窓」

第三章 名画の周辺に隠された謎
1 ゴッホの日本語――「右側と左側」
2 スーラの額縁――「内側と外側」
3 セザンヌの椅子――「右側と左側」再び

 著者はこれらの作品について次のように書く。

(引用開始)

 結局のところ、19世紀フランスとは、絵画が絵画を意識した時代であったと思う。優れた画家は皆、絵画を構成する形式的な要素に敏感に反応した。絵が何でできていて、どのように描かれ、何を目指すのかという問題に、各々の画家が各々の観点から取り組んだ成果が作品にほかならない。19世紀後半のフランスにおいて、絵画は、自らが作られたイメージであることを鋭く意識したのである。

(引用終了)
<同書 185ページ>

 写真の出現などによって、絵画とは何かということが意識された時代。この本は、当時の画家たちの次のような興味深い試みを明らかにする。

マネ:絵の平面性を確信した画家における空間と平面の葛藤。
アングル:形態を自由にデフォルメ、コラージュする先駆的な造形意識。
クールベ:伝統的絵画を揺るがす無垢や素朴さといった新しい美意識。
ドガ:画中画にこだわる画家の芸術家という存在への認識や問いかけ。
ボナール:鏡を偏愛する画家における虚構性と多層性の表現。
マティス:戦争という非人間的な状況への反応。
ゴッホ:絵と文字の合成による異文化への興味、画家としての感性。
スーラ:絵画の枠取りに対する固執と多様な手法。
セザンヌ:周辺的なモティーフによる造形と色彩表現。

引用を続けよう。

(引用開始)

 ある主題を三次元空間に展開する物語的、逸話的な場面として、写実的に描写する伝統的な絵画が、徐々に崩壊への道を歩んでいた。現実再現性が皆無(かいむ)になったわけではないが、そのレベルは確実に低下しつつあった。
 奥行きが浅くなり、表面が浮上した絵画においては、空間がゆがみ、人体が変形し、筆触の効果が露(あらわ)になった。書名も額縁も絵の一部と化し、絵の中の文字が自己主張を始めた。もはや絵画はイリュージョンではなく、絵の具を塗られた表面でしかなかった。絵画は虚構のイメージとして構成され描かれという認識が行きわたり、そのための手段に対する意識が浸透していった。その結果、イメージは単純ではなく複層的になる。絵の中に絵が挿入され、絵画の比喩(ひゆ)でもある鏡や窓のモティーフが意味を担い、存在感をもった。
 まさに、絵画とは何かという諸条件が意識された時代。絵は平面であり、構図や形態は自由にしてよく、アカデミックな価値観に縛られる必要などなくなった。デフォルメもコラージュも問題ないし、上手(うま)い下手(へた)という技術は異なる、子供のような新鮮な感受性が必要とされた。現実再現ではなく、自由な感性を媒介(ばいかい)にして色彩と形態で作られるものこそが絵画であることが、次第に明瞭になっていったのである。(中略)
 19世紀後半から20世紀初頭のパリにおいて、絵画が絵画であることに目覚めた。その結果、それまでの常識、基準、枠組みが覆(くつがえ)され、斬新な試みが実践される状況が生まれた。フランス近代絵画史とはそのような歩みであったと、私の眼には映るのである。

(引用終了)
<同書 185-187ページ>

20世紀を前にしたこれらの変革はなかなか奥が深い。

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日米の映画対比

2016年03月08日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 前回「ファッションについて II」の項で、最近DVDで観た映画を幾つか挙げたので、今回は映画続きで、最近WOWOWチャンネルで観た映画シリーズを二つ紹介したい。どちらも少し前の作品だから御覧になった人も多いだろうし、今さら紹介でもないだろうが、例の複眼主義の、

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A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」
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B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」
------------------------------------------

という対比によくマッチするので書いてみたい。

 一つは日本の『リトル・フォレスト』(森淳一監督)である。五十嵐大介の人気漫画を橋本愛主演で実写映像化したもので、東北の小さな集落に移り住んだ主人公が、自給自足に近い暮らしを通して自分を見つめ直すというもの。シリーズは、

「夏・秋」(2014年)
「冬・春」(2015年)

の二作(括弧内は発表年)。この作品にはBの側の考え方が横溢している。特に、「冬・春」の最後に主人公が踊る郷土の舞いが素晴らしい。以前「複眼主義美学」の項において、

