夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


地方の時代 III

2015年02月24日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『33年後のなんとなく、クリスタル』田中康夫著(河出書房新社)つながりで、『「脱・談合知事」田中康夫』チームニッポン特命取材班著田中康夫監修(扶桑社新書)および『日本を MINIMA JAPONIA』田中康夫著(講談社)の二冊を読んだ。

 田中長野県政は2000年10月から2006年9月まで6年間続いた。『「脱・談合知事」田中康夫』は2007年3月初版発行だから県政が終わってから、『日本を MINIMA JAPONIA』は2006年6月第一刷発行だから、まだ田中氏知事時代の出版ということになる。後者の巻末には、2005年に結成された「新党日本」代表としての田中氏の政治哲学注釈「ミニマ・ヤポニア―日本を)」横組95ページがある。

 『「脱・談合知事」田中康夫』は、大手ゼネコンの元課長から地元の建築コンサル、中堅建築会社社長、村長、弁護士、県の土木系職員などへの取材を基にした本で、県レベルにおける談合政治の実態が良くわかる。最終章には「脱・談合ニッポン実現のために」という田中氏の特別寄稿文がある。

 『日本をMINIMA JAPONIA』は出版から9年経つが、談合政治との決別、箱モノ行政からの転換、脱ダム宣言、コモンズに根ざした介護と教育、林業再生、開かれたメディア対応、ノブレス・オブリージュなど、地域行政に必要と思われる項目がすでにほぼ網羅されている。章立てを記しておこう。

序 章 「怯まない」「屈しない」「逃げない」
第1章 三位一体改革のまやかし
第2章 箱モノ行政からの転換
第3章 信州から変えるニッポン
第4章 「コモンズ」に根ざした介護と教育
第5章 雇用を生み出す信州スタイル
第6章 林業再生
第7章 「『脱ダム』宣言」で問う公共事業
第8章 権力化したメディアを溶解させる
第9章 エリートを否定するな
第10章 田中康夫のよる「田中康夫」論
MINIMA JAPONIAミニマ・ヤポニア

 この二冊の本は、『33年後のなんとなく、クリスタル』の註のうちヤスオの政治活動に関する部分の拡大版でもあると思う。『33年後〜』を読んでヤスオの政治活動に興味を覚えた人にとって、この二冊はさらに理解を深める為の必読書といえるだろう。『日本をMINIMA JAPONIA』は、本の構成も縦組の本文と巻末横組のページということで『33年後のなんとなく、クリスタル』と似ている。

 それにしても、長野県民は2006年9月からの新知事になぜ田中氏を再選しなかったのだろう。2011年の3.11以降、脱ダム宣言に見られる自然との共生理念はその重要性を増しているというのに。

 『「脱・談合知事」田中康夫』の付録としてある47都道府県の知事プロフィールを見ると、その7割もが霞ヶ関と県庁役人出身だ。今も(知事の顔ぶれや制度は変わっても)実態はあまり変わっていないのではあるまいか。

 田中氏は、『「脱・談合知事」田中康夫』の最終章「脱・談合ニッポン実現のために」の冒頭、次のように書く。

(引用開始)

 談合とは何ぞや、という話の前に、私が三選されなかった理由ですか?
 実は先日もその答えを、TV局で一緒になった自由民主党の国会議員から聞かされたばかりでした。
 あなたは利権を配らなかったからねぇ。それどころか、47都道府県知事で唯一、一般競争入札を全面的に導入して、利権そのものを作ろうとしなかった。敗因は、これに尽きるよ、と。
 続けて、彼から“助言”まで受けました。
 適当に妥協しておけば良かったんじゃないの。「改革派」と最後まで新聞んでは持ち上げられ続けて、逮捕とは無縁で引退していく他県の知事の中にだって、県議員一人ひとりに毎年一か所は、希望の公共事業を無条件で認めてあげるから、と甘い言葉を囁いて、議会対策を抜かりなく進めていたりする人が殆(ほとん)どだから、と。

