前回「助詞の研究」の項で、『日本語で一番大事なもの』大野晋・丸谷才一共著(中公文庫)という本を紹介しながら、「は」という助詞を通して、環境(場所や事柄)中心の日本語的発想について考えたが、今回も引き続き、今度は「の」や「に」の研究を通して、日本語の場所感覚がいかに発達しているかについて見てみたい。同書から引用する。
(引用開始)
大野 目的格をあらわす「を」なんていう助詞は、あったってなくたっていいのです。日本人は、目的語を言うときには、目的語だぞということを明示しない。「水飲んだか」「飯食ったか」でいいので、「水を飲んだか」「飯を食ったか」などとは言わないでしょう。実は、「を」という助詞は後世になって、といっても平安時代から多く使われるようになったようで、もともとあまり使わなかったんです。それから、「花咲く」「月出づ」でよかった。前に言いましたように、日本語ではもともと動作の主体を明確にあらわす助詞はなかったのです。ところが、「に」だけは非常にはっきりしていますし、「の」という助詞も使われることが多かったんですね。「の」と「に」が圧倒的に使用度数が多い助詞です。たとえば『源氏物語』のなかで使われている助詞の中で、いちばん多いのは「の」です。多い順に言いますと、「の」「に」「も」「て」「を」「と」「は」「ば」「や」の順です。
丸谷 「も」がそんなに多いんですか。
大野 『源氏物語』に「も」が多いのは、万事、物事は不確かだと捉えているということですね。「も」は不確定・不確実を示す助詞でしたから。それで、「の」と「に」の使用頻度が多いということは、日本人は内・外の場所感覚が非常に強く、場所的にものをとらえるということです。内とか外とかという場所についてはっきりした意識をもっていて、それをあらわす助詞は必ずはっきりつけるというわけです。その代わり、「誰がするか」という「人」を示す主格助詞は発達が非常に遅かったんです。
(引用終了)
<同書 281−282ページ>
大野は続けて、「が」という主格助詞が発達すると、日本人の場所的認識はさらにはっきりしてきたという。
(引用開始)
大野 このように考えますと、「の」と「に」という助詞が、非常に古い時代には一元的にくっついていた時期があるという感じがします。そして次に「が」という助詞が出てきますと、さらに日本人の場所認識が、はっきりしてきたといえるんじゃないでしょうか。
(引用終了)
<同書 282ページ>
日本語は、今でも、「の」と「に」に強く拘った、環境(場所や事柄)中心・優先の言葉だとつくづく思う。「が」と並んで主格助詞のようにみえる「は」が、実は環境を提示するための助詞であることは前項で見たとおり。
日本人は、環境に共感し、あるいは反撥するのは得意だが、環境を俯瞰してその是非を論ずるのは苦手だ。漱石の「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」という考えは今でも充分通用する。
上に「も」の話がでてきたところで「発音体感」と「筆蝕体感」のことを思い出した。「も」という発音の「包み込むような柔らかさ」、「も」と書いたときの複雑な筆蝕、これらは「も」が不確定・不確実を示す助詞であることを体感させる。「発音体感」と「筆蝕体感」それに「意味の変遷」。これらの関係性も助詞研究の面白いテーマに違いない。