夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


レトリックについて II 

2014年05月27日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「レトリックについて」の項で、レトリックとは公的な文章表現において論旨を上手く伝えていくための技術・型であり、ビジネス文章でも大切な要素であると書いたけれど、総じて、明治以来の近代日本語は、レトリックを使わなくなった。特に、対句や反復、修辞的疑問(反語)などの言い回しは、小説などにおいてもほとんど見なくなった。それは何故なのか。今回は、近代日本語においてレトリックが衰退した経緯について考えてみたい。

 『日本語のミッシング・リンク』今野真二著(新潮選書)を読むと、「漢字平仮名交じり文」という今の書き言葉は、明治以降の「漢文脈からの離脱」と「言文一致」という、二つの流れが結びついてできたことがわかる。明治以降の日本は、漢文を減らし平仮名を増やすことと、わかりやすい口語文で書くことを推進してきたわけだが、この二つは相互に深く結びついていた。同書から引用しよう。

(引用開始)

「日本語を仮名で書く」ということは、原理的には「書き方」についてのことがらであるはずであっても、そのことと「言文一致」とは結びつきやすい。さらにいえば、表裏一体ものであったともいえよう。「言文一致」の進行にともなって、書きことばから漢語は減り、漢字も減ったとみることができるし、あるいは書きことばから漢語・漢字を減らすことで、「言文一致」が進行していったとみることもできる。いずれにしても、「漢文脈からの離脱」と「言文一致」とは深く結びついていたと考える。

(引用終了)
<同書 249−250ページ>

 「漢文脈からの離脱」と「言文一致」、どちらも近代化を急ぐ明治の政策と合致した動きだった。それは「言葉の効率化」だったといってもいいだろう。日本語からレトリックが失われた(あまり使われなくなった)のは、この過程にあると思われる。

 レトリックは、公的な文章において論旨を上手く伝えていくための技術だから、長年公的文章を支えてきた漢文脈から離脱すれば、当然その技術は使えなくなる。言文一致は、話しことばと書きことばを一致させようということだ。話し言葉は基本的に私的なものだから、話すように書けば、当然公的性が損なわれる。漢文脈からの離脱によって「対句」などが、言文一致によって「反復」などのレトリックが使われなくなった。

 確かに「漢文脈からの離脱」は、家制度・身分制度からの解放を促し、「言文一致」はことばの伝達効率を高めただろう。しかし、レトリックが失われた結果、今の日本語文の多くは、散文的な写実性で説明するだけのものになった。前回引用した『文章読本』のなかで、丸谷才一氏は(日本では様式が嫌われるとした上で)次のように述べている。

(引用開始)

 それゆゑ近代日本の文章はとかく地味なものになりがちで、派手な言ひまわし、趣向のある表現、綾に富んだ言葉は何かにつけてしりぞけられた。まづ雅文系および漢文系のレトリックがすこしづつ嫌われだし(これが明治大正)、次に西洋ふうのレトリックがうわべだけほんの少ししか取り入れられず(これが昭和)、そして最後に和漢のそれぞれが決定的に放逐されて(これが戦後)、かうして、よく言へば率直で完結、悪く言へば味も素気(そっけ)もない言葉づかいがはびこることになつたのが、この百年のレトリックの歴史だった。

(引用終了)
<同書 373−374ページ>

明治・大正・昭和という時代変遷のなかで、レトリックは少しずつしかし確実に失われていったわけだ。

 言葉は思考の道具である。レトリックがあまり使われなくなった結果、今の日本人の公的な思考そのものが、総じて、散文的で写実性で説明するだけのものになってしまったといったら言い過ぎだろうか。いまでも、強い怒り、深い感動、晴れ晴れとした気持ちなどは、よく文語調で言い表される。「弁償せよ!」「風立ちぬ」「絶景かな!」などなど。これは、そのことを逆から証明しているように思う。

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レトリックについて

2014年05月20日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 先日「社交のための言葉」の項で、社交について考えるために、作家丸谷才一氏の挨拶についての本を紹介したが、今回は、氏の『思考のレッスン』(文春文庫)と『文章読本』(中公文庫)によって、言葉のレトリック(言いまわしの型)について考えてみたい。

