夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


英語の前進性

2014年10月28日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 『翻訳問答』片岡義男・鴻巣友季子共著(左右社)を読んだ。副題は「英語と日本語行ったり来たり」。左右社というのはあまり見ない出版社だがこれは秀悦な本だ。二人が英語の名作小説の冒頭を翻訳し語り合う内容で、小説を読む愉しさ、書く楽しさを教えてくれる。作家と翻訳家の違いも面白い。新聞の簡単な書評を紹介しよう。

(引用開始)

 英語を日本語に「翻訳」するとはどういうことなのか。「あてはめ主義」で行くとクールに語る作家・片岡と、「文体が降りてくる」という憑依体質の職人・鴻巣が、名高い小説の一場面を競訳し、互いの訳について話し合う。オースティンやチャンドラー、サリンジャーにE・ブロンテ……小説のタイプはさまざま。原作者の意図だけでなく、小説の語りそのものをくみ取り、言葉を選んでいく結果の、異なる二つの日本語文。細部にわたるやりとりは「翻訳」の本質に踏み込む。落語の「こんにゃく問答」を想起させる表題にもにんまりするが、片岡による英語題は「Lost and Found in Translation」。さて、これを日本語訳すれば?

(引用終了)
<朝日新聞 8/17/2014>

 英語題名の「Lost and Found in Translation」は、ソフィア・コッポラ監督の映画「Lost in Translation」と、遺失物取扱所を意味する「Lost and Found」とを合わせた愉快なアイデアだ。「Found」が翻訳の奥深さを言い表している。

 たとえば「おわりに」のなかに、金子光晴の「富士」という詩の最後の五行が、アーサー・ビナード氏の英訳と共に引用してある。

(引用開始)

雨は止んでゐる。
息子のゐないうつろな空に
なんだ。糞面白くもない
あらひざした浴衣のやうな
富士。

これをビナードさんはこう英訳しています。

The rain has let up. Overhead
The sky is empty, our son nowhere in sight.
This is shit, and on top of it all,
There’s Fuji, looking like a faded
old bathrobe.

(引用終了)
<213−214ページ>

この英訳について、片岡氏は、日本語の場合「息子のゐないうつろな空に」という文章は「息子の」「ゐない」「うつろな」が全部「空」にかかって全体が一つの名詞形になっているけれど、英訳では、いきなりOverheadという言葉がきて読者の視線を上に向かわせたあと、the sky is emty「空はからっぽだ」と空だけを問題にし、次にour son nowhere in sight と息子が問題にされ、すべてが「空」にかかってはいない、と論じる。

 原文では、「雨は止んでゐる」と「息子のゐないうつろな空に」との間(の視線の移動など)を読者が補わなければならないが、英訳では、Overheadという言葉で書き手側が明示する。片岡氏は原文の方が、

(引用開始)

片岡 読む人に負担がかかりますね。最後に富士が出てきて、そこにすべての言葉が掛かっているのですから。僕は英訳のほうが好きです。言葉のならびかた、つまり機能のしかたが、当然のことですが、まるっきりちがいます。英語には輪郭や機能がはっきりした言葉のつながりがあるので、明確な前進性が出ます。

(引用終了)
<同書 215ページ>

と述べる。このあたりが翻訳による「Found」の部分なのだろう。この「前進性」という英語の特徴を示す言葉が面白い。

(引用開始)

片岡 この英訳はどの言葉もきちんと論理的に整理されていて、読者の気持ちが脇へ漏れ出す隙間がないのです。ということは、書く人も読む人も、前に進むしかないのです。
鴻巣 片岡さんの文は素材のまま読者に渡して、読者の調味してもらっているように見えます。この「富士」にもおなじ印象を持ちました。日本語原文ははじめから調味されていますが、英訳のほうは「空です、うつろです、息子はいません」とフラットに並列されていますね。
片岡 the sky is empty, のコンマの存在がまた注目です。
鴻巣 このコンマ、具体的に何も指示していませんね。
片岡 コンマによって左右に分けられた、二つの状況の並列でしょう。しかし、そうすることによって、誰も止めることのできない前進力が生まれます。

(引用終了)
<同書 215−216ページ>

これを複眼主義に引き寄せて言えば、英語は「主格中心」の言葉なので書き手が明示的に話を前進させてゆくのに対して、日本語は「環境中心」だから、書き手は後ろに下がって全体の景色が前面に出る、という違いといえるだろう。

 だから、英訳では前進性を味わえるが、原文の方では、書き手と遠くに見える富士との間の、前進性のない、まったりとした空気感を味わうことが出来る。英訳ではこの空気感は後方に退く。ここは翻訳による「Lost」の部分かもしれない。

