『権力の空間/空間の権力』山本理顕著(講談社選書メチエ)を読んだ。副題に「個人と国家の<あいだ>を設計せよ」とある。この本は、近代社会における家づくり・街づくりの問題についてのスリリングで示唆に富む論考だ。まず新聞の書評を引用しよう。
(引用開始)
政治というのは抽象的な思考に回収されない。そうではなく、複数の人間が共生するための実践行為である以上、必ず具体的な空間を伴うはずである。だが、政治思想史の研究者の多くは、思想家が残したテキストを丹念に読み込み、政治概念を抽出することには努めても、政治が住居や都市のような空間とどれほど深く関係してきたかを考えようとはしなかった。
建築家の山本理顕は、思想家のハンナ・アレントが著した『人間の条件』を、これまでの政治思想史研究とは全く異なる視角から読み解いた。それが本書である。著者の読みはきわめて斬新であり、建築家がアレントを精読するとこうなるのかという新鮮な発見に満ちている。
著者によれば、アレントほど空間のもつ権力性に敏感な思想家はいなかった。そのアレントが古代ギリシャで注目したのが、公的領域(ポリス)と私的領域(オイコス)の間にある「無人地帯」、つまり「閾(しきい)」だというのだ。この指適にはびっくりした。確かに『人間の条件』には、それに相当する文章がある。しかし、政治思想史の分野でここまで「閾」に注目した研究は見たことがない。
著者はアレントの思想に、私的空間と公的空間が厳密に区画され、官僚制的に統治された都市空間、すなわち「権力の空間」に生きることに慣らされている私たちの日常を根本的に改めるための突破口を見出している。『人間の条件』は、決して政治思想史の「古典」と定まっているわけではなく、未来へと開かれた「予言」としての意味をもつことになる。
もし本書の問いかけに、政治思想史の側から何の応答もなされないのであれば、あまりにも空しい。著者にならって言えば、それこそ学問のタコツボ化がもたらした「権力の空間」に安住していることに無自覚になっている表われと判断されるからだ。(評・原武史)
(引用終了)
<朝日新聞 6/21/2015)
ハンナ・アレントの著書『人間の条件』を武器に、「閾(しきい)」という空間概念、労働者住宅、「世界」という空間を餌食にする「社会」という空間、標準化=官僚制的管理空間、「選挙専制主義」に対する「地域ごとの権力」、といった刺激的なテーマが並ぶ。「流域社会圏」の項で論じた『地域社会圏モデル』山本理顕他著(INAX出版)から5年、山本氏がよりパワフルになって戻ってきた印象だ。
近代社会の「1住宅=1家族」という私的空間を「地域」に対して開くにはどうしたら良いのか。このブログでは以前「新しい家族の枠組み」の項で、「近代家族」に代わる新しい家族の枠組みについて、
1.家内領域と公共領域の近接
2.家族構成員相互の理性的関係
3.価値中心主義
4.資産と時間による分業
5.家族の自立性の強化
6.社交の復活
7.非親族への寛容
8.大家族
といった特徴を挙げ、「新しい住宅」「新しい住宅 II」「新しい住宅 III」などでその住宅のあり方を見てきたが、この問題に関して山本氏は、古代ギリシャからある住宅の「無人地帯」=「閾(しきい)」という概念の重要性を指適する。同書25ページにある著者作成の「閾の概念図」(図4)を再構成してみよう。
理解のために概念図の説明文も引用しておこう。
(引用開始)
「閾」はprivate realm(私的領域)に含まれる空間である。public realm(公的領域)に対して開かれた空間である。「閾」は私的領域の内側にあって、それでもなお公的領域に属する空間である。それをアレントは“no man’s land”と呼んだ。「閾」を含まないプライバシーのための空間は“private sphere”である。古代ギリシャでは奴隷と女の領域であった。「循環する生命過程」のための場所である。
(引用終了)
<同書 25ページ(図の説明文)>
玄関、土間、縁側、応接間、客間、茶室など、公的役割の浅深によってその場の設えは変わるだろうが、この「閾」は、以前「庭園都市」の項で図示した、<里山システム>における「街」と「家」とのつなぎ部分に当る。
外からみたつなぎ部分は「庭園」だから、住宅の「閾」は「庭園」へ、そして「庭園」は「里山」へと繋がっていくわけだ。今の多くの住宅には人と公的な話をする場所がない。21世紀の庭園都市が上手く機能するかどうかは、「里山」、そして各家の「庭園と閾」の造営巧抽にかかっているといえるのではないだろうか。