(引用終了)
<同書 152ページ>

このブログではこれまで「地方の時代」や「地方の時代 II」などの項で、新しい国づくりは地方都市から始まると述べてきた。その理由について、

(引用開始)

「若者の力」の項でみたように、地方都市の魅力が高まっていることが一つ。新しい「コト」が起きるためには、ある程度小さな規模の枠組みが必要なことがもう一つ。一方、大規模都市にはgreedとbureaucracyと、それを許し続ける「心ここに在らず」の大人たちが大勢棲みついていることが第三の理由だ。

(引用終了)
<「地方の時代」より>

と書いたけれど、阻害要因である「心ここに在らず」の大人たちは、県レベルにはまだまだ大勢棲みついているようだ。

 この二冊を精読してこれからの時代に備えたい。2000年代前半の田中県政はその先駆けなのだから。特に、『日本をMINIMA JAPONIA』巻末にある「ミニマ・ヤポニア―日本を)」は、著者渾身の政治哲学書だと思う。

 尚、『33年後のなんとなく、クリスタル』については、「しなやかな<公>の精神」、姉妹サイト『百花深処』<日本の女子力と父性について>、<向き合うヤスオと逃げるハルキ>の各項をお読みください。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 12:02 | Permalink | Comment(0) | 街づくり

自分のなかに自分はいない

2015年02月17日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 生物学者福岡伸一氏の『芸術と科学のあいだ』という新聞連載コラムを毎回楽しく読んでいる。その第44回に「無くしたピースの請求法に感心」と題した記事があった。

(引用開始)

 私の学生時代の知人にジグソーパズルの愛好家がいた。大判のパズルを―それはたぶん数百とか数千ものピースからなっていたと思われるが―飽きもせず長い時間をかけて完成させる。彼の言い分がふるっていた。「あと一個、というところまで作っておいて、最後のピースは彼女に入れさせてあげるんだ」。当時の彼に、彼女が本当にいたとしても、彼女はそのプレゼントをどれほど喜んだことだろう。今となってはよくわからない。
 ところで、こんなジグソーパズルのファンにとって困ったことが起こりうる。一生懸命作り上げたパズル、いよいよ完成という段になって、ピースがひとつ足りない。そもそもピースは小さい。どんな隙間にでも入り込みうる。部屋中を必死に探しまわってもどうしても見つからない…このような悪夢のような事態は実際、しばしば発生することのようだ。
 その証拠に、ジグソーパズルメーカー、やのまん(東京・台東)のホームページにこんなサービスの告知を見つけた。
 「弊社では無料で紛失したピースを提供させて頂いております」
 でも、いったいどのようにして無くしてしまったものを相手に知らせることができるのか。次の一文がふるっている。
 「請求ピースのまわりを囲む8つのピースをはずして、崩れないようラップ等でくるむ」(ラップ等で、というところがまたいい)=写真は同社ホームページの一部
 私はこれを読んで心底感心した。生物学の根幹を統べる原理がここにあますところなく表現されている。生命を構成する要素(ピース)は単独で存在しているのではない。それを取り囲む要素との関係性の中で初めて存在しうる。状況が存在を規定する。自分のなかに自分はいない。自分の外で自分が決まる。相補性である。ラップに包まれた8つのピースの中央におさまった真新しいピースがそっと返送されてきたら…このときこそ彼女は本当に至福を感じるだろう。

(引用終了)
<日経新聞 12/14/2014、写真は省略>

この「生命を構成する要素(ピース)は単独で存在しているのではない。それを取り囲む要素との関係性の中で初めて存在しうる。状況が存在を規定する」という生物学的認識論を、社会と個人の関係にまで敷衍したのが、去年私が執筆した電子書籍『あなたの中にあなたはいない』という小説である。

 勿論、人はパズルのピースとは違い「知覚」を持っている。その意味で、人には自分のなかに(知覚する)自分がいるわけだが、社会と個人との関係において重要なのは、そういう自分ではなく、「至高的存在」としての他者、恋人だったり友達だったり、両親だったり兄弟だったり、恩師だったりする相手=「あなた」を大切に思う気持ちであり、それが自分の存在を規定しているのではないか、というのがこの小説のテーマだ。

