夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


志向の様式

2014年06月24日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「ヤンキーとオタク II」の項で、

(引用開始)

認識と欲望の形式には、初歩的で純粋な段階からグロテスクな最終段階まで、様々な傾向(様式)があると考えられる。芸術様式などでよく使われる「アルカイック→クラシック→マニエリスム→バロック→グロテスク」という流れをそれに当て嵌めて考えると、ヤンキー・オタク文化の度合いが掴みやすいと思う。

(引用終了)

と書いたけれど、この様式(変化)についての説明が不足していたかもしれない。

 これは、ルネッサンス期の技法説明などに用いられるセオリーで、芸術運動は概ね、

アルカイック:初歩的で、古拙的。
クラシック:円熟して、古典的。
マニエリスム:形式的で、技巧的。
バロック:歪んだ真珠のようなスタイル。
グロテスク:異様で、怪奇的。

といった流れに沿って、発展・終結するとされる。

 この様式・形態変化は、芸術ばかりではなく、あらゆる「時空」の変化に当て嵌まるだろう、というのが私の考えだ。スケールの大・小・長・短は問わない。星の一生、会社、レストランの味、流行、建築様式などなど。認知や思考による「志向」(人が追及する認識と欲望の形式)もその例外ではない筈である。

 思考は学習によって深まってゆく。「志向」におけるアルカイックからクラシックへのポジティブな変容を支えるのは、そういった学習効果である。しかし、以前「自分の殻を破る」の項で纏めたように、認知や思考は、

<内的要因>

体全体:病気・疲労・五欲
脳(大脳新皮質)の働き領域:無知・誤解・思考の癖(くせ)
身体(大脳旧皮質・脳幹)の働き領域:感情(陽性感情と陰性感情)
−陽性感情(愛情・楽しみ・嬉しさ・幸福感・心地よさ・強気など)
−陰性感情(怒りと憎しみ・苦しみ・悲しさ・恐怖感・痛さ・弱気など)

<外的要因>

自然的要因:災害や紛争・言語や宗教・その時代のパラダイム
人工的要因:greedとbureaucracyによる騙しのテクニック各種
(greedとは人の過剰な財欲と名声欲、bureaucracyとは官僚主義)

によって、常に歪みを生ずるリスクを抱えている。クラシック段階に達した「志向」は、気をつけないとやがて歪み、マニエリスムからバロック、そしてグロテスクな段階へと変容してゆく。

 マニエリスムからバロックまではまだ良い(味わいが継続している)が、グロテスク段階に至ると、その人の「志向」は誰からも相手にされなくなってしまうだろう。だから、興味の横展開などによって自分の関心分野を広げ、思考をつねに新規にしてゆくことが求められるわけだ。

 「思考を常に新規にしてゆく」のはそれほど難しいことではない。複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−男性性

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−女性性

に則って、A、a系とB、b系との間を行ったりきたりしながら思考を展開してゆけば宜しい。

 川に流れに例えれば、自分の舟(思考)を操りながら、あるときは橋の上から俯瞰し、あるときは流れの渦に巻き込まれるようにして、ゆっくりと下ってゆく感じだ。「橋の上から俯瞰する」ことがA、a系の発想で、「流れの渦に巻き込まれるようにして」というのがB、b系であることはお分かりいただけると思う。この比喩は「現場のビジネス英語“Resource PlanningとProcess Technology”」の項でも引用したことがある。そこには他の比喩もあるから読むと参考になるかもしれない。

 川を下るのに慌てる必要はない。支流を見つけたらそちらへ行くも良し、行かぬも良し。途中風景を楽しみながら、まわりの舟とも会話しながら、ゆっくりと下ってゆく。橋の上から別の川を見つけたらそっちへ移ってもよい。そうこうして、川が変わる、あるいは同じ川でも流れが変われば(自分の殻を破れば)、あなたの「志向」は、ふたたびアルカイック状態に戻るだろう。そのとき、あなたの舟(思考)は、以前より一回り大きくなっているはずだ。

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ヤンキーとオタク II 

2014年06月17日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

<公と私論>

 先日「ヤンキーとオタク」の項で、

(引用開始)

 「出自と志向」による分析によって、さらに屈折した人の精神パターン、特定の分野にフォーカスした行動分析や、志向の様式変化追跡(アルカイック→クラシック→マニエリスム→バロック→グロテスク)なども可能になると思われる。また項を改めて論じてみたい。

(引用終了)

