夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


助詞の研究 V 

2014年09月29日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 日本語の助詞「が」についてもうすこし追ってみよう。「助詞の研究 IV」の項では、「が」も「の」も、古くは所有、所属を示す助詞だったけれど、江戸時代以降、「が」だけが主格を表わす助詞としても使われるようになった、ということだった。なぜ「が」の方がそういう役割を担うようになったのか。

 『日本語で一番大事なもの』大野晋・丸谷才一共著(中公文庫)によると、「が」と「の」の違いは、「が」が主として内扱いにする人物につくのに対して、「の」は外扱いにする場合に使用されたところだという。「わが子」「山の端」といった感じだ。それでその後どうなったか。

(引用開始)

大野 このように、助詞「が」は本来、体言と体言の間に入るのが基本だったんですけれども、「が」と下の体言の間に動作を表わす動詞が入ってくるようになります。もともと「が」の上に体言は人物であることが多いものですから、それが動作の主体となって、「が」は下の動詞と結びつきやすい状態が生じました。この場合、動詞は下の体言につづくので連体形です。連体形は体言相当の資格があるので、「人物+が+動詞の連体形」という形式は「体言+が+体言」という「が」の使い方の基本の形に合致しているわけです。ところが一方で、前に係り結びのときにお話したように、係り結びが広く使われるようになって連体形終止が多くなり、それによってかえって連体形終止の価値が失われた。つまり、それによって連体形終止を特徴とする係り結びが分らなくなり、本来の終止形の終止よりも連体形終止という終止の仕方が一般化するようになったのです。すると、ここに見られる「人物+が+連体形」という形は連体形による終止の形と意識されるようになり、この形から、主語を表わす「が」を含む文、たとえば「花が咲く」のような形式が、終止できる形として一般化されてきたのです。つまり、「が」に限って、「私が見る」とか、「春が来た」という形は、江戸時代以降に一般化したのです。
 場所を表わす連体助詞であるという点では同じようなものであった「の」と「が」のうち、「の」は外扱いにする助詞だったので客観的な状態を言うのに使われて形容詞句を作り、もとの役割を保ったのにたいし、「が」のほうはそれが承ける人や物を内扱いする助詞で、人物を承けることが多かったので、その下の動詞の連体形といっしになって、「……がする」という動作を表わすことが多くなり、今日のように主格の助詞として使われるようになったと考えられます。

(引用終了)
<同書 294−295ページ>

言葉が時代に沿って流動・変化してゆく様がよく見える。この本を読むと他にもそういう例が沢山あって面白い。引用はしなかったけれど、例として短歌が多く載っているので分りやすい。興味のある方は是非お読みいただきたい。

 場所の内扱い、外扱いというのは、環境をさらに細かく内と外に分けるわけで、「環境中心」の日本語ならではの着想といえる。確かに今でも「わが子」「わが町」というのと「私の子」「私の町」というのではニュアンスに微妙な違いがある。前者は後者よりもより親密な感じだ。日本(語)人はこの微妙なニュアンスの違いを使いこなしながら、今も日々社会生活を送っているわけだ。

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助詞の研究 IV

2014年09月23日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 日本語の助詞の歴史についてここまで、

「は」の働き:問題の提起、場所や環境の提示(「助詞の研究」)
「の」「に」の働き:所有する物や所属する場所を示す(「助詞の研究 II」)
「ぞ」「か」「も」「が」:疑問詞を承ける(「助詞の研究 III」)
「なむ」「や」「こそ」「は」:疑問詞を承けない(「助詞の研究 III」)

と見てきたが、今回は「が」の働きについて考えてみたい。これまで同様、『日本語で一番大事なもの』大野晋・丸谷才一共著(中公文庫)から引用する。

(引用開始)