 西洋近代が用意した民主政治・自由経済という制度は、「個人」の自立を促した。その過程で、社会の掟や繋がりが古いものとして捨て去られ、機会の平等と弱肉強食が肯定された。複眼主義の、

A 主格中心−所有原理−男性性−英語的発想
B 環境中心−関係原理−女性性−日本語的発想

という対比でみれば、世界全体がAの側に引き寄せられていったということだ。複眼主義的には、Aは都市の原理、Bは自然の原理でもあり、社会としては常に両者のバランスが取れていなければならない。

 西洋近代は、陋習を否定する一方、自然を慈しみ、過去とのつながりも大切にしなければならないとする、カウンター・バランスも用意していた(ウィリアム・モリスのアーツ&クラフツ運動など)。しかし、「二つの透明性と西欧近代文明」の項などで述べたように、20世紀、そのカウンター・バランスの方は、アメリカの大量生産・輸送・消費システムに凌駕され、力を失ってしまった。

 21世紀に至り、Aの側に偏った社会が、実は、地球環境の破壊と結果の不平等という、当初の期待とは真逆の惨状を齎すことが見えてきた。とくに地球環境破壊は人類(だけでなく全ての生物)の存在そのものを脅かす。前回「回転と中心軸のトポロジー」の項でも触れた“モノからコトへ”のパラダイムシフト(略してモノコト・シフト)とは、A偏重社会への反動として生まれた、Bの側への感心の高まりである。

 その意味で、「自分のなかに自分はいない。自分の外で自分が決まる」という原理、「自分は環境によって生かされている」という気付きは、これからますます輝いてくると思われる。私が『あなたの中にあなたはいない』(とそれに先行する『僕のH2O』)という小説で訴えたかったのはこのことだ。

 どんな話しなのか興味のある方は、『茂木賛の世界』から目次を辿ってアクセスしてみて戴きたい。参考までに、小説の<あとがき>を転載しておこう。

(引用開始)

 以前「KURA(くら)」という信州の情報誌を読んでいたら、ガラス造形作家松原幸子さんの「Book of the sky」という作品が目に留まった(2011年7月号)。素敵な装丁本のなかに、白い雲が浮かぶガラスが納められでいる。

 記事によってその年の5月、安曇野のギャラリー・シュタイネで作品が展示されたことを知り、その冬、私はギャラリーを訪れた。幸い幾つか作られた「Book of the sky」のうちのひとつがまだギャラリーに残っていたので、さっそく購入、いま私のhome/officeに飾ってある。この小説のインスピレーションは、その作品と、ギャラリー・シュタイネのご主人との四方山話から生まれた。

 小説のテーマの方は、2007年以来掲載を続けているブログ「夜間飛行」の「“わたし”とはなにか I~III」(2011年7月)や「流域思想 I~II」(2010年5月)などの記事による。

 仕事などで幾度も訪れた松本という街、“わたし”の存在論や、流域の三層構造(奥山・里山・家の奥)、「Book of the sky」というガラス作品、安曇野のギャラリーの佇まいなどが脳裏で融合し、いわば即興的にこの短編が出来上がった。

茂木賛
7/21/2014

(引用終了)

 尚、福岡伸一氏の著書については、これまで「動的平衡とは何か」の項などでも紹介してきた。併せてお読みいただけば嬉しい。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 13:26 | Permalink | Comment(0) | 非線形科学

回転と中心軸のトポロジー

2015年02月10日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 「文庫読書法(2014)」の項で、日本人は抽象的な外来思想を具象的な環境に落とし込み土着信仰に習合させてきたと書き、前回「郷愁的美学」の項で、日本の男性性思考(螺旋運動)は場所に牽引されて抽象的な高みに飛翔し続けないと書いた。これは複眼主義の、

