夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


吉野民俗学

2015年04月28日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 去年の暮れから今年の春にかけて、河出書房新社から民俗学者吉野裕子の本が入手しやすい形で二冊出版された。

『隠された神々』吉野裕子著(河出文庫・2014年11月)
『日本人の死生観』吉野裕子著(河出文庫・2015年3月)

がそれだ。まず、内容について文庫カバー裏表紙の紹介文を転載しよう。

(引用開始)

『隠された神々』
日本の信仰は、古代より太陽の運行にもとづき、神の去来を東西軸上に想定していた。だが白鳳期になり、星の信仰である中国の陰陽五行が渡来すると、神への信仰は、南北軸にとって変られる。“隠された神々”の秘密を探りながら、日本宗教の大きな変化に迫る、吉野民俗学の代表作。 解説=安田喜憲

『日本人の死生観』
古代日本人は、木や山を蛇に見立てて神とした。そして、人の生誕は蛇から人への変身であり、死は人から蛇への変身であった……神道の底流をなす蛇信仰の核心へと迫り、日本の神イメージを一新。“吉野民俗学”への最良の入門書となる名著! 解説=井上聰

(引用終了)

 吉野民俗学は、様々な事例をもとに、日本の古代信仰が「母なる自然(母胎)」を中心とした同心円的世界観を持っていたことを指適する。しかし、その研究は長い間日本の学会においてまともに取り扱われなかったらしい。その辺の事情について『隠された神々』の解説(国際日本文化研究センター名誉教授安田喜憲氏)から引用したい。

(引用開始)

女民俗学の確立

 だが多くの民俗祭祀は豊穣の祭りごとである。豊穣の儀礼は性の営みであり、そこでは生命を誕生させる女性がもっとも大きな役割を果たしたはずである。しかも、ながらく稲作漁撈文明の母権性の伝統のもとにあった日本においては、民俗の祭祀は女性原理と密接不可分にかかわっていた。そこには、女性の感覚でしか理解できないものが、山のように隠されているのである。
 にもかかわらず、明治以降の欧米のキリスト教の父権主義のもとに育った近代民俗学を導入することにやっきになった日本の学会では、そうした女性の視点をまったく軽視した。民俗学の中から女性の性や妖艶さを取り除くことが科学的であるとさえ考えていた。柳田国男や折口信夫の民俗学は男の民俗学であり、女の世界を欠如していた。
 しかし、日本文明の根幹には女性原理が深くかかわっているのである。日本文明の原点である縄文時代の土偶は、九九パーセントが妊婦である。縄文の社会は、生命を誕生させる女性中心の社会であった。つづく稲作漁撈社会も、女性中心の社会である。雲南省や貴州省に暮らす少数民族のハニ族、ミャオ族、イ族、トン族など稲作漁撈に生業の中心を置く人々は、今でも女性中心の母権制社会の伝統を強く残している(安田喜憲『稲作漁撈文明』雄山閣二〇〇九年)。日本でも平安時代までは妻問婚が一般的であり、母権性文明の伝統が強く残っていた。
 こうした母権制社会の伝統に立脚した縄文と稲作漁撈の文明を強く継承する日本の民族事例を研究するには、女性からの視点、なかんずく女性の性からの視点が必要不可欠なのである。(中略)
 日本の民俗学が女性の視点を取り入れ、柳田や折口の男民俗学から女民俗学が確立された時に、はじめて、日本民族学の真我、日本文明のエートスが理解されることになるのであろう。

(引用終了)
<同書 233−235ページより>

 吉野民俗学の指適は、複眼主義でいう日本人の「自然に偏した意識構造」と整合する。それともう一つ、『隠された神々』において興味深いのは、文庫カバー裏表紙の紹介文にもある東西軸と南北軸の議論だ。新聞の本書紹介文も引用しよう。

(引用開始)

 中国から渡来した陰陽五行説と星辰信仰が古代日本に与えた影響を論じ、独自の境地を切り拓いた民俗研究家の代表作。近江遷都や高松塚古墳に方位や占星術によるアニミズム的な呪術がこめられていること、天照大神(太陽神)の裏には太一(北極星の神)が隠されていることなどを鮮やかに示し、今なお異彩を放つ。

