夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


助詞の研究 II

2014年08月26日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「助詞の研究」の項で、『日本語で一番大事なもの』大野晋・丸谷才一共著(中公文庫)という本を紹介しながら、「は」という助詞を通して、環境(場所や事柄)中心の日本語的発想について考えたが、今回も引き続き、今度は「の」や「に」の研究を通して、日本語の場所感覚がいかに発達しているかについて見てみたい。同書から引用する。

(引用開始)

大野 目的格をあらわす「を」なんていう助詞は、あったってなくたっていいのです。日本人は、目的語を言うときには、目的語だぞということを明示しない。「水飲んだか」「飯食ったか」でいいので、「水を飲んだか」「飯を食ったか」などとは言わないでしょう。実は、「を」という助詞は後世になって、といっても平安時代から多く使われるようになったようで、もともとあまり使わなかったんです。それから、「花咲く」「月出づ」でよかった。前に言いましたように、日本語ではもともと動作の主体を明確にあらわす助詞はなかったのです。ところが、「に」だけは非常にはっきりしていますし、「の」という助詞も使われることが多かったんですね。「の」と「に」が圧倒的に使用度数が多い助詞です。たとえば『源氏物語』のなかで使われている助詞の中で、いちばん多いのは「の」です。多い順に言いますと、「の」「に」「も」「て」「を」「と」「は」「ば」「や」の順です。
丸谷 「も」がそんなに多いんですか。
大野 『源氏物語』に「も」が多いのは、万事、物事は不確かだと捉えているということですね。「も」は不確定・不確実を示す助詞でしたから。それで、「の」と「に」の使用頻度が多いということは、日本人は内・外の場所感覚が非常に強く、場所的にものをとらえるということです。内とか外とかという場所についてはっきりした意識をもっていて、それをあらわす助詞は必ずはっきりつけるというわけです。その代わり、「誰がするか」という「人」を示す主格助詞は発達が非常に遅かったんです。

(引用終了)
<同書 281−282ページ>

大野は続けて、「が」という主格助詞が発達すると、日本人の場所的認識はさらにはっきりしてきたという。

(引用開始)

大野 このように考えますと、「の」と「に」という助詞が、非常に古い時代には一元的にくっついていた時期があるという感じがします。そして次に「が」という助詞が出てきますと、さらに日本人の場所認識が、はっきりしてきたといえるんじゃないでしょうか。

(引用終了)
<同書 282ページ>

 日本語は、今でも、「の」と「に」に強く拘った、環境(場所や事柄)中心・優先の言葉だとつくづく思う。「が」と並んで主格助詞のようにみえる「は」が、実は環境を提示するための助詞であることは前項で見たとおり。

 日本人は、環境に共感し、あるいは反撥するのは得意だが、環境を俯瞰してその是非を論ずるのは苦手だ。漱石の「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」という考えは今でも充分通用する。

 上に「も」の話がでてきたところで「発音体感」と「筆蝕体感」のことを思い出した。「も」という発音の「包み込むような柔らかさ」、「も」と書いたときの複雑な筆蝕、これらは「も」が不確定・不確実を示す助詞であることを体感させる。「発音体感」と「筆蝕体感」それに「意味の変遷」。これらの関係性も助詞研究の面白いテーマに違いない。

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助詞の研究

2014年08月19日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 以前「議論のための日本語 II」の項で、『話し言葉の日本語』井上ひさし・平田オリザ共著(新潮文庫)という本を紹介し、そこにある「議論のための日本語」に関する井上のことばを紹介したが、この本には、日本語における助詞について(同じく井上の)次のような指摘がある。

(引用開始)