A 主格中心−所有原理−男性性−英語的発想
B 環境中心−関係原理−女性性−日本語的発想

という対比において、日本の男性性が日本語的発想に引き寄せられ、Bの側に偏っていることを指し示している。

 場所中心の日本人は何にでも入りたがる。風呂に入り、学校に入り、会社に入る。主格中心の西洋人は風呂をtakeし、学校でlearnし、会社でworkする。日本語では、地図上の自分の位置は「現在地」という矢印で示すが、英語では「you are here」という矢印で示す。これらの事例は以前「いつのまにかそうなっている」「現在地にあなたはいない」などの項で取り上げた。

 日本文化のバランスがBの側に偏っていることは、人々がその場の空気に流されやすく、個人の自立を前提とする近代民主政治制度下において財欲と名声欲(greed)に騙されやすかったり、官僚(buraucracy)の跋扈を許したり、弁証法が得意とする発見・発明にあまり成果がない等の欠点を齎す一方、男性性思考が場所に留まることで、日本各地でさまざまな場所・環境に応じた文化が育ち、それが内への求心性を保ったまま長く(江戸時代300年も)維持されるという良さも齎したといえるだろう。勿論、西洋でも場所・環境に応じて多様な文化が生まれたが、それぞれの場所における内への求心性よりも外への遠心性が勝ったことで、一神教と相俟って帝国が出現し、やがて植民地主義が始まったと思われる。

 これをトポロジカル(位相的)に見ると、西洋の螺旋運動が、おとぎ話の「ジャックと豆の木」に出てくる豆の木のように、どんどん高みに飛翔し続けやがて雲を劈いて天の高みに達するのに対して、日本の螺旋運動は、「鳴門の渦潮」のように、同時多発的に複数の場所で起るといえる。螺旋の周期性は離散的(デジタル的)、迷宮の内部は連続的(アナログ的)だ。これは「デジタル回路とアナログ回路」の項で述べた対比とも整合する。

A 男性性−デジタル回路思考主体−螺旋的な遠心性
B 女性性−アナログ回路思考主体−迷宮的な求心性

 「D/A変換とA/D変換」の観点から西洋と日本の男性性思考の違い見れば、西洋はプラトンとアリストテレス以来、弁証法を通して豆の木を登るようにまっすぐ上昇しながら迷宮を巨大化してきたのに対し、日本は、反転法を通して木々に絡まる蔦が横へ横へと広がり、そこ此処に迷宮の花を咲かせてきたといえる。明治以降、西洋の猿真似で豆の木もどきを天に伸ばそうとしたが、その贋物の木は途中で見事に折れてしまったことは記憶に新しい。

 21世紀に入って、豆の木と巨大な迷宮はグローバリズムに形を変えて地球を覆おうとしている。しかし一方で、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)が始まり、西洋においても、豆の木から下りる人々が増えてきた。モノコト・シフトとは、20世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。

 世界各地で、地域社会を見直しスロー・フード、スロー・ライフを提唱する人々が増えてきた。だからこそ、そこ此処に迷宮の花を咲かせてきた日本の出番の筈なのだが、戦後もアメリカから借りた高度成長という豆の木の枝を登り続けてきた日本は、各地に小銀座や小京都などという「迷宮もどき」を作ってきたのだった。これからは、地域文化を見直して本当の迷宮を探そうではないか。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 10:35 | Permalink | Comment(0) | 非線形科学

郷愁的美学

2015年02月03日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 以前「反重力美学」の項で、交感神経由来の美的感覚であるところの、重力に逆らうものに対する憧れを、「反重力美学」と名付けた。走る男、空へ舞い上がる鳥、天へ向いた穂先、スポーツ・カーの流線型など、重力から逃れようとする運動や形態に対して、人間は本能的に美を感じ取るという話だ。

 それに対して、いとしさ、懐かしい香り、心やすらぐメロディー、散る桜をうたった歌、長閑な田園風景など、郷愁を誘う物事に対して感じるのは、同じ自律神経でも、副交感神経由来の美的感覚だと思われる。

 「交感神経と副交感神経」の項で見たように、副交感神経は、消化が行なわれているときに活性化し、<安らぎと結びつき>作用による身体的適応に関連しているわけだから、その美的感覚は、身体がリラックスしたときに発動する筈だ。確かに、いとしさや香りを感じるのはそういうときに違いない。この副交感神経由来の美学を、「反重力美学」と対にして、「郷愁的美学」と名付けたい。複眼主義の関連対比でいえば、