(引用終了)
<東京新聞12/21/2014(フリガナ省略)>

 安田喜憲氏は、この東西軸と南北軸について、日本では前者から後者に完全に置き換わった訳ではないことを強調する。そこには日本独特の「習合」という作用があったという。安田氏の『隠された神々』解説文から再度引用したい。

(引用開始)

 本書で吉野先生はまず「古代日本の文明原理には、太陽の運行から類推された東西軸を神聖視する思考があった」ことを指摘される。(中略)ところがこの古代日本の東西軸に、七世紀に百済を経由して中国大陸から伝来した陰陽五行の南北軸が追加される。(中略)
 こうした東西軸から南北軸への世界観の転換は畑作牧畜民(安田喜憲 前掲書)の中国の黄河文明のみでなく、エジプト文明においてもはっきりと認められる。これら畑作牧畜民の地域では、太陽信仰が星の信仰に完全に置き換わる。ところが稲作漁撈民の古代日本においては、陰陽五行の南北軸の星への信仰は、絶対的な太陽信仰の東西軸にとって代るほどの力はなかった。太陽信仰が星の信仰に完全に置き換わることはなかったのである。古代日本においては、新たに伝来した陰陽五行の星の信仰は、在来の太陽信仰に習合されたのである。
 ここにこそ日本文化の特色が語られている。日本文化の特色は新たにやって来たものが、これまであったもの全てを飲み尽くすというのではなく、在来のものが新たにやって来たものを受け入れ習合する。「これこそが日本を日本たらしめている力なのである」と本著は語っているように私は思う。

(引用終了)
<同書 235−237ページより>

 日本の古代信仰は、その「習合」の力によって、その後も外来の様々な思想や宗教、仏教、儒教やキリスト教などをその懐に取り込んでいく。文字も漢字を取り込んでひらがなやカタカナが作られた。『隠された神々』で著者は、この習合力の背景となったであろう、日本人の「見立て」や「擬(もど)き」といった連想的具象化能力を挙げる。

(引用開始)

 古代日本人は他の民族に劣らず、想像力が豊な民俗であったがこの古代日本人がつくり出した文化の型の特徴を一つあげるとすれば、私は「見立て」をあげたい。
 ここにいう「見立て」とは何か。日本舞踊を例に取るならば、一本の舞扇はあるいは傘に、あるいは酒器に、筆に、短冊に、手鏡にと見立てられ、その扱い方によっては扇はさらに雨、落花、流水をあらわし、また抽象的な事象をさえ表現する。これがいわゆる「見立て」であるが、日本舞踊におけるこの扇のように、一物で多様の役割を果たしているものは、おそらく世界じゅうどこにもない。(中略)
 古代日本人は抽象的な思惟を苦手とし、物ごとを理解しようとする時、それを何かに擬(なぞ)らえ、それからの連想によって捉(とら)えようとした人々だったと思う。つまり、「擬(もど)き好き」「連想好き」であって、それが日本人の原初的心情なのである。
「見立て」の背後に潜むものは、この心情であって、この傾向が神話・進行・世界像を創造し、神事、祭りの形態を定め、神事から諸種の芸能へと発展させてきたのである。

(引用終了)
<同書 12−13ページ>

習合力こそ「日本を日本たらしめている力」だとする吉野民俗学の指適は面白い。これをヒントにして日本の歴史をさらに探ってみたい。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 11:03 | Permalink | Comment(0) | 非線形科学

“モノ”余りの時代

2015年04月20日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 このブログでは、21世紀はモノコト・シフトの時代だと述べている。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。

 『余剰の時代』副島隆彦著(ベスト新書)は、この時代、余るのはモノばかりではなくヒトも余るということを正面から取り上げた本だ。本カバー裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

この厳しい時代を生き延びるための本当の知恵

 21世紀の現代を生きる私たちは今、途方もなく厳しい時代を生きている。「余剰・過剰」問題という怪物が世界を徘徊している。モノを作っても売れない。どんなに値段を下げても売れない。だから、人間が余ってしまう。従業員を「喰(く)わせてやる」ことができない。社会は失業者予備軍で溢(あふ)れている。とりわけ若者が就職できない。
 実は百年前のヨーロッパで始まった、この解決不能の問題を、人類の中の最も精鋭な人たちがすでに真剣に悩みぬいていた。
 ヴォルテール、ニーチェ、ケインズに導かれ、政治思想家であり、かつ金融・経済予測本のトップランナーである著者が、この難問に挑む。