井上 時枝文法では、助詞は表現される事柄に対する話し手の立場の表現だといっていますね。たとえば甲という少年が勉強している、乙も丙も勉強しているとします。そうすると、甲につく助詞によって意味が変わってくるという。
「甲は勉強している」
「甲が勉強している」
「甲も勉強している」
「甲でも勉強している」
「甲だけ勉強している」
「甲まで勉強している」
とかいろいろあるわけです。僕はこれを最初に読んだときは感動しましたね(笑)。時枝さんの説は、助詞に関しては非常に正確な定義だと思うんですけど、そのへんから平田さんのせりふは始まっている。たとえば、
「私は、あなたを、愛します」
 という主語+述語というせりふは日本語ではあまり言わないで、むしろ、
「わかる?」「……好きだよ
 とか言う。簡単にいうとそれが口語ではないかと。つまり、現代口語演劇というのは大変なネーミングですが、名詞、動詞を外し、むしろ、いままで「おまけ的」扱いに思われていた付属語を重要視する。実際、そうした付属語が、普通の日本人の普通の会話のなかで主役を演じているのではないかというのが、平田さんの日本語論のひとつなわけです。

(引用終了)
<同書 54−55ページ>

日本語においては、助詞(や助動詞)の果たす役割がとても大きいという指摘だが、助詞(や助動詞)について、その歴史的変遷も含め縦横に論じたのが、『日本語で一番大事なもの』大野晋・丸谷才一共著(中公文庫)という本だ。

 この『日本語で一番大事なもの』という対談本の中に、「主格の助詞はなかった」という章がある。複眼主義では、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

という対比を掲げ、日本語は、英語のような「主格中心」の発想よりも、「環境中心」の発想が基本であると論じてきたが、助詞の研究からもそのことが言えるようなので、以下引用したい。

(引用開始)

丸谷 中学校のときの国文法では、係り結びといえば、「ぞ」「なむ」「か」「や」「こそ」だけで、「は」「も」が係りの助詞だなんてことは教わりませんでした。それで、「は」はなんとなく主格の助詞だと思っていたわけですね。ですから最近の国文法で、「は」「も」が係助詞になっていると聞いてびっくりしていたんですが、今度勉強して、なるほどそうなのかな、という気になってきたところです。(中略)「は」が主格の助詞だとわれわれが漠然と思っていたのは、あれは英文法の影響なんでしょうか。
大野 そうですね。明治時代から後に、英文法をもとにして、大槻文彦が日本語の文法を組み立てた。そのときに、ヨーロッパでは文を作るとき主語を必ず立てる。そこで「文には主語と述語が必要」と決めた。そこで、日本語では主語を示すのに「は」を使う、と考えたのです。ヨーロッパにあるものは日本にもなくてはぐあいが悪いというわけで、無理にいろんなものをあてはめた。(中略)
丸谷 つまりヨーロッパ風の意味では、日本語には主語というものがない。それを、「文」である以上なければおかしいというのでむりやりこしらえたんですね。(中略)

(引用終了)
<同書 186−187ページ>

ということで、大野によれば、日本語の助詞「は」は、その上にくる言葉をそれが話題であること提示し、下に答えを求める形式であるという。

(引用開始)

大野 要するに古来日本では、「は」の上にくる言葉(その表す物体でも、性質でも、何でも)は話題になって出てくる。これは目的語でもいい。たとえば「(ワインの)白は好きじゃない」というと「白」は目的語ですね。それから「アメリカは行ったことがない」「ヨーロッパは行ったことがある」という場合は、「アメリカには行ったことがない」「ヨーロッパには行ったことがある」ということで、「は」は場所格です。だから「は」は、動作の主をいう主格だとか、処分の対象をいう目的格だとか、あるいは場所格だとかいった、格には特別の限定はないいんです。「白は」というと、それは一種の問題提起なんで、その問題に何か答えなければならない。「飲みます」とか、「飲みません」とか、「好きです」とか、「嫌いです」とか。だから「は」は「は」の上の言葉(「は」の指す実態)を問題として提起し、下に答えを求める形式なんです。これが「は」の根本なんです。

(引用終了)
<同書 194−195ページ、傍点省略>

というわけだ。明治以降、英文法をもとにして「文には主語と述語が必要」と決め、日本語では主語を示すのに「は」を使うとしたけれど、それは日本語の実態とはかけ離れた卓上の空論だった。