 社交のための挨拶が主に話し言葉によるものだったのに対して、レトリックは、主に書き言葉(文章)に関することだ。まずは『思考のレッスン』から、レトリックとは何かについて引用しよう。

(引用開始)

 レトリックというと、日本ではなんだかうさん臭いものと考えられているでしょう。西洋でもそういうところはあって、「レトリックにすぎない」とか、「レトリックの細工師」とか、軽蔑的に使われることが多いようですね。東洋でも、「文章は小枝なり」といった言い方がある。
 それはレトリックをロジック抜きで考えるからなんですね。くだらないことをにぎやかに言うのがレトリックだと思われがちだけれど、本来レトリックとは、ロジックと手を携えて、論旨を上手に伝えていくための技術なんです。その相関的な関係が大事なんです。

(引用終了)
<同書 256−257ページ>

ということで、レトリックとは、文章において「論旨を上手に伝えていくための技術」であることをまず理解したい。

 それでは、丸谷氏の『文章読本』によって、レトリックの項目を見てゆこう。その前に、同書によってレトリックのもう一つの基本を押えておく。

(引用開始)

 レトリックの基本となるものは、大きく構へた、派手好みの、芝居がかった、つまり公的な表現である。さりげない、渋く抑へた、内々(うちうち)の、つまり私的な表現ではない。

(引用終了)
<同書 225ページ>

社交の挨拶も公的な営みだったが、レトリックも勝れて公的なものである。

 では具体的に見てゆこう。『文章読本』の第九章「文体とレトリック」から、順番に列記する。

隠喩(メタファー):AはBである、というかたちのもの。
直喩(シミリー):AはBのようだ、というかたち(隠喩の直接性を緩めたもの)。
擬人法(プロソポピーア):抽象概念や物に人間のような性質を与えたもの。
迂言法(ペリフラシス):言葉数を多く使って遠まわしに言う技法。
代称(ケニング):何度も話題にのぼるものを別の言葉で婉曲に言う。
頭韻(アリタレイション):綺麗は汚い、汚いは綺麗、といった反復表現。
畳語法(エピジュークシス):同音語をつづけて強調するもの。
首句反復(アナフォーラ):文首・句首の同一語をくりかえすもの。
結句反復(エピフォーラ):文尾に同じ語句をくりかえして印象を強める。
前辞反復(アナディプロシス)前の文中の最後の言葉を次の文で繰り返す。
対句(アンティセシス):二つのものを互いに対比させて表現する。
連辞省略(アシンデント):節や句を接続詞抜きでつなぐ技法。
誇張法(ハイパーボリ):ものごとを誇張して表現する。
緩叙法(マイオウシス):ものごとを控えめに表現する。
曲言法(ライトウティーズ):反対語を否定して強い肯定をあらわす技法。
修辞的疑問(レトリカル・クエスチョン):漢文でいうところの反語。
換喩(メトニミー):事物をその属性をもって言い表す。
撞着語法(オクシモロン):矛盾する語を二つ結びつけて真理を差し出す。
擬声語・擬態語(オノマトピーア):描写するものの声や動作を音声で表現。
諺・パロディ・洒落(パン):文章の効果を高めるために使う。

 ふう〜、全部で20項目もあった(!)。それぞれの具体的な例については、直接『文章読本』に当たっていただきたい。『野火』(大岡昇平著)を綿密に読み込んだ、丸谷氏の行き届いた解説が楽しめる。

 レトリックとは、公的な文章表現において、論旨を上手く伝えていくための技術・型である。ビジネス文章やキャッチ・コピーでも、上手なレトリックを使えば、説得力や躍動感のあるものが書ける筈だ。社交の挨拶同様、レトリックについても良く学び、日本語表現を鍛えようではないか。

 尚、比喩については、日本語の特徴を論じた「容器の比喩と擬人の比喩」「容器の比喩と擬人の比喩 II」の項なども参考にしていただきたい。

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posted by 茂木賛 at 13:13 | Permalink | Comment(0) | 言葉について

モノと物質主義

2014年05月13日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 『養老孟司の大言論 III 大切なことは言葉にならない』養老孟司著(新潮文庫)は、養老孟司の大言論シリーズ最終巻だ。ここでは、言語や宗教の問題を、主観・客観・現実感といった言葉や、物質主義、生物多様性や採算性、インドやチベット、台湾への旅行などを通して考える内容となっている。

