夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


自然の捉え方

2015年06月23日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 先日「共生の思想 II」の項で、日本人の自然を大切にする知恵・価値観に期待を寄せる本川氏(『生物多様性』著者)の言葉を引用したが、『唱歌「ふるさと」の生態学』高槻成紀著(ヤマケイ新書)は、この島国の生態学的な実状と、これからの課題を纏めた本だ。副題に「ウサギはなぜいなくなったのか?」とある。本帯の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 今こそ見直したい「ウサギ追いしかの山」の世界。里山の変容を、唱歌「ふるさと」の歌詞から読み解く。(帯表紙)
 世代を超えて歌われる唱歌「ふるさと」。ここで歌われたウサギやフナは、なぜいなくなってしまったのか?聞き慣れた歌詞から、昔日の里山を生態学の視点で読み解き、現代との比較を通じて失われた日本の自然と文化を見直す。(帯裏表紙)

(引用終了)

 本の構成は、

一章 「故郷」を読み解く
二章 ウサギ追いし――里山の変化
三章 小ブナ釣りし――水の変化
四章 山は青き――森林の変化
五章 いかにいます父母――社会の変化
六章 東日本大震災と故郷
七章 「故郷」という歌
八章 「故郷」から考える現代日本社会

となっている。著者は動物生態学・保全生態学者。生態学(環境の変化が動物や植物にどのような影響を与えたかを研究する学問)のうちでも、二十世紀後半の自然破壊のすさまじさに対する危機感から生まれたのが保全生態学だ。池内紀氏の新聞書評を一部引用したい。

(引用開始)

 なぜウサギがいなくなったのか。すぐに環境汚染や狩猟を原因と考えがちだが、そうではなく、山に茅場がなくなったのが大きいという。茅、つまりススキやヨシのしげる平原。屋根を葺く茅、家畜の飼料、荷造りのクッション。いろいろ用途があり、茅場を取り込むかたちで里山が成り立っていた。用途を失って放置されると、とたんに木が侵入してススキは消えていく。ウサギには安住の場がなくなった。
 おおかたの日本人が「心のふるさと」というとき、思い浮かべる風景画ある。茅葺の農家、よく耕された田や畑、まわりの屋敷林、背後の山。農地は作物、屋敷林は材木、山は炭火焼き。調和のとれた美しい景観は、暮らしのシステムが安定していたなかで維持されてきた。茅場の消滅一つからも、さまざまなものが見えてくる。近年の山里ではイノシシの被害がしきりに言われる。私はイノシシのような大型の動物がなぜ里に出没するのか、いぶかしく思っていたが、生態学的にはウサギに代わり、イノシシに「もってこいの条件」がととのっているのである。

(引用終了)
<毎日新聞 4/26/2015(フリガナ省略)>

 里山についてはこれまで、「里山ビジネス」や「内と外 II」、「里山システムと国づくり」などの項でその大切さを書いてきた。この本はいわば生態学からみた里山保全論といえるだろう。里山経済を復活させる為にはこの面からの考察も欠かせない。これからも仕組みをいろいろと勉強したいと思う。

 さて高槻氏は、自然の捉え方に関する日本人とヨーロッパ人との違いについて、次のように書いておられる。

(引用開始)