 日本(語)人は今も、様々な助詞(や助動詞)を使いながら、提示される事柄(環境)に対する話し手の立場を表現し続ける。「近代西欧語のすすめ」の項で述べたように、近代日本語は、日常会話のみならず公的議論においても、その発想が「環境中心」のままなのだ。

 この『日本語で一番大事なもの』という本には、これ以外、係り結びや已然形、「かも」と「けり」、「か」と「や」、「ぞ」と「が」などなど、助詞に関する様々な研究成果が語られている。日本語を支えるいろいろな助詞(や助動詞)の役割について、これからもこの本を繰り返し読んで理解を深めたい。

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書評文化

2014年08月12日 [ 書店の力 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「虚の透明性とモダニズム文学」の項で紹介した作家丸谷才一(本名根村才一)は、自身多くの書評を執筆するとともに、毎日新聞社の書評欄「今週の本棚」の充実を図ったことで知られる。書評は本の紹介として役立つばかりではなく、社会の文化水準を示すというのが氏の考え方だった。今回は、その考え方のエッセンスを「書評文化」と題して紹介してみたい。

 『ロンドンで本を読む』丸谷才一篇著(マガジンハウス)にある、氏の「イギリス書評の藝と風格について」という文章(前書き)から引用しよう。冒頭の「そんな事情」とは、イギリスの雑誌ジャーナリズム事情のこと。

(引用開始)

 そんな事情で読まれる記事だから、書評はまず本の紹介であった。どういふことがどんな具合に書いてあるかを上手に伝達し、それを読めば問題の新著を読まなくてもいちおう何とか社会に伍してゆけるのでなくちやならない。(中略)
 紹介に次に大事なのは、評価といふ機能である。つまり、この本は読むに値するかどうか。それについての諸評価の判断を、読者のほうでは、掲載紙の格式や傾向、諸評価の信用度などを参照しながら、受入れたり受入れなかったりするわけだ。(中略)
 そして書評家を花やかな存在にするのは、まず文章の魅力のゆゑである。イーヴリン・ウォーの新聞雑誌への寄稿は、流暢で優雅で個性のある文章のせいで圧倒的な人気を博したと言はれるが、この三つの美質(流暢、優雅、個性)は、たとへウォーほどではなくても、一応の書評家ならばかならず備えているものだらう。(中略)
 しかし紹介とか評価とかよりももつと次元の高い機能もある。それは対象である新刊本をきつかけにして見識と趣味を披露し、知性を刺激し、あはよくば生きる力を更新することである。つまり批評性。読者は、究極的にはその批評の有無によってこの書評者が信用できるかどうかを判断するのだ。この場合一冊の新刊書をひもといて文明の動向を占ひ、一人の著者の資質と力量を判定しながら世界を眺望するといふ、話の構への大きさが要求されるのは当然だらう。

<同書 6−9ページ>

ここで丸谷は、本の紹介、本の評価、文章力、批評性の四つを書評の基準として挙げているわけだが、特に最後の「批評性」は、前回の項で挙げた氏の作品の特徴、

1.古典に新たな光を当てようとする(源氏物語や忠臣蔵など)
2.言葉への拘り(旧仮名や多彩なレトリックの使用)
3.社会のあり方への提言(社交や挨拶の重視、書評やエッセイの執筆)

の中の3.と直結する指摘・要請だ。

 評論家の湯川豊氏は、丸谷才一のこの前書きについて、『書物の達人 丸谷才一』菅野昭正・編(集英社新書)の中で次のように書いている。

(引用開始)