丸谷 ちょっと脱線の気味があるんですけれども、「が」という助詞は、昔あまり使われなかったんではないですか。「の」が使われたのでは……。
大野 「の」と「が」では使われ方に全く差がありました。助詞の中でいちばん多く使われたのは「の」で、使用頻度では「が」は十位までに入りませんでした。
丸谷 それで主格に使う「が」は、いつ頃から出てきたんですか。
大野 主格に使って、下がマルで切れるようになるのは一般的には江戸時代からです。今は「私が行く」と言いますけれども、もとは「我が行く」で切れることはなかった。「我が行く道」みたいに下に「道」のような名詞(体言)がこなければだめだったんです。「わが国」「君が代」みたいな使い方がいちばん古い使い方です。
丸谷 それは所有を表わすものですね。
大野 所有、所属を表わします。要するに「が」とか「の」とかは、名詞と名詞の間に入って、「が」の上の言葉は所属の場所を表わしたんです。(中略)
丸谷 すると、王朝和歌で主格を表わす助詞というのはないわけですか。
大野 日本語に主格を表わす専属の助詞はなかったんです。裸でよかったんです。「花美し」「山高し」とか、「花咲く」「われ行く」と言いました。動作の主体をきちっと表わす特別の助詞はありませんでした。「私が取る」のような言い方は、江戸時代になっておそらく主として関東から始まるんです。(中略)もともと関東では「が」をよく使っていたんです。「が」というのは、その上の人間が卑下するとか、その人間を蔑視するとかの場合に使うものだったんです。関東は関西から蔑視されていたし、関東人は卑下していたから、関西よりも一般的に「が」を多く使ったようです。
 それが主格を表現する助詞にどうしてなることができたかというと、いろいろな条件が絡み合っていたんですね。まず係り結びで「ぞ」「なむ」「や」「か」がきた場合に、倒置によって下の終結が連体形になったでしょう。その形がたくさん使われているうちに、倒置による強調ということが忘れられ、文末の連体形があたかも終止を兼ねる形のように受け取られ始めたんです。つまり古い連体形が終止の役目と連体の役目とを一つ形で兼ねるようになった。連体形は体言に相当する資格があって、名詞の代用をすることができますから、本来は名詞と名詞との間に入るはずだった「が」を「体言+が+名詞」の代わりに「体言+が+連体形」の形で使うことが可能となった。そこで「此のやうな事がある」などという表現が江戸時代に広まったんです。つまり「事がある」といえば、「事」は体言で、その下に「が」が来て、その下の「ある」が連体形で、つまり体言扱いになるから、これは「体言+が+体言」と同じ形だと意識されるようになったんです。これは室町時代にもないことはないけれども、およそ江戸時代以降のことです。それまでは、ゼロで主格を表わした。「事あり」とか「われ取る」と言ったんです。しかし、「われ取る」では、「われを取る」のか、「われが取る」のか、文脈によらなくては分らなかった。そこではっきりしようというわけで、「が」が入り込むようになったんです。

(引用終了)
<同書 200−202ページ>

長い引用になったが、ここでわかることは、「が」という助詞はもともと「の」や「に」と同じように所有、所属を示すものだったけれど、係り結びとの関連で、江戸時代以降、主格を表現する助詞としても使われるようになったということだ。「助詞の研究 II」の項で、

(引用開始)

大野 このように考えますと、「の」と「に」という助詞が、非常に古い時代には一元的にくっついていた時期があるという感じがします。そして次に「が」という助詞が出てきますと、さらに日本人の場所認識が、はっきりしてきたといえるんじゃないでしょうか。

(引用終了)
<同書 282ページ>

とあるのは、主格助詞として以前の、所有、所属を示す「が」の役割について言っているわけだ。

 今の日本語で「私が」「私が」というと、相手にあまり良い顔をされないのは、「が」を主格助詞として使っていても、そこに昔の所有的ニュアンス(さらには卑下や蔑視といったニュアンス)が残っているからかもしれない。「は」は問題の提示であり、「が」も由来を辿ると所有、所属を示す助詞だったということは、どちらも、純粋に主格を表現するにはそぐわないということになる。以前「議論のための日本語 II」の項で、存在のbeを「!」記号を使い、