 この本では、「科学と宗教と文明」の章にある「モノ」と「物質主義」の話が興味深い。その部分を引用しよう。

(引用開始)

 モノの定義はすでにしたことがある。一つの対象が五感のすべてで捉えられるとき、それをモノと呼ぶ。その意味では、音も光も、夕焼けも空もモノではない。では「物質主義」というときの物質とはなにか。
 物質とは、よく考えられた翻訳語である。勿論それは右に定義したモノではない。それに「質」が加わっている。物質主義の言語はmaterialismで、マテリアルは素材、材質といった意味である。感覚中心に世界を見れば、机は人工物である。しかし素材は木材で、木材は自然物である。欧米文化では、その素材に注目するから、感覚と概念の間で世界を切断する考え方は、ふつうはとらないのだと思う。つまり「机は人工物だろ」というところで話が切れない。素材に注目する限り、「机は自然物だろ」となってしまう。イスラム世界でもこれは同じである。私のところにいたイランからの留学生は、机を指して「材料は自然物です」とはっきりいった。
 材質に注目するなら、都市という「人工」世界もまた、自然と同じ「材質」で作られている。そういう世界の住人が、日本文化のように、「自然そのままを大切のする」という感覚をあまり持たなくても当然であろう。いくら自然をいじったところで、物質は不滅で、かつエネルギーは保存されるからである。むしろ「まったく手をつけるな」というのが、欧米式の自然保護である。でも「まったく手をつけない」なら、人間との関係が生じないじゃないか、とは思わないらしい。
 モノを見たとき、直接の感覚を重視するか、材質に注目するかの違いは、あちこちに表現されている。料理がそうで、和風なら「生き造り」が典型で、魚や海老そのままが出てくる。これは欧米流では、料理と見なされないであろう。素材を上手に変形することが、料理なのである。逆にその変形が論理的に見やすいものであれば、たとえ自然の造形であっても「人工的」である。だから六角形で占められた蜂(はち)の巣は、まさにartificialと表現される。

(引用終了)
<同書 64−66ページ>

日本文化は「モノ」を感覚で捉え、西欧の「物質主義」は、「モノ」を感覚ではなく、理性で(質量として)捉えるという。

 このことを複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

で考えると、前者はB、b系の捉え方で、後者はA、a系の捉え方ということになろう。

 「モノ」を質量として捉えると、物質は不滅でエネルギーは保存されるから、いくら自然を破壊しても前と「同じ」だと錯覚してしまう。21世紀に入って自然保護が叫ばれ始めたが、この線だけでいくと、今度は「まったく手をつけるな」という話になってしまう。日本文化は「モノ」を感覚で捉える。だから自然を慈しむ(と同時に畏怖する)。そして、自然に少しずつ手を入れて(里山として)それと共生しようとしてきたわけだ。

 だからといって日本人がいいとばかりも言えない。以前「迷惑とお互いさま」の項で指摘したように、日本人は、自然だけではなく、多くの人工物に対してもそれと共生しようとする。東京タワー、スカイツリーしかり。学校や会社組織、政治体制しかり。それが行き過ぎると、腐った組織や政治体制とも日本人は心中しかねない。複眼主義でいつも言うように、何事もバランスが肝心なのである。

 これで、新潮文庫の養老孟司の大言論シリーズはIからIII巻まで出揃ったわけだが、第I巻については「足に靴を合わせる」、第II巻については「差異と同一性」の両項で紹介した。併せてお読みいただけると嬉しい。

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posted by 茂木賛 at 09:59 | Permalink | Comment(0) | 非線形科学

シェア社会

2014年05月06日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『シェアをデザインする』猪熊純・成瀬友梨・門脇耕三編著(学芸出版社)という、「シェア社会」についての報告とディスカッションの本を読んだ。副題に「変わるコミュニティ、ビジネス、クリエーションの現場」とある。まず、建築家隈研吾氏の新聞書評を引用しよう。

(引用開始)