「故郷」の時代と現代との比較をする上で、自然のとらえ方の違いを考えている。そのためには、日本人の自然観とヨーロッパ人の自然観を比較することが役立つように思われる。
 都市住民が主体となった現代日本では自然はすばらしいものであるというとらえ方が主流である。そしてそのすばらしい自然は保護すべきだと考える。ただしそれは実際に自然に接してすばらしいと感じ、自然は守るべきだと実感してのことであるというよりは、テレビ等を通じての追体験であることが多い。それは基本的にヨーロッパの自然観の翻訳である。ヨーロッパにおいては人間だけが神に近い存在であり、だから人間は世界を支配して責任をもって管理すべきだというキリスト教的な世界観がある。(中略)
 自然がひ弱であり、丁寧に管理しなければ、原生的な自然が失われたり、生産性がそこなわれたりするヨーロッパでは、人が優位にいるのだから自然を支配するのがよい結果をもたらすという経験があったであろう。しかし日本のように生物多様性が驚くほど高い土地では、自然は守るというようなものではまったくなく、夏の暑さも冬の寒さも人を攻めるという感じがある。その上、地震もあれば、洪水もある。守ってほしいのはむしろ人のほうであった。そういう自然とおりあいをつけるためには、自然を支配して管理下に置くという姿勢はまったくふさわしくない。攻めるものはかわし、逃げることでことなきを得るほうが、よほど合理的であった。恐ろしい目に遭わせないでください、農作物が大水で台無しにならないようにしてください――そのように祈りながらも、リアリストである農民や漁民は、祈りだけでものごとが解決すると考えるほど愚かでも楽天的でもなかった。自然をよく観察し、どのような土地に洪水が起きるか、どのような雲の動きのあとに嵐が来るかといったことをよく知識として蓄え、どのようにすべきかを知恵として引き継いできた。自然と向かい合って対立するのではなく、むしろ自分を自然の中に位置づけ、小さな存在のひとつと感じて来た。

(引用終了)
<同書 189−202ページ>

ヨーロッパ人が自然を資源として管理しようとしてきたのに対し、日本人は自然環境に寄り添い、里山を作り、生活しやすいようにそれを手なずけてきた。これは複眼主義の、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心

という対比と整合する。生態学の知識と同時に、環境の捉え方に関するこの彼我(ひが)の違いについてもよく知っておきたい。複眼主義ではAとBとのバランスを大切に考える。

 最近の日本人が伝統的な里山精神を忘れかけていることに対して、高槻氏は、

(引用開始)

 そのこと(伝統的な里山精神)がここに来て、危うくなり、そうなったときの変容の速度があまりに速く、崩壊という言葉がふさわしいかのごときである。その原因は多様であり、またつきとめるのも容易ではない。だが、私が本書で考えたことではっきり言えることがある。それは、里山を構築した伝統の底に流れる、自然と対峙するのではなく、自然に寄り添い、生き物を畏敬せよという先人の精神を正しく継承すべきであるということである。日本人の自然観は、少なくとも二〇〇〇年の歴史の中で洗練され、不適切なものは淘汰されてきたものである。それは、物やエネルギーを粗末にするなと正しく教えて来た。それを旧弊として捨て去ってきたこれまでの愚かさを見直す、それが我々に課せられた最低限のつとめであるように思われる。
 私は「故郷」の歌われた動植物や山川について考え、その意味を読み取ろうとした。そしてその底流に見いだしたのは、すばらしい自然の中で暮らしてきた我々の祖先の生きる知の深さに気付くべきだということであった。

(引用終了)
<同書 205−206ページ(括弧内は引用者の註)>

と最後に書いておられる。日本語的発想は「環境中心」なのだが、最近の日本人は、自然ではなく「都市環境中心」の発想になってしまっているのである。

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posted by 茂木賛 at 15:14 | Permalink | Comment(0) | 街づくり

イブとアダム

2015年06月16日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 「吉野民俗学と三木生命学」の項で述べた「複眼主義美学」の縦軸(反重力美学と郷愁的美学)と横軸(男性性と女性性)のうち、縦軸については先日「交感神経と副交感神経 II」の項で整理した。横軸については、

男性性と女性性
男性性と女性性 II
体壁系と内臓系

などの各項を参照していただきたい。体壁系と内臓系といえば最近、三胚葉(内胚葉・外胚葉・中胚葉)の分化や器官発生の順序などについて、よく纏まった文章を見つけた。「共生の思想」の項で紹介した『腸内細菌と共に生きる』藤田紘一郎著(技術評論社)の、<すべては「腸」から始まった?>というコラムである。整理のために引用しておきたい。

