前回「レトリックについて」の項で、レトリックとは公的な文章表現において論旨を上手く伝えていくための技術・型であり、ビジネス文章でも大切な要素であると書いたけれど、総じて、明治以来の近代日本語は、レトリックを使わなくなった。特に、対句や反復、修辞的疑問(反語)などの言い回しは、小説などにおいてもほとんど見なくなった。それは何故なのか。今回は、近代日本語においてレトリックが衰退した経緯について考えてみたい。
『日本語のミッシング・リンク』今野真二著(新潮選書)を読むと、「漢字平仮名交じり文」という今の書き言葉は、明治以降の「漢文脈からの離脱」と「言文一致」という、二つの流れが結びついてできたことがわかる。明治以降の日本は、漢文を減らし平仮名を増やすことと、わかりやすい口語文で書くことを推進してきたわけだが、この二つは相互に深く結びついていた。同書から引用しよう。
(引用開始)
「日本語を仮名で書く」ということは、原理的には「書き方」についてのことがらであるはずであっても、そのことと「言文一致」とは結びつきやすい。さらにいえば、表裏一体ものであったともいえよう。「言文一致」の進行にともなって、書きことばから漢語は減り、漢字も減ったとみることができるし、あるいは書きことばから漢語・漢字を減らすことで、「言文一致」が進行していったとみることもできる。いずれにしても、「漢文脈からの離脱」と「言文一致」とは深く結びついていたと考える。
(引用終了)
<同書 249−250ページ>
「漢文脈からの離脱」と「言文一致」、どちらも近代化を急ぐ明治の政策と合致した動きだった。それは「言葉の効率化」だったといってもいいだろう。日本語からレトリックが失われた(あまり使われなくなった)のは、この過程にあると思われる。
レトリックは、公的な文章において論旨を上手く伝えていくための技術だから、長年公的文章を支えてきた漢文脈から離脱すれば、当然その技術は使えなくなる。言文一致は、話しことばと書きことばを一致させようということだ。話し言葉は基本的に私的なものだから、話すように書けば、当然公的性が損なわれる。漢文脈からの離脱によって「対句」などが、言文一致によって「反復」などのレトリックが使われなくなった。
確かに「漢文脈からの離脱」は、家制度・身分制度からの解放を促し、「言文一致」はことばの伝達効率を高めただろう。しかし、レトリックが失われた結果、今の日本語文の多くは、散文的な写実性で説明するだけのものになった。前回引用した『文章読本』のなかで、丸谷才一氏は(日本では様式が嫌われるとした上で)次のように述べている。
(引用開始)
それゆゑ近代日本の文章はとかく地味なものになりがちで、派手な言ひまわし、趣向のある表現、綾に富んだ言葉は何かにつけてしりぞけられた。まづ雅文系および漢文系のレトリックがすこしづつ嫌われだし(これが明治大正)、次に西洋ふうのレトリックがうわべだけほんの少ししか取り入れられず(これが昭和)、そして最後に和漢のそれぞれが決定的に放逐されて(これが戦後)、かうして、よく言へば率直で完結、悪く言へば味も素気(そっけ)もない言葉づかいがはびこることになつたのが、この百年のレトリックの歴史だった。
(引用終了)
<同書 373−374ページ>
明治・大正・昭和という時代変遷のなかで、レトリックは少しずつしかし確実に失われていったわけだ。
言葉は思考の道具である。レトリックがあまり使われなくなった結果、今の日本人の公的な思考そのものが、総じて、散文的で写実性で説明するだけのものになってしまったといったら言い過ぎだろうか。いまでも、強い怒り、深い感動、晴れ晴れとした気持ちなどは、よく文語調で言い表される。「弁償せよ!」「風立ちぬ」「絶景かな!」などなど。これは、そのことを逆から証明しているように思う。