「イギリス書評の藝と風格について」は、日本の書評家たちのかっこうな指南書であるとともに、丸谷さんが、イギリスの書評のどこに心ひかれていたのかを、おのずから明らかにしてもいます。
 ジョン・レイモンドというジャーナリスト批評家の書評を格別に愛好し、それを読むことで、「社会に背を向けずに本を読むイギリス人の生き方を知つた」と書いています。丸谷さんの持論、たびたび引用した「書評といふジャーナリズムこそ社会と文学とを具体的に結びつけるもの」という思想が、レイモンドの評価のすぐ後ろにつづいているのは、いうまでもありません。
 丸谷さんはまた、シリル・コナリーという批評家が書いた書評にふれて、次のようにいいます。
「これならば、クロスワード・パズルに飽きて何の気なしに書評欄を覗いた旅行者に、列車それとも飛行機から降りたらすぐ本屋へゆかうと決意させることができる。書評といふのは、このやうな、藝と内容、見識と趣味による誘惑者の作品でなければならない」(「書評と『週刊朝日』」)
 丸谷さんの書評論はすべて、読者の存在が強く意識されているのですが、ここでも私たちはその一例に出会うのです。おそらくそれは、文学が社会から遠く離れて存在しているのではない、社会のなかでふつうの人びとに読まれてはじめて存在しうるのだ、という丸谷才一の文学観に深いところで結びついていることなのです。
 また別のところでの、次のような発言もあります(「本好きの共同体のために」)。
 書評はもともと孤独な作品ではない。著者、訳者、編者、編集者、批評家、読者などが形づくる読書共同体があってはじめて成立する読物なのである。上質な共同体がしっかりと存在しているとき、書評というものが同時に文明批評となることができる。

(引用終了)
<同書 92−94ページ>

丸谷は「社会のあり方への提言としての書評文化」といったものを理想と考えていたわけだ。書評というものを、これほどはっきり社会と関連付けて定義した人は(日本では)今までいなかったのではないか。

 このブログでもこれまで多くの本を紹介してきた。これからも四つの基準を念頭に筆を磨いてゆこうと思う。丸谷才一の書評の纏まったものとしては、

『快楽としての読書[海外篇]』(ちくま文庫)
『快楽としての読書[日本篇]』(ちくま文庫)
『快楽としてのミステリー』(ちくま文庫)

の3冊がさしあたり手近だ。丸谷の書評を読みながら、日本社会や文明の行く末などについていろいろと考えを巡らせたい([海外篇]の最後、「書評のカノン」と題した解説文のなかで、仏文学者鹿島茂氏も「イギリス書評の藝と風格について」を引用している)。

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虚の透明性とモダニズム文学

2014年08月02日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 先日「虚の透明性」の項で、隈研吾氏は評論家吉田健一のいう「たそがれとしての近代」と近代建築の「虚の透明性」とを重ね合わせた、と書き、隈氏の著書『僕の場所』から、

(引用開始)

 「虚の透明性」という概念は、僕にとって腑に落ちるものでした。それは「近代=モダン」という時代の根底にある、重要な概念です。「たそがれ」の時代には、すべてが重なって見えるのです。ロウはその意味で、僕が目指す「たそがれ」の時代の建築の姿を暗示してくれた、大切な恩人です。
 現在の中に過去があり、現在の中に未来がある。自分の中にも他人があり、他人の中にも自分がいる。そのような重層性こそが、「近代=モダン」という「たそがれ」の時代の本質です。(中略)
 過去と現在が重層し、近くと遠くのものが重層する状態こそが、「近代=モダン」という時代のすべての領域に共通する特質なのです。

(引用終了)
<同書 190−191ページ>

という文章を引用したが、吉田健一の主張を継いだ作家丸谷才一(本名根村才一)は、モダニズム文学について、その著書『樹液そして果実』(集英社)の中で、次のように書いている。

(引用開始)

 一体にモダニズムについて考えるときには、時間というふもの、歴史といふものが重要な装置となります。今がすぐ今でなくなるやうに、現代はやがて現代でなくなる。しかしさういふ、時間につきもののうつろいやすさ、はかなさのなかに、特異な美の形、詩情がある。花やかさ、華奢で贅沢な趣がある。これは日本的な美の感じ方の特徴でもあるのですが、さう言へば平安朝の日本語には「今めかし」といふ言葉があって、これは、(1)現代的である、(2)花やかである、の両義を持つてゐました。そこで「モデルニテ」はいつそ「今めかしさ」と訳せば一番いいかもしれません。(中略)
 一方、今を気にかけることは昔を意識させるし、現代を楽しむことは古代を思ひ出させる。そこで新しさと伝統とがかへつて結びつく。歴史は平凡に退屈に流れていくものではなくつて、現代を過去との関係に緊張関係が起り、冒険の意欲が生じる。「歴史というのは、ぼくがなんとか目を覚ましたい思っている悪夢なんです」と『ユリシーズ』のなかでスティーヴン・ディーダラスは言ふ。古典主義が前衛を生む。