(引用開始)

 この章でも述べてきたように、動物はもともと口から肛門に伸びる一本の消化管、つまり腸だけで生きてきました。
 クラゲやイソギンチャクなどの腔腸動物は脳がありませんから、腸が脳の役割を役割を果たしていたと考えられます。のちに脳へと進化する神経細胞(ニューロン)も、この腔腸動物の腸内で生まれたこのだったのです。
 また、心臓や肝臓、肺などの内臓器官も腸が作られた後に作られます。発生学で言うと、精子と卵子が受精し、受精卵が形成されると、徐々に分割していき、原腸胚の段階で内側に陥入することで、消化管のもとになる原腸を形成するようになります。
 この原腸胚は、陥入とともに内胚葉、外胚葉、中胚葉に分かれていき、それぞれが体の各器官の源になります。つまり、まず消化管となる原腸が形成されることで、ヒトを含めた動物の体が分化していくことになるのです。
 もう少し具体的に解説すると、実際に腸へと分化していくのは、3つの胚葉のうち内胚葉になります(次ページ図3−9参照)。
 内胚葉は前腸、中腸、後腸に分化し、それぞれが咽頭、食道、胃、小腸、大腸といった形に分かれていくほか、前腸からは肺、肝臓、膵臓が、後腸からは泌尿器系の一部、膀胱、尿道などが生まれます。
 心臓などの循環器は、中胚葉に由来していますが、原腸が消化管の起源に当りますから、発生としては腸の後になります。また、のちに脳になる神経系については、外胚葉から形成されていきます。
 こうした器官の発生は、「個体発生は系統発生を繰り返す」という言葉の通り、ヒトの個体発生でも同様にプロセスを見出すことができます。ここでもやはり、最初に腸が作られ、脳や心臓は後から作られるのです。
 私たちは、食べなければ生きていけませんから、まず消化管=腸が先に作られ、そのうえでさらに必要な器官が分化していくということなのかもしれません。

(引用終了)
<同書 141−142ページ(図は省略)>

 三木生命形態学において、「体壁系」とは“感覚―運動”を司る器官を指し、「内臓系」とは“栄養―生殖”を司る器官を指す。上の引用と合わせると、三胚葉(内胚葉・外胚葉・中胚葉)のうち、内胚葉と中胚葉は「内臓系」、外胚葉が「体壁系」を構成するといえるだろう。

 生物学者福岡伸一氏の『できそこないの男たち』(光文社新書)に、生命の基本仕様は「女性」だという指適がある。その部分を引用しよう。

(引用開始)

 このように見てみると、最初に紹介したフェミニズム仮説、すなわち、女性は、尿の排泄のための管と生殖のための管が明確に分かれているが、男性は、それがいっしょくたなので、女性の方が分化の程度が進んでいる、つまりより高等である、との説は間違っていないことがわかる。
 あるいはこう言い換えることができる。男性は、生命の基本仕様である女性を作りかえて出来上がったものである。だから、ところどころに急場しのぎの、不細工な仕上がり具合になっているところがあると。
 実際、女性の身体にはすべてのものが備わっており、弾性の身体はそれを取捨選択しかつ改変したものにすぎない。基本仕様として備わっていたミュラー管とウォルフ管。男性はミュラー管を敢えて殺し、ウォルフ管を促成して生殖器官とした。それに付随して様々な小細工を行なった。かくして尿の通り道が、精液の通り道を使用することになった。ついでに精子を子宮に送り込むための発射台が、放尿のための棹にも使われるようになった。
 女性は何も無理なことはしない。ミュラー管がそのまま生殖器官となる。女性は何かを殺すこともしない。女性の身体は今でもウォルフ管の痕跡が残っている。
 アダムがイブを作ったのではない。イブがアダムを作り出したのである。

