『動的平衡 ダイヤローグ』福岡伸一著(木楽舎)を読む。副題に「世界観のパラダイムシフト」とあるが、この本は、『動的平衡』(木楽舎)及び「動的平衡 2」(木楽舎)の著者福岡氏による、新しい世界観についての対談集だ。
動的平衡とは何か。本書のプロローグの一部を引用したい。
(引用開始)
私は、とがった鉛筆で紙の上にくるりと丸い楕円を書いてみせた。そして、若い学生たちに向かってこんなふうに問いかけてみた。
――ここに細胞があるとしよう。生きた細胞が一粒。では、いったいこの細胞のどこに生命が宿っているか、指し示すことができるかい。
百人の学生がいたとすれば、その百人ともが、そんなことは明らかです、ここです、と楕円の真ん中をさすことだろう。
でもそれは違う。細胞の生命は、細胞のなかにあるんじゃない、そこにあるのは細胞が囲い込んだ単なる液体だ。そして細胞の外にあるのも、細胞が追い出した液体にすぎない。では細胞の生命はどこにあるといえるのか。それは、まさにここにある。
私は鉛筆の先を、さきほど一筆で書いた細い線の上にそっとおく。
生命の本質はその動きにある。生命は細胞の内にあるのではない、むろん生命は細胞の外にあるわけでもない。生命は、内と外のあいだ、つまり境界線上にある。
でも境界線――つまり細胞のうちと外を仕切る境界線――そのものが生命だというわけでもない。生命は境界線上の動きにある。外側から物質とエネルギーと情報を選り分けながら取り込み、内側から溜まったイオンと老廃物とエントロピーを汲み出す、そのたえまのない動きのなかに、生命の本質がある。
細胞膜という存在そのものではなく、細胞膜という状態を考えること。構成要素ではなく、要素のありようによって何かを語ろうとすること。『動的平衡』(二〇〇九年)、『動的平衡2』(二〇一一年)を通じて、私が語りたいと思ったものも、そういう「場」のことだった。
動的平衡という場においては、合成と分解、酸化と還元、エネルギー生産とエネルギー消費、コーディングとデコーディング、秩序の構築と無秩序の生成、そういった相反することが同時に行なわれる。そこには明確な因果律がない。原因は結果となるが、結果もまた原因となる。そして同じ原因は同じ結果を二度と生み出すことはない。動的平衡という場においては、すべてが一回性の現象として生起する。その上で、そこには一定の平衡、一方向の反応とその逆反応とのあいだの速度にバランスが生み出される。そのような動的なものとして生命を再定義したい。それが動的平衡である。
(引用終了)
<同書 1−3ページ>
対談の相手は、各分野で活躍する作家や画家、建築家など8人。カズオ・イシグロ、平野啓一郎、佐藤勝彦、玄侑宗久、ジャレド・ダイアモンド、隈研吾、鶴岡真弓、千住博といった面々。
福岡氏の「動的平衡」という生命の本質を示す言葉は、要素還元論や機械論に対するアンチテーゼとして、モノコト・シフト時代(モノよりもコトを大切に考える新しいパラダイム)の世界観を代表するものだと思う。これからも、この生物学者の仕事から目が話せない。
尚、福岡のほかの著書について、以前「マップラバーとは」「イームズのトリック」「贅沢な週末」の項などで紹介したことがある。また、本書の千住博氏との対談の内容は、先日「21世紀の絵画表現」の項で一部を引用した。併せてお読みいただければ嬉しい。