と書いたが、まず「屈折した人の精神パターン」について説明してみよう。ヤンキーやオタクについては、先日の項をお読みいただきたい。

 建築家や経営者など、集団を束ねる仕事の人や、作家や役者など、仕事で個性を際立たせたい人は、自分の出自とは反対の性性を自家薬籠中の物とした上で、意図的に、ヤンキー、あるいはオタク的キャラクターを演じようとする場合がある。キャラを際立たせることで仕事がやり易くなるからだ。前者にはヤンキー的な人が多く、後者にオタク的な人が多いのではないか(勿論その逆もあるだろう)。

 たとえば建築家の隈研吾氏は、出自としては男性性が強いにもかかわらず、女性性を自家薬籠中の物にした上で、建築家・経営者としてヤンキー文化を志向するという「ひねり」を加えているように見受けられる。『ヤンキー化する日本』での斉藤環氏との対談や、「モダニズムからヤンキーへ」という歌舞伎座設計始末記(『新建築』5/2013号)を読むとそう感じられる。

「出自」→「ひねり」→「志向」

男性性 → 女性性 → 男性性

というパターンである。昔ソニーの盛田昭夫氏が「経営者はネアカでなければならない」と言ったが、それも同じようなパターンだと思う。

 次に「特定の分野にフォーカスした行動分析」について。以前「認知の歪みとシステムの自己増幅」の項で、認知の歪み(思考の歪み)は精神的自立を阻害すると述べ、「認知の歪みを誘発する要因」の項で、人は認知の歪みから完全に自由であることは出来ないと述べたが、全般的にはバランスが取れていても、特定の分野にフォーカスすると、人は(自分でも気付かないうちに)けっこう思考の歪みに陥っていることがある。噂話を耳にしたとき、酒に酔ったとき、自分が詳しくない分野の新聞記事を読んだとき、スポーツを観戦しているときなどなど。そういう時、本来はバランスが取れた人格者が突如キャラの立った態度に出ることがある。

 たとえば、運転席に着いた人が急にヤンキー的態度を取ることがある。それは車の運転という特定の行動において、その人の脳に、下に記したようなさまざまな認知の歪みが発生するからだろう。

二分割思考(all-or-nothing thinking)
過度の一般化(overgeneralization)
心のフィルター(mental filter)
マイナス思考(disqualifying the positive)
結論への飛躍(jumping to conclusions)
拡大解釈と過小評価(magnification and minimization)
感性的決め付け(emotional reasoning)
教義的思考(should statements)
レッテル貼り(labeling and mislabeling)
個人化(personalization)

「こんなところに路駐するなバカヤロ!」「歩行者信号はとっくに赤だぞ!」などなど。皆さんも経験があるのではないか。私にも覚えがある。小さな認知の歪みは大したことではないが、それが積もり積もるとやがて行動が間違った方向へズレてしまうから気をつけたい。

 最後に「志向の様式変化追跡」とは何か。認識と欲望の形式には、初歩的で純粋な段階からグロテスクな最終段階まで、様々な傾向(様式)があると考えられる。芸術様式などでよく使われる「アルカイック→クラシック→マニエリスム→バロック→グロテスク」という流れをそれに当て嵌めて考えると、ヤンキー・オタク文化の度合いが掴みやすいと思う。「彼のヤンキー度はもうバロック的だな」「彼女はクラシカルな山オタクだね」などなど。

 これを逆に言うと、ある特定の事柄(issue)に固執したヤンキー・オタク文化は、やがて形式主義的(マンネリ)になり、最後にはグロテスクな色合いを帯びるから、人は、いつも新しいことにチャレンジしていないと駄目だということでもある。このことは、ヤンキーやオタクに限らず、バランスよく男性性・女性性を志向しようとする一般の人にも当て嵌まると思う。自分の関心分野を広げる(「興味の横展開」を続ける)ことで、常に気持ちを若々しく保っていただきたい。

 ついでに、以前「6つのパーソナリティ」の項でみたパーソナリティ・タイプ(性格の要素)を短く纏め、それに男性性・女性性要素も加えた上で表にしておこう。

リアクター:感情・フィーリングを重要視する人。(女性性)
ワーカホリック:思考・論理、合理性を重要視する人。(男性性)
パシスター:自分の価値観や信念に基づいて行動する人。(男性性)
ドリーマー:内省、創造性に生きる静かな人。(女性性)
プロモーター:行動の人。チャレンジ精神が旺盛。(男性性)
レベル:反応・ユーモアの人。好きか嫌いかという反応重視。(女性性)

自分が志向したい性格や文化の参考になると思う。

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posted by 茂木賛 at 09:32 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

近代西欧語のすすめ

2014年06月10日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 「レトリックについて」および「レトリックについて II」の項で、レトリックとは、公的な文章表現において論旨を上手く伝えていくための技術・型であること、近代日本語は明治以降の「漢文脈からの離脱」と「言文一致」によってレトリックをあまり使わないようになってしまい、その結果今の日本人の公的な思考そのものが、総じて散文的で写実性で説明するだけのものになってしまったこと、について述べてきた。