 ところで英語題名「Lost and Found in Translation」は片岡訳とあるが、そうすると「英語と日本語行ったり来たり」という日本語の副題は鴻巣さんが考えたのだろうか。こちらは二人の「問答」の感じ、バイリンガル作家と翻訳家の資質の違いをうまく伝えている。

 また、この本で片岡氏が述べる『「風呂に入る」という日本語の意味が子どもの僕にはわからなかった』という話は、『日本語と英語』片岡義男著(NHK出版新書)にも載っている。併せて読むと日本語と英語の違いに関する興味が深まると思う。

 『日本語と英語』に関しては、以前「いつのまにかそうなっている」と「現在地にあなたはいない」という二つの記事を書いた。こちらも参考にしていただけると嬉しい。

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空き家問題をポジティブに考える

2014年10月21日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『空き家問題』牧野知弘著(祥伝社新書)と『「空き家」が蝕む日本』長嶋修著(ポプラ新書)を読んだ。まず隈研吾氏の新聞書評を紹介しよう。

(引用開始)

 2040年の日本では、10軒のうち4軒が空き家になるそうである。
 ショックである。少子高齢化とか出生率の低下というと、何かヒトゴトで抽象的な社会現象に思えて、リアリティがない。しかし「町に空き家が溢れる」と聞き、さらに、これが地方の過疎地だけの問題ではなく、東京も空き家だらけになるという科学的予想に接し、暗澹たる気分になった。読了して町を歩くと、空き家ばかりが目にはいってきて、東京が低層スラムにみえてきた。空き家率3割を超えると、途端に治安も悪化するらしいから、すぐ明日の話である。
 原因についての分析も興味深い。高度成長が終わり、少子高齢化の低成長時代に突入しているにもかかわらず、家を新築させることで、景気を浮揚させようという政策が慢性的に続いたこと。その政策に頼って収益をあげてきた民間企業も、政策に甘え、新しいライフスタイルに挑まなかった。この「戦後日本持ち家システム」とも呼ぶべきものがついに破綻を迎えつつあり、それが「空き家」という具体的な形で、僕らの目の前につきつけられたわけである。
 しかも、ここには戦後システムの劣化という直近の難題を越えた、深い問題が顔をのぞかせているようにも感じた。人にとって、本当に「家」というハコは必要なのかという大問題である。「家」という高価なハコを所有していれば、とりあえず一人前であり、「幸せ」であることになっていたけれど、その「幸せ」の実態は何だったのか。さらにその先には、「家」という器のベースである「家族」の必要性、家族形態のあり方はこれでいいのか。さらに深掘りすれば、人間が空間という曖昧で手のかかるものをそもそも私有できるのか。私有してどんないいことがあるのか。人類史の根本にまで、思考が到達せざるを得ないようなこわさがあった。

(引用終了)
<朝日新聞 9/7/2014、フリガナは省略>

今回はこの空き家問題を、「モノコト・シフト」と「経済の三層構造」の観点から、ポジティブに考えてみたい。

 モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、20世紀の大量生産システムと人のgreed(過剰な財欲と名声欲)による、「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方・考え方への関心の高まりを指す。「経済の三層構造」とは、「経済」=「自然の諸々の循環を含め、人間を養う社会の根本の理念・理法」という定義の下、

「コト経済」

a: 生命の営みそのもの
b: それ以外、人と外部との相互作用全般

「モノ経済」

a: 生活必需品
b: それ以外、商品の交通全般

「マネー経済」

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤
b: 利潤を生み出す会計システム

という形でその構造を区分したものだ。このブログでは、モノコト・シフトの時代、人々の関心は、経済三層a、b領域のうち、a領域(生命の営み、生活必需品、モノの循環)、そして「コト経済」(a、b両領域)に向かうものとしている。

 家とは器であり「モノ」であるから、当然、経済三層構造の中の「モノ経済」に属す。このうちa領域のための家は、生活必需品としての住まいなので人口が減っても必要だ。いま問題になっている「空き家」とは、そういった「モノ経済」a領域の家ではなく、それ以外、住人のいない家、相続しただけの家、セカンドハウスなどだから、「モノ経済」b領域の家である。これらの家は、モコト・シフトの観点からして、そのままではあまり関心が持たれなくなってくる。

 それではどうしたら良いか。書評に「家を新築させることで、景気を浮揚させようという政策が慢性的に続いたこと。その政策に頼って収益をあげてきた民間企業も、政策に甘え、新しいライフスタイルに挑まなかった」と描かれた「bureaucracy(官僚主義)」の排除は勿論必要だが、ビジネスとしては、モノコト・シフト時代への対応として、それらの家をできるだけ「モノ経済」a領域と、「コト経済」b領域へシフトさせることが求められる。