I think, therefore, I amは、「私は考える、だから私!。」
Chances areは「チャンス!。」
Let it beは「そのまま!。」

と訳してみてはどうかと書いたけれど、助詞の「は」も「が」も使わないこの方法はなかなかいい線なのではないだろうか。

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posted by 茂木賛 at 10:09 | Permalink | Comment(0) | 言葉について

同期現象

2014年09月16日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 2008年に「相転移と同期現象」の項で、『非線形科学』蔵本由紀著(集英社新書)を紹介したが、最近、同じ著者による『非線形科学 同期する世界』(集英社新書)という本が出版された。これは前著にもあった「同期現象」について、様々な例をとってさらに詳しく説明したものだ。

 同期現象とは、リズムとリズムが出会い、互いに相手を認識したかのように歩調を合わせてリズムを刻みはじめることで、シンクロ現象ともいう。蔵本氏はこの本の中で、ホイヘンスの二つの振り子、リズムを揃えるメトロノーム、同相同期と逆相同期、ミレニアム・ブリッジの騒動、ホタルの見事な光のコーラス、振動子ネットワークとしての電力供給網、生理現象としての同期、自律分散システムと同期などなど、様々な分野における「同期現象」を紹介し、物理や化学、生物学などの研究領域が同じ土俵に乗る「非線形科学」の重要性を説く。

 非線形科学とは、「全体が部分の総和としては理解できない」いわゆる非線形現象を追う研究であり、「全体が部分の総和として理解できる」線形現象を扱うために磨きをかけられてきた数々の手法では、容易に歯が立たない(同書8−10ページ)。

 このブログでは、21世紀は「モノ(凍結した時空)の空間的集積」よりも「コト(動いている時空)の入れ子構造」を大切に考える、いわゆる「モノコト・シフト」の時代だと述べているが、「モノ」の集積は線形的であり、「コト」の相互作用は非線形的な現象だ。「相転移と同期現象」の項の最後に、

(引用開始)

 非線形科学とは、「生きた自然に格別の関心を寄せる数理的な科学」(『非線形科学』18ページ)といわれる。「1+1=2」というのが線形的な、比例法則の基本的考え方だとすれば、「1+1=1」、もしくは「1+1=多数」というのが非線形的な考え方である。ビジネスも人という「生きた自然」を相手にしているのだから、このような「数理的な科学」が必要なのだ。今後も、非線形科学のビジネスへの応用についていろいろと考えていこう。

(引用終了)

と記したのは、今から思えば「モノコト・シフト」の予見だったわけだ。「モノコト・シフト」の時代には「非線形科学」の重要性が増す。

 世界を「モノの空間的集積」としてみるか、「コトの入れ子構造」としてみるか。物理・生物・化学それぞれの科学分野で、いま前者から後者へ大きなシフトが起っている。『非線形科学 同期する世界』の「おわりに」から引用しよう。

(引用開始)

 分析に分析を重ね、世界を成り立たせている基本要素や基本要因を探り当て、ひるがえってそこから世界を再構成しようとするのが科学的精神の基本だと、私たちはいつの頃から思いこまされるようになったのでしょうか。もちろん、この科学的精神のおそるべき力を私たち身にしみて知っています。諸科学もこの基本戦略にしたがって自然のしくみを暴き、コントロールしようとしてきました。確かに、それは大成功でした。しかし、ここに来て、人々は疑いと不安を感じはじめているように見えます。ほんとうに「分解し、総合する」という基本戦略によってこの複雑な現象世界を理解し、末永くそれと共存することが可能なのかと。それのみではとらえがたい、自然の重要な反面があるのではないでしょうか。この基本戦略にとって不得意な数々の問題に単に目をつぶり、輝かしい成果だけを誇ってきたというのが事実ではないでしょうか。しかも、成果だけでなく災厄もともなって。
「分解し、統合する」一辺倒ではない科学のありかたが可能なことは、もっと広く知られてよいと思います。それは分解することによって見失われる貴重なものをいつくしむような科学です。ひとたび分解してしまえば、総合によって貴重なものを回復することはまず不可能なことだと心得るべきです。むしろ、複雑世界を複雑世界としてそのまま認めた上で、そこに潜む構造の数々を発見し、それらをていねいに調べていくことで、世界はどんなに豊かに見えてくることでしょうか。それによって活気づけられた知は、どれほど大きな価値を社会にもたらすことでしょう。今世紀の科学への最大の希望を、著者はこの方向に託しています。