(引用終了)

 このブログではまた、経済というものを、自然の諸々の循環を含め人間を養う社会の根本理念・摂理(人間集団の存在システムそのもの)とし、その全体を三つの層で捉えている。

「コト経済」

a: 生命の営みそのもの
b: それ以外、人と外部との相互作用全般

「モノ経済」

a: 生活必需品
b: それ以外、商品の交通全般

「マネー経済」

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤
b: 利潤を生み出す会計システム

という三層で、モノコト・シフトの時代においては、経済の各層において、a領域(生命の営み、生活必需品、モノの循環)への求心力が高まると共に、特に「コト経済」(a、b両領域含めて)に対する親近感が強くなってくるだろうと予測している。

 この時代、「モノ経済」bは基本的に余ってくる。ヒトも頭数(あたまかず)として捉えれば「モノ経済」bに含まれるから余るわけだ。社会生活全体に「マネー経済」bが強く絡んでいる先進国においては、生産効率が重視されるからヒトが余る。生産効率の悪い後進国においては労働力を得るためにヒトが増える。しかしやがて効率は上がる。だがすぐにヒトは減らない。だから(「マネー経済」bを縮小させない限り)21世紀は当面これまで以上にヒトが余ってくるのだ。

 昔戦争は領土を増やすために行なわれたが、大量生産の時代に入り砲弾や戦車などの「モノ経済」bが余ってくると、その消費の為にも戦争が行なわれるようになった。21世紀の戦争はさらに余ったヒトも含めて消費してしまおうという恐ろしい側面を持つ。モノコト・シフトの時代は「三つの宿啞」との戦いでもある。だから副島氏はこの本で「生き延びる思想10カ条」を説く。

(引用開始)

1 夢・希望で生きない
2 自分を冷酷に見つめる
3 自分のことは自分でする
4 綺麗事をいわない
5 国家に頼らない
6 ズルい世間に騙されない
7 ある程度臆病でいる
8 世の中のウソを見抜く
9 疑う力を身につける
10 いつまでもダラダラと生きない

(引用終了)
<同書 202−203ページ>

最後の「いつまでもダラダラと生きない」というのがいい。私も以前ビジネスに関連して「騙されるな!」という項を書いたことがある。併せてお読みいただければ嬉しい。

 この本で扱う政治思想の射程距離は長い。副島氏の主著の一つに1995年に出版された『現代アメリカ政治思想の大研究』(筑摩書房)という本がある。今は講談社α文庫に『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』として収められている。私は1998年に読んで大いに勉強になった。最も大切なのは『余剰の時代』(89ページ)にも掲げられている「ヨーロッパ政治思想の全体像」という一枚の表だ。

 西洋政治思想の根本には、アリストテレス/エドマンド・バークの「自然法(Natural Law)派」と、ジョン・ロックやヴォルテールの「自然権(Natural Rights)派」との対立がある。自然権派からルソーなどの「人権(Human Rights)派」が生まれた。「自然法(Natural Law)派」と、ジェレミー・ベンサ(タ)ムの「人定法(Positive Law)派」との対立もある。くわしくは本書や『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』をお読みいただきたいが、一言でいえば、

「自然法派」:
人間も自然界の法則で生きているのだからあまり激しいことはするな
「自然権派」:
人間には本来自然に生きていくだけの権利がある
「人権派」:
貧困者でも生き延びる権利がある
「人定法派」:
法律は人間がきめたことであって自然界の法則とは違う

ということになる。副島氏はこれらの政治思想を解説した後、

保守本流:自然法派
官僚:自然権派
多数派:人権派

という現代の西洋政治地図を提示する。いまの官僚は「人間には本来自然に生きていくだけの権利がある」とする自然権派を標榜しながら、福祉国家を運営できるのは我々とばかり、楽観主義的な「貧困者でも生き延びる権利がある」とする人権派を押さえ込む。保守本流は「人間も自然界の法則で生きているのだからあまり激しいことはするな」という自然法派だが上品だから官僚支配になかなか勝てない。本来ジョン・ロックやヴォルテールの「自然権派」は王権からの民主独立派だったのだが、楽観的であるが故に過激なルソーらの「人権派」との内部争いに敗れた。