 また前回「ヤンキーとオタク」の項で、近代社会では個人の精神的自立が必要だが、日本人の多くは日本語の特性もあって、その自立を果たしていないと書いた。ここでいう「日本語の特性」とはレトリックばかりを指すのではない。「議論のための日本語」や「議論のための日本語 II」などで述べてきた日本語の「環境依存性」をも含めた、包括的な話だ。

 近代日本語の「環境依存性」は、言文一致運動によって、もともとプライベートで自然環境依存的だった「和語」に公的文章が全面的に寄りかかったため、公的思考にも和語の影響が広がったものと考えられる。和語は自然音をベースとした母音語であり、与えられた自然環境を中心に置いた「なる」「入る」構文がその基本である。「そうなる」「山に入る」などなど。良くいえばシンプルで柔軟だ。言文一致運動が、話し言葉である「和語」に寄りかかるのは当然といえば当然だが、それが「漢文脈からの離脱」と並行していたため、明治以降の近代日本語は、レトリックもなにも全て「和語」の構造の元に展開されるようになってしまった。ここが重要なポイントだと思う。それまでの日本語は、公的文章にはもっと複雑な漢文脈が使われていたのである。 

 「公(Public)」における「なる」「入る」構造の文章は、人工的組織をも、あたかも自然物のように勘違いさせる危険性を帯びている。だから気を付けなければならない。会社や国家などにおける規則や法律には、それを決めた主体(取締役会や議会)があるのだが、「その規則(法律)は今日からこうなりました」と書かれると、あたかも自然の力が働いてそう変わったかのように錯覚してしまう。「○○会社に入社しました」というと、契約によってその組織で働くようになっただけなのに、なぜか会社との一体感が生まれ、やがて「巨人軍は永久に不滅です!」といった気持ちにまでなってしまう。この辺のことは、「いつのまにかそうなっている」と「現在地にあなたはいない」の項で、作家片岡義男氏の本を参考にしながら敷衍したことがある。

 これからの日本語において、レトリックを強化すると同時に、言葉の環境依存性に対しても自覚的であるためには、近代西欧語を勉強することが役に立つと思う。「社交のための言葉」や「レトリックについて」の項でその文章を引用した作家丸谷才一氏は、『文章読本』(中公新書)のなかで、

(引用開始)

厭がられるのを承知の上で思ひきつて書きつけると、近代西欧語のうち何か一つをいちおう勉強すること。これはずいぶん面倒な話だが、われわれが対応しなければならない現実の性格から言つて、仕方がないことなのだ。

(引用終了)
<同書 354ページ>

と書いておられる。以前私も「バイリンガルについて」の項で、

(引用開始)

 バイリンガルであれば、このブログで見てきた、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心

という対比がよく実感できるのではないだろうか。

(引用終了)

と書いた。バイリンガルならずとも、英語などの西欧語を勉強すれば、言葉の階層性や、精神的自立の基にある「存在のbe」について理解が深まる筈だ。それはまた、日本語のレトリック強化にも繋がるに違いない。

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posted by 茂木賛 at 08:43 | Permalink | Comment(0) | 言葉について

ヤンキーとオタク

2014年06月03日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『ヤンキー化する日本』斉藤環著(角川oneテーマ21)という面白い本を読んだ。カバー帯表には「この国は“気合い(だけ)”で動いてる」とある。まずその内容を新聞の書評から紹介しよう。

(引用開始)

 「ヤンキー」は今の日本の傾向を理解するのに必須のキーワードだが、どれくらい認知されているだろう。定義は明快――バッドセンス、キャラとコミュニケーション、アゲアゲのノリと気合い、リアリズムとロマンティシズム、角栄的リアリズム、ポエムな美意識と“女性”性。
 このフィルターにひっかかる社会現象が世に溢(あふ)れている。安倍政権はまんまヤンキーだ。「ノリと気合い」でなんとかなると思って靖国神社に参拝し憲法を変えようとしている。ヤンキーは現実的な難関を精神の力で越えられると信じてしまう。それは「個人対個人ではありえたとしても、戦争においてはありえない」と斉藤氏は言う。
 前著『世界が土曜の夜の夢なら』に始まったヤンキー解析が、本書では六人の相手との対談に展開される。そのメンバーが村上隆、溝口敦、デーブ・スペクター、與那覇潤、海猫沢めろん、隈研吾。あまりに広範囲なヤンキー文化の浸透ぶりに目まいがするほど。
 ヤンキーに対抗するのはオタク。深いが狭く、細部ばかりにこだわる不器用な性格。それでは、知識人とはつまり知識オタクなのか。