(引用終了)
<同書 238−240ページ>

 ところで、この本のカバー帯に“驚異の現象「同期(シンクロ)」の謎を解く”とあるが、蔵本氏はあまり結論を急がない。様々な同期現象を並列的に語ってゆく。前項「助詞の研究 III」の最後に、「環境を中心にして物事を考えるとそこから見える現象に捉えられて事柄の本質を見失ってしまう、とはいえあまり性急に結論を出すのも考えものではある」と書いたけれど、この匙加減はなかなか難しい。複眼主義でいう、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心

のバランスだ。非線形科学のような複雑系の研究には、結論を急がない日本語の「環境中心性」の特色がうまく生かされる(こういった分野は日本人に向いている)ように感じる。先日「二つの透明性と複眼主義」の項で、

(引用開始)

モノとコトを複眼主義的に再定義してみると、

A、a系: 世界をモノ(凍結した時空)の空間的集積体としてみる
B、b系: 世界をコト(動いている時空)の入れ子構造としてみる

という大きな絵柄を描くことができそうだ。

(引用終了)

と書いたことと話が繋がってくる。

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助詞の研究 III

2014年09月09日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 『日本語で一番大事なもの』大野晋・丸谷才一共著(中公文庫)には、「係り結び」についても詳しい分析がある。

 係り結びとは、ある分節が係助詞によって条件付けされた場合、述語の最後尾部分が呼応して特定の活用形に決まるという法則で、第一ファミリーとして「ぞ」「か」「なむ」「や」、第二として「こそ」、第三ファミリーとして「は」「も」がある。それぞれ「強調」、「逆説」、「判断」という条件付けを司る。第一ファミリーは、述語の最後尾部分が連体形で終わる。第二は已然形で終わり、第三の場合は終止形で終わる。

 国語学者大野晋はこの本の中で、それぞれの係り結びを、その構造と来歴からさらに次のように分類する。

<疑問詞を承ける>
承ける語の扱い方:不確実・未知・新情報

「ぞ」:本来は終助詞。倒置によって係助詞の位置に立つようになった。新情報として提示し、教示・強調する。連体形終止。
「か」:本来は終助詞。倒置によって係助詞の位置に立つようになった。判断不能を表示する。連体形終止。
「も」:個と個を対比して提題。その下は否定不確定性判断が多い。終止形終止。

<疑問詞を承けない>
承ける語の扱い方:確実・既知・旧情報

「なむ」:本来は終助詞。倒置によって係助詞の位置に立つようになった。内心の確信を示す。連体形終止。
「や」:本来は終助詞。倒置によって係助詞の位置に立つようになった。話し手の確信、あるいは見込みを表明して相手に問う。連体形終止。
「こそ」:衆から個を選抜して提題。已然形と呼応して、逆説確定条件を形成した。後に強調的終止。
「は」:個と個を対比して提題。その下は肯定・否定・推量など何でもよい。明確な判断。

係り結びという複雑な法則がきれいに二つ(疑問詞を承ける・承けない)に分類され、三つのファミリーのそれぞれが、この二つの分類の下に、異なる条件付けの役割を負って並ぶ。