 「人定法派」からは「リバータリアニズム」が生まれた。「自分のことは自分でやれ。自分の力で自分の生活を守れ」という思想だ。副島氏の「生き延びる思想10カ条」はこの思想から来ている。複眼主義的にいえば、

「都市の働き」:人定法
「自然の働き」:自然法

という複眼的な考え方が正しい。各種の権利は人定法内の諸規定として考えるべきだ。だから「都市」で身を守るにはこの「生き延びる思想10カ条」が相応しいといえるだろう。
img006.jpg
人と世界は円を斜め上から見たところとして表現。世界は斜線によって「都市の働き」=「公」、「自然の働き」=「私」に分けられる。人は斜線によって「脳の働き」=「公」、「身体の働き」=「私」に分けられる。詳しくは前項「複眼主義の時間論」なども参照のこと。

 この本によって西洋政治思想の基本を学び、騙されないようにしてモノコト・シフトの時代を生き延びようではないか。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 14:43 | Permalink | Comment(0) | 起業論

複眼主義の時間論

2015年04月13日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「時間論を書き換える」の項で、「まっすぐに進んで戻らない万物共通のもの」という時間はユダヤ・キリスト教、一神教における概念に過ぎないと書き、その書き換えは、非キリスト教文化圏の日本人の手によって成されるだろうと予測したが、今回は私の(複眼主義による)時間論を披露しよう。勿論仮説だが様々な現象と整合的なので自分としてはなかなか気に入っている。

 複眼主義ではまず人と世界とを「個人」と「集団」とに分ける。人は「個人」であり世界は「集団」である。さらにそれぞれを、

「個人」:「脳の働き」=「公」と、「身体の働き」=「私」
「集団」:「都市の働き」=「公」と、「自然の働き」=「私」

とに二分する。ここまでは時間論以前の話だ。
img006.jpg
人と世界は円を斜め上から見たところとして表現。世界は斜線によって「都市の働き」と「自然の働き」とに分けられる。人は斜線によって「脳の働き」と「身体の働き」とに分けられる。

 個人の「脳の働き」と「身体の働き」については、「単行本読書法(2014)」での説明を繰り返しておこう。人の神経は、中枢神経系と抹消神経系からなり、中枢神経系には脳(大脳/脳幹/小脳)と脊髄があり、末梢神経系には体性神経(感覚神経/運動神経)と自律神経(交感神経/副交感神経)とがある。複眼主義で「脳の働き」と呼んでいるのは大脳の内の進化的に新しい大脳新皮質の働きを指し、「身体の働き」と呼んでいるのは、大脳の大脳旧皮質、脳幹の働きを指している。後者は小脳、脊髄および末梢神経全体と強く結ばれているから総じて「身体の働き」と言っているわけだ。人は「脳の働き」と「身体の働き」をバランスさせながら生きている。図では「身体の働き」に身体そのものも含む。

 集団の「都市の働き」と「自然の働き」は、個人の「脳の働き」と「身体の働き」に由来・対応する。個人の脳が集団に働きかけることによって作り出されるのが「都市」、身体そのものの母体となっているのが「自然」である。都市とは、脳の働きが身体と自然の力を元につくり出す人工のもの一切を指す。言葉、法律、国、会社、イベント、家、街、コンピュータ、TV、車などなど。自然とは、人工のもの以外を指す。

 ここまででもう想像が付くかもしれないが、複眼主義では以上に沿って、時間を四つに分けて考える。

「脳の働き」=現在進行形(t = 0)
「身体の働き」=寿命(t = life)

「都市の働き」=金利(t = interest)
「自然の働き」=無限大(t = ∞)

という具合だ。
img007.jpg
 脳の働きは常に現在進行形。今あなたはこの端末画面を見ているけれど、画面の後ろにある空間、乗り物や街、会社や家庭、そして世界全体を一挙に把握している筈だ。あなたの頭の中にはあなたがこれまで体験してきた世界の全てが同時にある。各人の脳は固有の現在進行形の時間を持っている。