(引用終了)
<同書 212−213ページ、フリガナ省略>

モダニズム文学は、今を大切にするが故に、かえって歴史や伝統、神話や社会のあり方といったものを重要に考え、それに新たな光を当てようとする(新たな見かたを与えようとする)わけだ。そういえば、丸谷の作品にはそういった特徴が多く見出される。

1.古典に新たな光を当てようとする(源氏物語や忠臣蔵など)
2.言葉への拘り(旧仮名や多彩なレトリックの使用)
3.社会のあり方への提言(社交や挨拶の重視、書評やエッセイの執筆)

 丸谷才一は2012年に亡くなった。その後『丸谷才一』(文藝別冊、河出書房新社)や『書物の達人 丸谷才一』菅野昭正編(集英社新書)なども出て、氏の文学の評価は高い。しかしなぜか、彼のあとを継ぎ、旧仮名でレトリックに富んだ文章を書く人はあまり居ないようだ。

 幸い丸谷才一は、その拘り抜いた日本語で、数多くの小説やエッセイ、評論や書評を書いているから、それらを読み返しながら、氏の「虚の透明性」に富んだ世界を愉しむとしよう。後期の小説『輝く日の宮』について、作家阿刀田高氏が書いた文章がある。

(引用開始)

 丸谷才一『輝く日の宮』(講談社文庫)とタイトルを見ただけで、「えっ、本当。すごい」と胸を弾ませる人もいるだろう。知る人ぞ知る、出色のテーマである。しかも碩学・丸谷才一が綴っているのだ。
 もとはと言えば『源氏物語』だ。日本文学の金字塔だが、どのくらい読まれているのだろうか。現代語訳で須磨・明石くらいまで……。あるいは「桐壺」だけ読んだなあ」。書名しか知らない人も多い。
 が、それはともかく、この「源氏物語」は天下の名作ながら、ちょっと不思議なところがある。第一帖の『桐壺』と第二帖の「帚木」と、二つのあいだのつながりがヘンテコなのだ。うまくつながっていない。つながりがわるいばかりか、このあたりで当然説明しておかなければ、あとで困ってしまうような……前に説明しておいてくれなければ、「なんでこんなことが急に起るの」と読者に疑念を抱かせるような構造になっているのだ。名作として大きな瑕、そう言えなくもない。
 そこでここには……第一帖と第二帖とのあいだには『輝く日の宮』という一帖があったのではないか、と古来、言われているのだが、学説としては否定されている。完全否定。散逸があったわけでもないらしい。
 でもね、学者がいくら否定しても読めば読むほど『輝く日の宮』の存在を信じたくなってしまう。実在していた、と願いたくなる。
 そこへ丸谷才一が切り込んだとなると、これは相当におもしろかろう。
 私は数年前、四六版で出版されたときに瞥見していたのだが、書店の店頭で文庫本のあるのを見つけて購入、長旅のつれづれに読みふけった。
 ペダンチック。でも凄い。存在しなかったと言われる『輝く日の宮』を想像することは『源氏物語』の成立やストーリー展開を深く理解することに通じる。それだけでもお得用だが、最後に研究者を越えた……つまり小説家である丸谷のみごとなイマジネーションが用意されていて、ミステリー小説の趣さえある。だから種あかしは控えるが、私は熟読、興奮、大満足、優れた奇書と思った。

(引用終了)
<毎日新聞 9/1/2013、フリガナ省略>

気に入った作品なので紹介文を引用しておいた。手軽な文庫だから皆さんも手にしてみてはいかがだろう。文庫でもきちんと旧仮名のままにしてあるところが佳い。永井荷風や三島由紀夫などの小説は、単行本は旧仮名でも文庫では新仮名づかいに変換してあって興ざめだが、丸谷才一は生前それを良しとしなかったようだ。

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