-------------------------------------
日本古来の女性性の思考は、時間原理に基づく円的な求心運動であり、自然と一体化することで、「見立て」などの連想的具象化能力に優れる。例としては日本舞踊における扇の見立てなど。その美意識は、生命感に溢れた交感神経優位の反重力美学(華やかさ)を主とする。副交感神経優位の強い感情は、女々しさとしてあまり好まれない。
-------------------------------------

と書いたけれど、橋本愛の姿・表情は、まさに「生命感に溢れた交感神経優位の反重力美学(華やかさ)」そのもので、観る者をつよく惹き付ける。この交感神経優位の女性美については、『百花深処』<華やかなもの>の項も参照していただきたい。

 もう一つはトム・セレック主演のアメリカ映画シリーズ『警察署長ジェッシイ・ストーン』だ。ロバート・B・パーカーの推理小説を映像化したもので、ボストン郊外の田舎町パラダイスで発生する様々な事件に、警察署長ジェッシイ(トム・セレック)が挑むというもの。シリーズは、

「影に潜む」(2005年)
「闇夜を渉る」(2006年)
「湖水に消える」(2006年)
「訣別の海」(2007年)
「薄氷を漂う」(2009年)
「非情の影」(2010年)
「奪われた純真」(2011年)
「消された疑惑」(2012年)

とこれまで八作品ある(括弧内は同じく発表年)。監督は2011年の「奪われた純真」以外ロバート・ハモン監督、「奪われた純真」はディック・ローリー監督。こちらの作品はAの側の考え方を軸にストーリーが展開する。「複眼主義美学」の項において、

-------------------------------------
西洋の男性性の思考は、空間原理に基づく螺旋的な遠心運動であり、都市(人工的なモノとコト全般)に偏していて、高みに飛翔し続ける抽象的思考に優れている。例としては神学や哲学など。その美意識は、交感神経優位の反重力美学(高揚感)を主とする。副交感神経優位のノスタルジアは、ともすると軟弱さとして扱われる。
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と書いたが、主人公は離婚を機に酒におぼれ、ロス・アンジェルスの刑事を辞めて田舎町の警察署長になったくらいだから、決して勇ましいヒーローではない。推理小説系は、概ねAの側が強い。ジェッシイも、事件解決に至る最後では「交感神経優位の反重力美学(高揚感)」を演じる。しかしいつもの彼は、海辺の小さな家に住み、ウィスキーを飲みながらブラームスのピアノ協奏曲を聴く。となりのソファには大きな犬が寝そべっている。この感じが「副交感神経優位のノスタルジアは、ともすると軟弱さとして扱われる」そのもので、このアンチ・ヒーロー振り(と田舎町パラダイスの零落ぶり)が、西洋近代文明の黄昏を表現しているようで観る者の郷愁を誘う。トム・セレックの熟練した演技が、反重力とノスタルジアの間を揺れ動く今のアメリカ(の男性性)を上手く描き出している。尚、西洋近代文明の黄昏については「21世紀の文明様式」の項などを参照されたい。

 いかがだろう、以上、日米の映画を複眼主義の対比で読み解いてみた。これからもときどき面白いと思った映画を紹介してみたい。この年末年始には『スター・ウォーズ フォースの覚醒』(J・J・エイブラムス監督)や『007スペクター』(サム・メンデス監督)も見た。これらの長く続くシリーズについては、いづれ別の角度から書く機会があるかもしれない。

 この複眼主義対比のマッチングは、以前「21世紀の絵画表現」の項でみた、『かぐや姫の物語』(高畑勲監督)と『ゼロ・グラビティ』(A・キュアロン監督)という二つの映画にも当て嵌まる。Aが『ゼロ・グラビティ』(特にマット・コワルスキー役=ジョージ・クルーニー)、Bが『かぐや姫の物語』だ。併せてそちらもお読みいただければ嬉しい。

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posted by 茂木賛 at 11:23 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

ファッションについて II

2016年03月01日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 ファッションに関する話を続けよう。まず、ファッションと他のアート表現との違いについて。前回、ファッションは、模倣と差異化の「両価性」を持つという説を紹介したが、差異化は「脳の働き」であり、相手の視線を自分に集めさせ、自分のあり方に知覚者を服従させるという意味において、絵画や音楽など他のアート表現とあまり違わないと思われる。しかし、ファッションは身体と外界との物理境界における視覚的表現だから、他のアートよりも人に模倣されやすい。それが他のアートとの一番の違いだろう。「両価性」といわれる所以だ。