 身体は寿命によって制御される。脳も身体の内だから、身体の時間が終われば脳の時間も終わる。寿命は身体の大きさに比例するというのが本川達雄氏の『ゾウの時間 ネズミの時間』(中公新書)である。この本については以前「集団の時間」の項でも紹介したことがある。

 多くの人の脳が作り出す都市の機能を制御する時間は、集団内で共通のものにしておく必要がある。今の都市の時間は(歴史的な力関係で)概ねユダヤ・キリスト教でいうところの「まっすぐに進んで戻らない万物共通のもの」を基準にしてある。その流通価値は、集団内の合意事項として効率(金利)によって判断することになっている。勿論世の中には金利ゼロという集団(社会)があってもよい。

 自然の時間は今の人智では計り知れない。だから宗教や科学の出番がある。宗教や科学が考える時間にはいろいろある。単純一方向型、インフレーション型、多元型、循環型などなど。複眼主義ではこれを無限大と置いている。ユダヤ・キリスト教徒は彼らの「まっすぐに進んで戻らない万物共通のもの」という単純一方向型の時間概念を自分達の「都市」にまず持ち込んだわけだ。それが今のところ世界基準となっている。

 無限大という意味はなんでもありということ。生物学のスケーリングや気象学、熱力学、流体力学などを勉強していると、ET = kWという、空間(W)サイズは、エネルギー(E)と固有時間(T)によって決まってくる(kは定数)という法則が一番しっくり来る。おそらく世界はET = kWの入れ子構造で成り立っていると思うのだが、これはまだ仮説前段階の域を出ない。身体の時間が終われば脳の時間も終わるように、自然の時間が終われば都市の時間も勿論終わる。

 こうした四つの時間概念、

「脳の働き」=現在進行形(t = 0)
「身体の働き」=寿命(t = life)
「都市の働き」=金利(t = interest)
「自然の働き」=無限大(t = ∞)

をベースにして私は生きている。一般の人と違うかもしれないが都市生活上なんの不便もない。会社(SMR)のミッションである「知の拡大」のために、日々、脳の現在進行形の時間を豊にすることを心掛けている。人との約束を破ることはない。各種工学の成果は無理のない範囲で利用する。身体健康上は寿命を全うしようというだけのことで「まっすぐに進んで戻らない万物共通のもの」を信じて若さに嫉妬したり老化に抵抗したりすることもない。

 モノコト・シフトの時代、皆さんも“コト”が起る時間について、さまざま想いを巡らせてみてはいかがだろう。宗教上の理由以外で「まっすぐに進んで戻らない万物共通のもの」である必然性が見つかったらそのときは是非お知らせいただきたい。その際工学(応用科学)と科学(science)との違いを見誤らないように。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 16:45 | Permalink | Comment(0) | 非線形科学

時間論を書き換える

2015年04月07日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「進化論と進歩史観」の項で、進歩史観の基にある、過去から未来へ向かって一定速度で進む「統一時間」が宇宙を律していて歴史は滔々とその流れに沿って動くとする時間論について触れたが、今回は生物学の時間論について考えてみたい。

 動物のサイズによって時間の流れる速さが違ってくるという『ゾウの時間 ネズミの時間』(中公新書)の著者本川達雄氏は、『「長生き」が地球を滅ぼす』(文芸社文庫)という本の中で、動物の身体の大きさが動物の身体のつくりや働きにどう影響するかを調べる生物のスケーリングに関する本をいくつか紹介したあと、

(引用開始)