 『空き家問題』の第4章には、数々の処方箋が述べられている。詳しくは同書をお読みいただきたいが、ここで指摘したいのは、それらの処方箋、市街地再開発手法の応用、シェアハウスへの転用、減築という考え方、介護施設への転用、在宅看護と空き家の融合、お隣さんとの合体、3世代コミュニケーションの実現、地方百貨店の有効利用などが、どれも「モノ経済」b領域から、「モノ経済」a領域、「コト経済」b領域へのシフトであるということだ。複合型もあるから一概には言えないが敢て分ければ、

「モノ経済」a領域へのシフト:市街地再開発手法の応用、減築という考え方、介護施設への転用、在宅看護と空き家の融合、お隣さんとの合体

「コト経済」b領域へのシフト:シェアハウスへの転用、3世代コミュニケーションの実現、地方百貨店の有効利用

といったところか。

 この「モノ経済」aと「コト経済」b領域へのシフトという観点にフォーカスすれば、空き家の使い道はまだまだ考えられる。スモールビジネスとしては、とくに「コト経済」b領域へのシフトが有望だと思う。上の例とも被るが、スモール・ショップや地産地消の飲食店、小さな美術館、コンサート会場、図書館、各種イベント会場、共有セカンドハウスなどなど。つまり、「人と外部との相互作用全般」を司る場所という観点で空き家を考えれば、その用途は無尽蔵なのである。

 こういった目で町を歩けば「空き家ばかりが目にはいってくる」というよりも、最近いたるところに小さなショップやシェアハウスが出来はじめている、と気付くのではないだろうか。モノコト・シフトはすでに街角から始まっているのだ。皆さんが起業した会社、もしくは働いている会社がこういった分野に関わっているのであれば、是非この項を参考にして、増える空き家を活用していただきたい。

 尚、今回同様「モノコト・シフト」と「経済の三層構造」による分析手法で、ビール業界について考察した項もある(「ビール経済学」)。併せてお読みいただければ嬉しい。

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posted by 茂木賛 at 13:21 | Permalink | Comment(0) | 街づくり

D/A変換とA/D変換

2014年10月14日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 デジタルとアナログの話を続けたい。以前「脳は自然を模倣する」の項で、

(引用開始)

 人の脳は、目や耳から入ったデジタルな情報を、「意味」というアナログ情報に変換するが、これは、原子や分子を集めて「形態」を生成する自然界の模倣ではなかろうか。構造としてのデジタルと、機能としてのアナログ。

 世界の本質はデジタルだが、自然界は、ゆらぎによって形態を生み出し、多様な階層性を作り出してきた。弁証法は、自然界の「階層性」の模倣だった(生物の階層性については以前「階層性の生物学」の項で触れたことがある)。それと先程の「合目的性」。人の脳は、このように、自然の様々な力を模倣しながら、都市や文明を作り出してきたようだ。

(引用終了)

と書き、

「形態形成」=D/A変換
「階層性」=弁証法
「合目的性」=予測とコントロール

というアナロジーを記したが、この話と、先回の「デジタル回路とアナログ回路」の対比、

A、a系:デジタル回路思考主体
B、b系:アナログ回路思考主体

とは、どのように繋がるのだろうか。尚、D/A変換とは、デジタル情報からアナログ情報への変換のことを指す。

 まず、外部からの音や光といったデジタル情報は、人の脳に持続的に入力されることで、(自然が形態を生成するように)「一塊(かたまり)の意味のあるアナログ情報」にD/A変換される。これは、デジタル回路やアナログ回路以前、脳への信号入力段階の話だ。

 「一塊の意味のある情報」とは、たとえば、風のそよぎ、川のせせらぎ、星のひかり、といった形象を思い描けばよい。人は、そのアナログ変換された一塊に、心地よさ、切なさ、雄大さといった「文脈的な意味」を見出す。それが、先回の項でみた直感(脳のアナログ回路)の働きであり、それは世界をコトとして見ているわけだ。

 一方、風のそよぎ、川のせせらぎ、星のひかり、といった形象を、言葉や数字などのデジタル情報にA/D変換し計算するのが、脳のデジタル回路だ。風速何メートル、水の流体速度や揚力、光の速度と明るさの測定などなど。それは、世界をモノとして分析しているのである。

 その上で人は、「階層性」=弁証法に則って、このD/A変換とA/D変換のループを脳のなかで何度も回す。デジタル回路とアナログ回路の交互使用。男性性と女性性の相互作用。3の構造(頂点性・安定性・発展性)による螺旋状展開。そういう作業の果て、やがて人は、世界に新たな「意味」を見出す(発明・発見する)。この新たな意味の発明・発見は、おそらく、自然の「合目的性」と合致した法則下にあるものと思う。

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posted by 茂木賛 at 10:42 | Permalink | Comment(0) | 非線形科学