 私有からシェアへという、パラダイム転換が、今、あらゆる領域、あらゆる場所で話題になっている。その転換で、われわれの生活、社会はどう変わるのか。実践者たちの声を通じて、その実態が、具体的に語られる。
 なかでも、最も耳目を集めているのは、シェアハウスという、一種の共同生活スタイルのアパートである。多少、家賃が割高でも、仲間とリビングやダイニング、水周りを共有して暮らせる、この新しい集合住宅は、若者のみならず、中高年の単身者からも、さみしくない老後のための新しい共同体のあり方として、がぜん注目されている。しかもシェアという方法が、居住スタイルにとどまらず、生産、消費、創造を含む社会のすべての領域に拡大しつつある現状を、本書は生々しく記述する。
 日本は、このシェアという方法で、世界をリードできるのではないかという可能性も感じた。少子高齢化で、高度成長期に築きあげた莫大(ばくだい)なボリュームの建築群が、一気に余りはじめているからである。シェアは日本の都市自体をリノベーションする、新しい方法論でもありうる。
 シェアが日本的であると感じたもうひとつの理由は、日本人が持っているやさしさが、日本社会のセキュリティーの高さ、犯罪率の低さが、シェアというゆるいシステムの適合しているからである。シェアハウスは、実は、日本の昔ながらの下宿屋の再来という説もあって、シニアには昭和のなつかしい香りもする。1990年代以降の社会、経済的停滞、特にかつて日本をリードしていた大企業の不振と無策とによって、シェアシステムが活躍する隙間が、無数に出現したことも、本書から見えてきた。その意味で、シェアは日本社会にとって、起死回生の策となるかもしれない。経済のグローバル化に乗り遅れたかに見える日本が、再び先にたつための、強い武器になるかもしれない。

(引用終了)
<朝日新聞 2/23/2014)

本カバーの帯には、ディスカッションに参加した17人の名前とともに、「今、何が起こっているのか?会社員でもフリーでも、個人ベースで働く/コラボレーションが新しい仕事を生み出す/共感を呼ぶ不動産活用が、ストックの価値を高める/無数のクリエーターとのつながりが、イノベーションを起こす」との紹介文がある。

 この本の構成は、

プロローグ
1.コミュニケーションのシェア
2.シェアのビジネス
3.クリエイティビティのシェア
4.社会のバージョンアップ
エピローグ

となっている。その「2.シェアのビジネス」の最後の方に、

(引用開始)

関口 シェアの付加価値は大きく分けて二つあって、ひとつめが、合理的かつ経済的な付加価値。たとえば一人で暮らすと最低限のキッチンしか持てないところ、大勢で住めばもっとグレードアップした、業務用のキッチンさえ持てちゃいますよ、というようなことです。二つめは、情緒的価値。つまり、そもそも人が集まっていると、単純に楽しいんですね。出会いがあったり、目標を達成した時の高揚感を共有できたり、あるいは、互いに切磋琢磨したり、刺激を受けられたりする。その二つかなと思います。

(引用終了)
<同書 134ページ>

とある。複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

に当て嵌めれば、「合理的かつ経済的な付加価値」はA、a系のメリット(効率)、「情緒的価値」はB、b系のメリット(効用)ということだろう。

 シェアは「棚に陳列されたモノ」ではなく「人同士に起こるコト」であり、シェア型経済においては、焦点が「モノからコト」へシフトしてゆく筈だ。だからこの本は、シェアから見るモノコト・シフト時代(モノよりもコトを大切に考える新しいパラダイム)の現場報告ともいえる。隈氏が指摘するように、日本がシェア社会の最前線に立てるとしたら素晴らしい。

 「3.クリエイティビティのシェア」にあるクリエイティブ・コモンズの考え方は、成果をシェアするとさらに良いコトが起こる、という意味で、「コト経済」の基本ルールとして捉えることもできそうだ。「経済の三層構造」の項で述べたように、経済は「コト」「モノ」「マネー」の三層構造になっていて、「コト経済」とは、生命の営み、人と外部との相互作用全般を指す。それは本来、互助的な性格のものなのだ。

 シェアについては、以前「“シェア”という考え方」「“シェア”という考え方 II」という項を書いたことがある。併せてお読みいただければ嬉しい。

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posted by 茂木賛 at 09:52 | Permalink | Comment(0) | 街づくり

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