 以上、どの本にもエネルギー消費のことは詳しく書いてあるが、時間に関して突っ込んだ記述や議論はない。
 前記シュミットニールセンの本は名著の誉れが高い。彼はデューク大学の看板教授で、コールダー(彼の本の次に挙げた本の著者)は彼の高弟である。私はデュークに二年ばかりお世話になり、シュミットニールセンとはよく昼飯を一緒に食べた。
「時間(time)は体重の1/4乗に比例して変わるものです。」
 私が主張した時、シュミットニールセンは言った。
「君の言うのはtimeではなくcycle(周期)だ。」
 あ、これは時間の一神教だ!と思った。西洋では、まっすぐに進んで戻らない万物共通のものを時間と呼ぶ。くるくる回るものを普遍的な時間と呼ぶことに、彼らは強い抵抗を感じるようなのである。
 唯一の神を大文字でGodと書いて八百万の神々godsと区別し、Godこそが真の神だとユダヤ・キリスト教徒は考える。たぶん彼らの意識の中では、時間にもTimeとtimesの区別があり、唯一の神の造ったTimeこそが唯一の時間なのであって、timesの方は、本当は、そうは呼びたくないというのが西洋人の本音なのではないだろうか。だからこそcycleだとシュミットニールセンが言い直したのだと私は解釈している。この時の会話の調子から、時間を扱うと文化論にならざるを得ないなあと強く感じた。
 後年、彼が国際生物学賞(昭和天皇を記念して設けられた賞)を受賞して来日した際、『ゾウの時間 ネズミの時間』がベストセラーになったと告げたら、
「時間がいろいろ違うなんて、アメリカでは受入れられるはずがない。日本ではそういう本が売れるんだねえ。」と、彼我の違いに大いに驚き、不思議がりつつ感心していた。

(引用終了)
<同書 271−272ページより> 

と書いておられる。この「まっすぐに進んで戻らない万物共通のもの」という時間はユダヤ・キリスト教、一神教における概念に過ぎない。このことが重要だ。

 21世紀のモノコト・シフトが非キリスト教文化圏にある日本で進むと、進化論が池田氏の「形態形成システム」によって書き換えられるであろうように、本川氏のような日本人科学者によって、生物学の時間論そのものも書き換えられるだろう。引用にあるようにまだ抵抗は強いようだが、(モノコト・シフトは黙っていても世界規模で進んでいくから)それこそ時間の問題だと思われる。

 書き換えの突破口は、本川氏らのスケーリングの研究が一つ。もう一つは、個体発生は系統発生を繰り返すという発生学上の知見だろう。日本では解剖学者三木成夫氏の『胎児の世界』(中公新書)が有名だ。個体発生が時間を圧縮した系統発生を内に秘めているのであれば、生物の時間は原初からのそれの入れ子構造になっているわけで、「まっすぐに進んで戻らない万物共通のもの」の原理下だけにはないことになる。

 三木氏の本では2013年に復刻された『内臓とこころ』(河出文庫)と『生命とリズム』(河出文庫)が入手しやすい。一読をお勧めする。去年の暮、進化論的教育論(Evolutionary Pedagogy)の分野で三木氏の仕事を継承した『アインシュタインの逆オメガ』小泉英明著(文藝春秋)という本も出版された。

 時間論の見直し・書き換えは、いずれ物理学の世界でも行なわれるだろう。その取っ掛かりを「時空の分離」「再び複眼主義について」「クレタ人の憂鬱」などの項で書いておいた。併せてお読みいただけると嬉しい。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 11:06 | Permalink | Comment(0) | 非線形科学

夜間飛行について

運営者茂木賛の写真
スモールビジネス・サポートセンター(通称SBSC)主宰の茂木賛です。世の中には間違った常識がいっぱい転がっています。「夜間飛行」は、私が本当だと思うことを世の常識にとらわれずに書いていきます。共感していただけることなどありましたら、どうぞお気軽にコメントをお寄せください。

Facebookページ:SMR
Twitter:@sanmotegi


アーカイブ

スモールビジネス・サポートセンターのバナー

スモールビジネス・サポートセンター

スモールビジネス・サポートセンター(通称SBSC)は、茂木賛が主宰する、自分の力でスモールビジネスを立ち上げたい人の為の支援サービスです。

茂木賛の小説

僕のH2O

大学生の勉が始めた「まだ名前のついていないこと」って何?

Kindleストア
パブーストア

茂木賛の世界

茂木賛が代表取締役を務めるサンモテギ・リサーチ・インク(通称SMR)が提供する電子書籍コンテンツ・サイト(無償)。
茂木賛が自ら書き下ろす「オリジナル作品集」、古今東西の優れた短編小説を掲載する「短編小説館」、の二つから構成されています。

サンモテギ・リサーチ・インク

Copyright © San Motegi Research Inc. All rights reserved.
Powered by さくらのブログ