 そう考えると、アート表現としてファッションから一番遠いのは、小説や詩などの言語表現であろう。頭のなかで推敲された言語表現の模倣は難しい。難しさの度合いとしては、そのあと絵画や映画、音楽ときて、ファッションの次に模倣されやすいアート表現は何だろう、演技だろうか。演技はファッション同様、身体表現だから、その中身はともかく、外面は比較的模倣されやすい。昔、高倉健のヤクザ映画を見終わった客はみな彼を真似て歩いていた。

 その他を考えてみると、ダンスは演技に近いだろう。マンガは絵画、アニメは映画の一種。肌に直接描く化粧、刺青、さらに整形などもあるが、そのpopularityは模倣しやすい順に並ぶ筈だ。言語表現の中でも、キャッチコピーなどは、誰でも真似(口ずさむことが)できるからファッションに近いといえる。

 以前「文庫読書法(2014)」の項で、『キャラクター精神分析』斎藤環著(ちくま文庫)を紹介したが、この中にある、ヤンキーやオタクといった「キャラ」、すなわち、「人間という主格=固有性と同一性(一般性)の混沌から、同一性部分だけを拡大強調、主格もどきとして複製し、与えられた環境=場において、相手とのコミュニケーションするときに使う道具(tool)」も、演技の道具として模倣されやすい。「キャラ」は仮面と同じ役割を果たすわけだ。

 ファッション・ブランドを身に纏う人は、その「両価性」(模倣と差異化)を楽しむ。前回、創造することとは神の世界創造のごとく無根拠であるという説も紹介したが、新しいブランドは、どのような理由で成功したり失敗したりするのだろう。勿論資金的な問題やマネジメントの上手い下手はある。しかしそういったことのほかに、そのブランドの差異化の位相が、時代の流行よりも「少しだけ」先を行っていることに成功の秘訣があるように思う。

 説明してみよう。どうして「少しだけ」流行の先を行ったファッションが良いのか。遥か先を行ったファッションはなぜ駄目なのか。流行や時代精神は、「流行について」の項で書いたような感性変化の7年周期や28年周期、文明のあり方を巡る時代のパラダイム・シフト、素材や技術革命、景気の循環、気象の変化といった様々な要因の組み合わせによって移り変わる。暗黙知によって人はその兆しを察知するわけだが、その小さな差異を追確認するのに、一番手っ取り早いアート表現は何か。

 そう、模倣しやすいファッションが一番手っ取り早いのだ。言語表現や絵画、映画や音楽なども、やがて流行に追随してくるだろうけれど、それを待っていては時間がかかりすぎる。しかもそれらは模倣しにくい。人々は、変化の兆しを体現したファッションを纏うことで、その変化の兆しを互いに確認しあうのだ。次に化粧やキャッチコピー、そして先端的なダンスや演劇によって、さらに音楽や映画、絵画、そして最後に言語表現によって、新しい流行や時代精神が追認されていくのだと思う。

 時代の遠い先を行くファッションを創る人もいる。そういう音楽や絵画、言語表現もある。しかしそういう作品はなかなか売れない。多くの人にすぐには受入れられないからだ。それが流行や時代精神に敏感な目利きによって発掘され、時代の少しばかり先を行く形にプロデュースされると、一気に流行の最先端に躍り出ることがある。しかし模倣されやすい表現順に、大衆化、質の低下といった問題が生じる。だから、売れないものを作っている方が幸せかもしれない。時代の先を行く精神だけを気高く保持しながら。最近DVDで観た映画『はじまりのうた』(ジョン・カーニー監督)や『繕い裁つ人』(三島有紀子監督)、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督)などは、この辺りの事情を描きたかったのだと思う。時代の先を行く精神をどれだけ保持できるかが勝負の分かれ目なのだ。

 ファッションに関して次のような人々がいる。

(1)なるべく目立たないようにする。個性を出さない。
(2)目立つ恰好をする。
(3)伝統的であろうとする。
(4)無頓着である。

(1)は環境にブレンド・インすることを優先する人たち。日本人に多い。(2)は主格中心に考える人たち。ファッショナブルな人たちもこの括りに入る。日本社会ではときどき浮いてしまう。(3)はファッショナブルなのだけれど歴史性を重んじる人々。ただ新しいものが面倒くさいだけの人もこの括りに入る。(4)はあまりファッションに頭を使わない人々。家にいるときは誰でも普段着だからこの括りに入る。あなたはどういう人だろうか。勿論時と場合(TPO)による複数回答もありだ。

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posted by 茂木賛 at 10:36 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

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