前回、前々回と続けたモノコト・シフトの研究、今回は、古くからある思想哲学と、複眼主義的対比との関連を纏めておきたい。まずは西洋思想から。その前に複眼主義の対比を再掲しておく。
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」
A、a系:デジタル回路思考主体
世界をモノ(凍結した時空)の集積体としてみる(線形科学)
B、b系:アナログ回路思考主体
世界をコト(動きのある時空)の入れ子構造としてみる(非線形科学)
さて、西洋思想における複眼主義的対比は、ギリシャのプラトンとアリストテレスに遡る。『構造主義科学論の冒険』池田清彦著(講談社学術文庫)から引用しよう。
(引用開始)
プラトンはイデアがそれ自体としてある、と考えました。ですからプラトンにとってイデアは不変で不滅の同一性であり、時間を超越して存在するものです。もちろんイデアは私の観念として存在するのであって、外部世界に自存するわけではありません。イデア説が霊魂の不滅という考え方を導くのもむべなるかなと思われます。
これに対し、アリストテレスは現象や個物を第一義的な存在と考えたため、イデア自体が自存することを認めませんでした。アリストテレスにとっては、イデアというものがもしあったとしても、それは個物の中に入っているものでなければならなかったのです。
(引用終了)
<同書 138−139ページより>
プラトンのイデアこそ、脳(大脳新皮質)がつくり出した観念の代表例といえるだろう。一方、アリストテレスはあくまでも身体性に拘った。
A:プラトン
B:アリストテレス
という関連を指適することができる。
東洋思想における複眼主義的対比は、中国の孔子と老子に求められる。『日経おとなのOFF』という雑誌(2015年8月号)に掲載された僧侶・玄侑宗久氏のインタビュー記事から表の一部を引用する。
(引用開始)
● 孔子:「仁」「礼」で国を治める方法を説いた
儒教の祖。社会秩序を保つための「礼」、そのシステムを支える精神規範としての「仁」を軸に、私利を捨てて責務を果たせと説いた。
● 老子:孔子の人為を批判し「無為」を説いた
万物の本体は「道」だと説く道教の祖。自然と一体化する「無為自然」を旨とし、人間の努力・向上を肯定する孔子を批判した。
(引用終了)
<同書 56−57ページより>
孔子は「公」を重んずる都市の哲学であり、老子は「無為」を旨とする自然の哲学である。
A:孔子
B:老子
という関連を指適することができる。
モノコト・シフトの背景には、こういった、西洋と東洋、それぞれ古くからある思想哲学の対比、均衡(バランス)がある。