 詳しくは本書をお読みいただきたいが、この「疑問詞を承ける・承けない」という係り結びの二分類は、そもそも助詞「は」と「が」の「疑問詞を承ける・承けない」と繋がっているらしい(「は」は疑問詞を承けない、「が」は疑問詞を承ける)。「誰が」とはいうが「誰は」とは普通言わない。係り結びそのものは近代日本語からは消えてしまったけれど、生き残った助詞は、その古い名残を今も継続しているわけだ。とても面白い分析だと思う。

 ところで、「助詞の研究」の項で「は」の役割、「助詞の研究 II」の項で「の」の役割について見、そのどちらにおいても、日本語がいかに「環境中心」の言語であるかということを示してきたが、この本『日本語で一番大事なもの』の係り結びに関する話のなかでも、そのことに言及した部分があるので引用しておきたい。

(引用開始)

大野 日本は、明治時代以来、たとえばイギリスから機関車を買って来て運転の仕方習うとか、技師を連れてきて橋を架けるとかして、そのうちに見様見真似で、機関車をつくったり、橋を架けたりできるようになってきた。ところが、日本語の場合には、あいにく英語やフランス語、ドイツ語と、その言語構造が本質的に違うんです。だから、自分の目で母国語と外国語とを見くらべ、その現象を通して本質的に違うところを見抜くことが必要なんです。しかし、日本人は、この現象の本質を見抜くことをきらうんですね。「こういうことがありました。次にこういうことがありました、そしてこうなりました」という、「ありました」形態で事を続けていくのが好きなんです。
丸谷 横へ横へと並列的に並べるだけで、本質をつきとめようとはしない……。
大野 ですから、係り結びという場合でも、「ぞ」「なむ」「や」「か」がきたら連体形で結ぶ、「こそ」がきたら已然形で結ぶという、現象を述べるだけなんです。

(引用終了)
<同書 91−92ページ>

環境を中心にして、すなわち、与えられた場所や起った事柄に身を寄せてそこからの視点(だけ)で物事を考えると、そこから見える現象に捉えられて、場所や事柄本来の構造、来歴を見失ってしまう。横へ横へと現象が並列的に並ぶだけで、いつまでたっても本質が見極められない。

 とはいえ、あまり性急に結論を出すのも考えものではある。これからも助詞の研究等を通して、さらに深く日本語の本質に迫りたい。

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posted by 茂木賛 at 09:29 | Permalink | Comment(0) | 言葉について

ビール経済学

2014年09月02日 [ 各種データ ]@sanmotegiをフォローする

 この夏も猛暑で皆さんの中には大いにビールのお世話になった人も多いと思うが、今回は、ビールを通して、「モノ経済」と「コト経済」について考えてみたい。まずは「朝日新聞グローブ」から引用する(グラフや他の記事は割愛)。

(引用開始)

二極化するビール

 ビールは世界で一番飲まれている酒だ。英シェフィールド大学のデイビット・グリッグ教授の論文によると、1997〜99年時点で、世界の酒消費量(重さ単位)の8割近くがビールだった。アルコール量だけで比べても、世界の消費の3分の1はビールによるものだ。
 世界全体の生産量は1975年から2012年にかけて2.4倍に増えた(G-2面グラフ参照)。人口一人当たりでも4割近い伸びだ。
 大まかな傾向として、ある国が経済成長し、一人当たりの所得が伸びるにつれビールの消費量も増えていく。おうせいな需要を満たすのは、大手メーカーによって大量生産されるビールが中心だ。ところがドイツや日本のように、ある時点から消費が頭打ちになり、高齢化や人口減に伴い、減り始める国もある。
 そこで起きているのがいわば「二つの二極化」だ。一つの軸は、新興国と先進国。ビール消費量世界一の中国や、下の記事にあるベトナムのように、勢いのある新興市場に先進国のブランドが押し寄せ、激しい競争を繰り広げる。G-5面でみるように、国境を越えた企業の買収・再編や系列化も進み、ビール業界は上位5社が世界市場の約半分を押える寡占状態になっている。
 もう一つは左の記事でみたような、先進国内での二極化だ。効率的な生産で低価格を売りにする大手メーカーと、独自性を強調するクラフトビール。1994年をピークに消費が減り始めた日本では、税制の影響もあって値段の安い「発泡酒」や「第3のビール」の開発競争が激しくなり、ビール系飲料の半分を占めるようになった。一方で、地ビールに再び注目が集まり、メーカーは200社を超えた。個性的なビールを飲ませる店も増えている。
 ビールの飲み方、飲まれ方は、経済や社会の変化を如実に映し出している。

