以前「21世紀の絵画表現」の項で、
(引用開始)
去年の11月、国立新美術館で、ゴッホ、スーラーからモンドリアンまでの点描画を集めた「印象派を越えて 点描の画家たち」を観た。19世紀後半に生まれたこれらの点描画は、思考におけるアナログからデジタルへのシステム転換であり、それは、20世紀の現代人の孤立した実存を支える「新しいパラダイム」の到来を告げるものであったとされる。(中略)
20世紀の西洋絵画は、フォービズム、キュビズムを経て抽象絵画、シュルレアリスム、表現主義へと変化してゆくわけだが、その過程は、点描画のデジタル・システムをさらに推し進めて、形態それ自体をも解体してゆく、還元主義的な精神運動として捉えることが出来るように思う。
(引用終了)
と書いたことがある。前々回「20世紀を前にした絵画変革」の項で、『名画に隠された「二重の謎」』(三浦篤著)という本を紹介し、その中にあるスーラ(スーラー)の試みについて、「絵画の枠取りに対する固執と多様な手法」と書いたが、今回、再びスーラに焦点を当て、その「新しいパラダイム」へ向けた改革を追ってみたい。
スーラの絵画の特徴はその点描画手法にある。三浦氏は『名画に隠された「二重の謎」』のなかで、スーラが「グランド・ジャッド島の日曜日の午後」の絵の端の部分に、点描によって細い帯状の縁取りが施していることを指摘する。それは額縁の内側に書かれた点描による額縁なのである。スーラはまた、「シャユの踊り」では点描で描いた枠の形態を内側にカールさせる。「夕方、オンフルール」では額縁そのものに点描による彩色を施す。さらに「サーカス」では、内側に書かれた縁取りと額縁の彩色を併用する。まさに「絵画の枠取りに対する固執と多様な手法」なのだが、そのことについて三浦氏は、
(引用開始)
以上のように、《グランド・ジャッド》(P147上)の「縁取り」をきっかけとして、スーラの絵の「枠」に関して調べてみると、思わぬ視野を得ることになった。スーラの作品においては、「額縁」は「絵」に従属する「装飾」で周囲との「境界」を画するという単純な捉(とら)え方は、もはや崩れてしまっている。「額縁」そのものが「彩色」されたり、「額縁」の内側に、点描の「縁取り」が加えられたり、額縁に似た枠が描き込まれたりしていた。こうした多様な枠取りを見ていくと、スーラは「絵」と「額縁」を別個のものとして捉えるのではなく、「額縁」を含めて絵画作品を構想していたという見方が可能になってくる。
特に「彩色された額縁」の場合は、その方向が明確に出ている。しかし、「縁取り」や「内側に描かれた額縁」の場合も、それらは「絵」から「額縁」への唐突な以降を和らげるための単なる緩衝(かんしょう)地帯ではなく、あくまでも絵の一部として機能しているのではなかろうか。ただし、それらは絵の内側と外側の間に位置する中間領域であり、内にも外にも属さない曖昧(ああいまい)さを示している。
西洋絵画は、現実の擬似(ぎじ)的なイメージを表すときは、絵画を囲む現実との間に明確な線引きを必要とし、その役目を額縁が担っていた。しかし絵画が現実から独立した造形物に変化すると、額縁本来の役割が希薄になり、さまざまな形で絵画に取り込まれる現象が出現したように思われる。つまりところ、「枠」や「額縁」の存在に豊なゆらぎを与え、それらを絵画に吸収しよう試みたのがスーラであったと言ってよかろう。
(引用終了)
<同書 162−163ページ>
と書く。「印象派を越えて 点描の画家たち」展を観たときは本書未読だったので、残念ながらこの重要な点に気付かなかった。
先日「背景時空について」の項で、背景時空とは、人の脳が認識しようとする主役を単体として浮かび上がらせる為のものであるとし、絵画の額縁(フレーム)もその一つであると指適した。スーラは、この背景時空そのものに揺らぎを与えたのであった。正に「新しいパラダイム」へ向けた改革というべきであろう。
このあと西洋近代絵画は、点描画のコンセプトをさらに推し進めて形態それ自体をも解体してゆくわけだが、スーラはまだそこまで行っていない。
(引用開始)
スーラにとって芸術のキーワードは「調和」であったという。《グランド・ジャッド》を見ても、そこにはパリ郊外の島で余暇を楽しむさまざまな階級、職業の人々の調和があり、斬新な主題を古典的な構図でまとめあげた伝統と近代の調和もあり、さらには色彩理論、光学理論を絵画に適用するという意味で芸術と科学の調和もあると言えよう。そこにはまた、内側と外側の関係を捉え直すような、絵と枠との調和もまた見出すことができるのである。
(引用終了)
<同書 163ページ>
と三浦氏は述べる。
これからの絵画は、この「調和」をどのように取り戻すのか。「21世紀の絵画表現」では、「フェルメールからモネの睡蓮を通って、主題を持たず動き(時間)そのものを描こうとする筋があり、その線上に、21世紀の絵画表現の一つがあるのかもしれない」と書いたけれど、また時をみてこの辺りのことを考えてみたい。