(引用終了)
<毎日新聞 4/13/2014>

ここにある『世界が土曜の夜の夢なら』(角川書店、2012年)という本で、斉藤氏は、日本の様々なポップカルチャーを分析し、

ヤンキー文化=女性原理のもとで追求される男性性
オタク文化=男性原理のもとで追及される女性性

という原理を抽出した。そして、今の日本には「ヤンキー文化」が蔓延していると論じた。

 斉藤氏は、その前の『関係する女 所有する男』(講談社現代新書、2009年)の中で、男性性と女性性について、

男性性:「所有原理」「空間重視」
女性性:「関係原理」「時間重視」

という「認識および欲望の形式」を指摘している。これは複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−男性性

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−女性性

と整合する(「男性性と女性性 II」の項参照のこと)。

 従って、日本人(日本語的発想をする人)にヤンキーが多くて不思議はないという話になるが、新鮮なのは、『世界が土曜の夜の夢なら』において、斉藤氏が人の「出自」と「志向」とを分けて社会を分析したことだろう。

 ここでいう「出自」「志向」は私の言葉。出自とはその人がもともと持っている認識と欲望の形式を指し、志向とは、その人が追求する認識と欲望の形式を指す。ヤンキーはアゲアゲのノリと気合いで動くから、一見男性的だが、出自を辿るとその精神は案外女性的なのだ、というのが(出自と志向による)斉藤氏の分析である。

 「人は自分と反対の(あるいは同じ)性性を求める」というはたらき・運動(「出自」→「志向」)に注目したのが氏の着眼の面白さだと思う。

「出自」→「志向」

男性性 → 女性性 (オタク)
女性性 → 男性性 (ヤンキー)

このことで、「出自」と「志向」との間にいくつかのパターンを読み取ることが可能になり、社会分析がより緻密にできるようになった。動きのあるダイナミックな見方ができるようになった。たとえば次のようなパターンもあるのではないか。

「出自」→「志向」

男性性 → 男性性 
女性性 → 女性性 

これは「自分と同じ性性を求める」ということで、前者は男性性による「所有原理」「空間重視」の徹底追求型であり、後者は女性性による「関係原理」「時間重視」の徹底追求型である。前者を「マッチョ」、後者を「フェミニン」とでも名付けようか。

 「出自と志向」による分析によって、さらに屈折した人の精神パターン、特定の分野にフォーカスした行動分析や、志向の様式変化追跡(アルカイック→クラシック→マニエリスム→バロック→グロテスク)なども可能になると思われる。また項を改めて論じてみたい。

 さて、紹介文にある「個人対個人ではありえたとしても、戦争においてはありえない」とはどういうことか。斉藤氏は、ヤンキー文化は「気合い」で何でも乗り越えられるとするけれど、それは戦争や経営といった「合理的判断」を必要とする局面においては通用しないと述べている。そして合理的判断ができるようにするには、そこでヤンキー文化を一旦分離・切断する必要があると述べる。

(引用開始)

斉藤 日本的な行動主義はなぜかヤンキー主義に帰結してしまう。そこが問題ということなんでしょうね。最大の切断は「公共」概念とセットで個人主義を再インストールすること、と私は言い続けてきましたが、TPPの導入や移民受け入れのような「痛み」なしには難しいかもしれません。とはいえ私も「切断」実現のために、「気合い」抜きで説得を続けたいと思います(笑)。

(引用終了)
<同書 178ページ>

 近代社会では、「公(Public)」にとって大切なのは「個の精神的自立」である。このことはこのブログで繰り返し述べてきた(「自立と共生」の項など)。「合理的判断」とは、複眼主義でいうところのA、a系、Resource Planning(資源分配)そのものだ。伝統的社会においては、「公(Public)」は「権威(原理や組織)」に拠って運営されていたから、合理的判断を司るA、a系(男性性)において「個の精神的自立」は必ずしも必要とされなかった。族長の判断によって集団の公的行事が運営されていた。しかし、近代社会のルールにおいては、そこに「個の精神的自立」がインストールできていないと、人は、外の権威(原理や組織)に簡単に騙されてしまう。斉藤氏のいう「痛み」である。70年前、多くの日本人が無謀な戦争に巻き込まれていったのがその例だ。

 残念ながら日本人は、言葉の特性もあって、精神的自立を果たしていない人がまだ多い。日本的ヤンキーが志向する男性性は、外の権威に弱い。それでは戦前と同じことになる。だから斉藤氏は、最大の切断は「公共」概念とセットで個人主義を再インストールすること、と語っておられるのだろう。

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posted by 茂木賛 at 10:22 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

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