(引用終了)
<同新聞 6/15/2014>

ということで、ビール経済において「二つの二極化」が起っているという。今回はこれを「経済の三層構造」、

「コト経済」

a: 生命の営みそのもの
b: それ以外、人と外部との相互作用全般

「モノ経済」

a: 生活必需品
b: それ以外、商品の交通全般

「マネー経済」

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤
b: 利潤を生み出す会計システム

と、「モノコト・シフト」から読み解いてみよう。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、20世紀の大量生産システムと人のgreed(過剰な財欲と名声欲)による、「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方・考え方への関心の高まりを指す。

 以前「21世紀の文明様式」の項で、

(引用開始)

 西欧近代文明の時空は(地球規模ではあるが)一様ではない。「モノコト・シフト」の進んでいる地域もあれば、そうでない地域もある。進んでいる階層もあれば、そうでない階層もある。その中で、いち早く「モノ経済」が飽和状態に達したいまの日本(の多くの地域と階層)は、モノコト・シフトの最前線に立っているのではないだろうか。人口も減り大量生産・輸送・消費システムを増強する必要もない。だから日本は、この新しい思考の枠組みに移行しやすい筈だ。

(引用終了)

と書いた。クラフトビールは、大量生産されるビールと違い、作り手と飲ませる店、それと飲み手の距離が近く、三者の気持ちが相互作用する「コト経済」bに属している。日本で個性的なビールを飲ませる店が増えていることは、日本でモノコト・シフトが起っている証左といえるだろう。

 一方、大量生産されるビールは、作り手と飲ませる店、飲み手の距離が遠く、それぞれが商品交通だけで繋がる「モノ経済」bに属している。先進国ブランドの大量生産ビールが押し寄せているということは、新興国ではモノコト・シフトがまだあまり進んでいないということだ。そう遠くない将来それらの国にモノコト・シフトの波が押し寄せると、日本のように個性的なビールを飲ませる店が増えるだろう。

 勿論、日本にも大量生産されるビールはある。しかしモノコト・シフトが進んでいるこの国では、そういったビールにおいても、高級な「プレミアムビール」、上の記事にもある値段の安い「発泡酒」や「第3のビール」、さらには「ノン・アルコールビール」といった多様な商品が開発生産され、それぞれにおいて独自の物語性を訴求する(「コト経済」bに近づく)努力がなされている。

 JALの雑誌「アゴラ」7月号を読んでいたら、ハワイ島のクラフトビールのことが書いてあった。ハワイでもモノコト・シフトが大分進んでいるのだろう。信州の情報誌「KURA」7月号には、軽井沢高原ビールの広告記事があった。

 さて、このビール経済における「二つの二極化」現象、ビール以外の様々な嗜好品にも当て嵌まる法則だと思われる。たとえば珈琲(コーヒー)、たとえば音楽・美術、例えばおしゃれ用品、例えばパッケージ旅行、たとえば観光ホテル・旅館、などなど。皆さんが起業した会社、もしくは働いている会社がそういった分野に関わっているのであれば、是非この「ビール経済学」を参考にして、戦略を立ててみていただきたい。所得の伸びと経済発展を短絡的に結びつけないように。

 珈琲の「コト経済」については、以前「コーヒーハンター」の項で書いたことがある。併せてお読みいただければ嬉しい。

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