(引用開始)
<同書 165−166ページ>

以上を総合すると、食の相においては「内臓系」が、性の相においては「女性性」がヒトの基本仕様であって、「体壁系」と「男性性」はいづれもあとから作られていったということがわかる。この知見こそ男女共生の秘訣であろう。

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posted by 茂木賛 at 09:21 | Permalink | Comment(0) | 非線形科学

共生の思想 II

2015年06月09日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 共生には「一つの生存圏に多種多様な生物が棲んでいる状態」と「一つの生き物に他の様々な生き物が一緒に住んでいる状態」の二つの概念がある。前回「共生の思想」では後者を取り上げたので、今回は前者について書いてみたい。

 そのための最適な本が最近(2015年2月)出版された。『生物多様性』本川達雄著(中公新書)がそれで、あの『ゾウの時間 ネズミの時間』(中公新書)の著者の書き下ろしだ。本のカバー裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 地球上には、わかっているだけで一九〇万種、実際には数千万種もの生物がいる。その大半は人間と直接の関わりを持たない。しかし私たちは多様なこの生物を守らなければならない。それはなぜなのか――。熾烈な「軍拡競争」が繰り広げられる熱帯雨林や、栄養のない海に繁栄するサンゴ礁。地球まるごとの生態系システムを平易に解説しながら、リンネ、ダーウィン、メンデルの足跡も辿り直す、異色の生命讃歌。

(引用終了)

 本の構成は、

序章  生物多様性を理解するのは難しい
第一章 生物多様性条約と生態系サービス
第二章 バイオームと熱帯雨林
第三章 サンゴ礁と生物多様性の危機
第四章 進化による多様性の歴史
第五章 ダーウィンの進化論・アリストテレスの種
第六章 生物はずっと続くようにできている
第七章 メンデルの遺伝の法則
終章  生物多様性減少にどう向き合えばよいのか

となっている。第二章と第三章が生物多様性の具体例で、熱帯雨林の樹木の複雑な三次元的階層構造、植物と菌との栄養共生、サンゴと褐虫藻の相利共生など、自然の精緻な生態学的しくみが興味深く描かれている。

 体内の共生もそうだが、一つの生存圏における生物の共生も、多様であった方がそれぞれ生き延びるチャンスが大きい。今の自然破壊はその多様性を奪っていくから、どこかで歯止めを掛けないと全てが失われてしまう。地球上の生物全体を絶滅に追いやってしまうことになる。

 このブログでは、21世紀はモノコト・シフトの時代だと述べている。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。「共生の思想」とは、まさに共生という「コト」を大切にする考え方に他ならない。

 本川氏は、特に日本人の自然を大切にする知恵・価値観に期待を寄せる。終章から引用したい。

(引用開始)

 島というのはその中でやりくりをして生き延びていかなければならない場所であり、そこでなんとか持続可能な生活を営みながら、ちまちまとしていても、それなりに幸せに暮らしていく知恵を日本人は蓄えてきました。幕末に日本に来た外国人はみな、日本人は満足して幸福だという印象を受けたと、渡辺京二は『逝きし世の面影』で多くの引用をしながら述べています。たとえば「日本人はいろいろな欠点を持っているとはいえ、幸福で気さくな、不満のない国民であるように思われる」(オールコック『大君の都』)。もちろん江戸時代に戻ろうとは申しませんが、地球も今や資源の限られた島とみなさなければならない状況になってきたのですから、ここでこそ日本人が育んできた知恵・価値観の出番。世界はいざ知らず、日本は率先して右肩上がり信仰から脱却すべきだと思うのですが。

(引用終了)
<同書 283−284ページ>

 生物同士の相互作用は複雑だ。まずはこれらの本を読んで生物多様性の実体をよく理解しよう。ところで共生といえば、社会集団における人間同士の共生もある。これについては以前「自立と共生」という項でいろいろと考えた。併せてお読みいただければ嬉しい。

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posted by 茂木賛 at 09:43 | Permalink | Comment(0) | 非線形科学

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