デジタル回路とアナログ回路

2014年10月07日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 『「無邪気な脳」で仕事をする』黒川伊保子・古森剛共著(ファーストプレス)という本を読んでいたら、「男性性と女性性」に関して、黒川さんの次のような指摘があった。

(引用開始)

黒川 そうなのです。脳のなかにはニューロン(生体細胞のなかで情報処理用に特別な分化を遂げた細胞)の連携をつかさどる軸索の長さによって、脳全体を使った直感に根ざした回路と、論理とか、空間認識をするような非常にメカニックな回路の二つが入っている。そして、誰でもその二つを使えます。前者が長い軸索の回路で、後者が短い軸索の回路です。便宜的にいえば、前者はアナログ回路で、後者はデジタル回路ということができます。
 ところで、女性と男性では脳梁の太さの違いによって、これらの回路を使う割合が異なります。女性のほうが全体回路、つまりアナログ回路のほうを頻繁に使うし、男性の場合は、どちらかといえば、短い軸索のデジタル回路をもっぱら使用して、直感に根ざした全体回路はときどき使うという特徴というか、違いがあります。

(引用終了)
<同書 44ページ>

脳には、その一部を使う論理的思考(デジタル回路)と、全体を使う直感的思考(アナログ回路)とがあり、男性性は主にデジタル回路思考、女性性は主にアナログ回路思考に表れるという指摘だ。

 複眼主義では、これまで、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き(大脳新皮質主体の思考)−「公(Public)」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き(大脳旧皮質及び脳幹主体の思考)−「私(Private)」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

という対比を論じてきたが、A、a系における大脳新皮質主体の思考は、その右脳の空間認識力や左脳の論理力を局所的に突き詰めて使うという意味でデジタル回路的であり、B、b系における大脳旧皮質及び脳幹主体の思考は、脳全体を感覚的に使うという意味でアナログ回路的であるから、

A、a系:デジタル回路思考主体
B、b系:アナログ回路思考主体

という特徴をここに追加措定しても良いかもしれない。改めて言うまでもないが、複眼主義における二項対比は、「どちらかというと」ということで、冗長性を前提としつつそれぞれの特徴を強調表示している。各項目に「主体」「的」「中心」「性」といった言葉が添えてあるのはそういう意味だ。この場合、A、a系がまったく身体の働きを必要としないという意味ではなく、またB、b系がまったく大脳新皮質を使わないという意味でもない。あくまでも「特徴的には」という意味で(これらの二項対比を)理解していただきたい。

 さて、人の脳に入ってくる外部からの情報は持続的だから、女性性の脳がアナログ回路的思考を主体とするということは、その情報をそのまま直感的に(増幅・減衰)処理するということであり、それは、入力と出力とが常に1対1対応する線形的なモノ的世界よりも、1対1対応しない非線形的なコト的世界を把握するのにより力を発揮すると思われる。

 そして、男性性の脳がデジタル回路的思考を主体とするということは、外部からの持続的情報を一旦止めてA/D変換し細分化するわけだから、世界を線形的なモノの集積として分析するのにより力を発揮するに違いない。

 このことは、「二つの透明性と複眼主義」や「同期現象」の項で措定した、

A、a系:世界をモノ(凍結した時空)の空間的集積体としてみる(線形科学)
B、b系:世界をコト(動いている時空)の入れ子構造としてみる(非線形科学)

という対比と整合してくる。

 そもそも、デジタルとアナログ、線形と非線形の特徴は、

デジタル=離散的
アナログ=連続的

線形=入力と出力がリニアに対応する(「1+1=2」)
非線形=入出力がリニアに対応しない(「1+1=1」もしくは「1+1=多数」)

ということで、ふたつは別次元の話だが、人の脳が世界をどう見るかという点において、

A、a系:デジタル回路思考主体
A、a系:世界をモノ(凍結した時空)の空間的集積体としてみる(線形科学)

B、b系:アナログ回路思考主体
B、b系:世界をコト(動いている時空)の入れ子構造としてみる(非線形科学)

といった連動性が見えてくるわけだ。複眼主義の「特質を様々な角度から関連付け、発展させていくこと」という考え方の面白い一例だと思う。

 ただし、複眼主義で度々論じているように、片方を突き詰めるだけでは総合的なバランスを逸してしまう。コト(動いている時空)の解明に、デジタル回路思考も必要なことは指摘するまでもない。もともと、ゆらぎや同期といった非線形的な現象は、自然のバイナリー・システムから生まれてくるのだから。

 これからも、デジタル回路とアナログ回路、脳の両方を十全に使って、モノコト・シフト時代の様々な形象(形態と現象)を考えたい。

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posted by 茂木賛 at 09:21 | Permalink | Comment(0) | 非線形科学

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