「生産」:理性的活動−交感神経優位−反重力美学
「消費」:感性的活動−副交感神経優位−郷愁的美学

という連なりになる。

 この美的感覚の対比は、文芸評論『百花深処』<迷宮と螺旋>などで検討した、

「男性性」:螺旋的な遠心性
「女性性」:迷宮的な求心性

といった時空構造とどう繋がるのだろうか。

 「反重力美学」の項で言及したように、反重力美学は西洋的なリズム感を伴っている。走る男、空へ舞い上がる鳥、天へ向いた穂先、スポーツ・カーの流線型に憧れるのは男性の方が多いから、「男性性」と「反重力美学」は親和性が強い。一方、いとしさ、懐かしい香り、心やすらぐメロディー、散る桜をうたった歌など郷愁を誘う物事を好む女性は多いから、「女性性」と「郷愁的美学」は親和性が強い。しかし、

「生産」:理性的活動−交感神経優位−反重力美学
「消費」:感性的活動−副交感神経優位−郷愁的美学

という対比は機能的(functional)な分類で、

「男性性」:螺旋的な遠心性
「女性性」:迷宮的な求心性

の対比は構造的(structual)な分類だから、二つの対比は同じではない。

 美的感覚は、機能的な@「反重力美学」とA「郷愁的美学」という対比と、構造的なB「男性性」とC「女性性」とが「縦軸と横軸」の関係性を持ちながら、その全体を形成しているといえるだろう。
img001.jpg
だから、四つの項目の比率は、その対象や鑑賞者の心身状態によって違ってくる。

 音楽を例に取ってみよう。様々な音楽のうち、リズムを重視するジャズの感覚は、どちらかというと「反重力美学」的であり、嗜好者には男性性を出自に持つ人たちが多い。メロディーを重視するリラックス系音楽は「郷愁的美学」であり、嗜好者には女性性を出自に持つ人たちが多い。しかし、女性のジャズ愛好家はいるし、リラックス系音楽を好む男性もいる。ジャズでもスローな曲は郷愁的だ。そして人は、鑑賞するときの気分(心身状態)に応じて、ジャズを聴いたりリラックス系の音楽を聴いたりする。

 それぞれの比率は、その人の育ち、風土や言語といった文化的背景の違いによっても異なるに違いない。たとえば日本では、男性でもわび・さびなど「郷愁的美学」を好む人が多い。それは、文芸評論『百花深処』<迷宮と螺旋>の項で述べたように、日本の男性性(螺旋運動)が、場所に牽引され、抽象的な高みに飛翔し続けないことと大いに関係がありそうだ。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 10:18 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

夜間飛行について

運営者茂木賛の写真
スモールビジネス・サポートセンター(通称SBSC)主宰の茂木賛です。世の中には間違った常識がいっぱい転がっています。「夜間飛行」は、私が本当だと思うことを世の常識にとらわれずに書いていきます。共感していただけることなどありましたら、どうぞお気軽にコメントをお寄せください。

Facebookページ:SMR
Twitter:@sanmotegi


アーカイブ

スモールビジネス・サポートセンターのバナー

スモールビジネス・サポートセンター

スモールビジネス・サポートセンター(通称SBSC)は、茂木賛が主宰する、自分の力でスモールビジネスを立ち上げたい人の為の支援サービスです。

茂木賛の小説

僕のH2O

大学生の勉が始めた「まだ名前のついていないこと」って何?

Kindleストア
パブーストア

茂木賛の世界

茂木賛が代表取締役を務めるサンモテギ・リサーチ・インク(通称SMR)が提供する電子書籍コンテンツ・サイト(無償)。
茂木賛が自ら書き下ろす「オリジナル作品集」、古今東西の優れた短編小説を掲載する「短編小説館」、の二つから構成されています。

サンモテギ・リサーチ・インク

Copyright © San Motegi Research Inc. All rights reserved.
Powered by さくらのブログ