夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


21世紀の絵画表現

2014年03月25日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 去年の11月、国立新美術館で、ゴッホ、スーラーからモンドリアンまでの点描画を集めた「印象派を越えて 点描の画家たち」を観た。19世紀後半に生まれたこれらの点描画は、思考におけるアナログからデジタルへのシステム転換であり、それは、20世紀の現代人の孤立した実存を支える「新しいパラダイム」の到来を告げるものであったとされる。私は作品を観ながら「点描画が20世紀のパラダイムの到来を告げる絵画表現であったとしたら、21世紀のモノコト・シフト時代の、新しいそれは何なのだろう?」ということを考えた。

 20世紀の西洋絵画は、フォービズム、キュビズムを経て抽象絵画、シュルレアリスム、表現主義へと変化してゆくわけだが、その過程は、点描画のデジタル・システムをさらに推し進めて、形態それ自体をも解体してゆく、還元主義的な精神運動として捉えることが出来るように思う。その運動は、この世紀の戦争や環境破壊と踵を一にしている。だとしたら、21世紀の「コト」への関心を示す絵画表現とは何か?

 滝のモチーフで知られる日本画家の千住博は、『動的平衡 ダイヤローグ』福岡伸一著(木楽舎)における福岡氏との対談の中で、次のように述べている。

(引用開始)

千住 絵画は、それ自体、動かない。けれど、モネの睡蓮の絵のように、温度の差や光のうつろい、音や気配、湿度や匂いを目に見えるようにすることで成り立っています。これらはすべて「動き」ですよね。むしろ、絵のなかで動きを止めることによって、かえって違和感から動きが強調されることもある。
福岡 おっしゃるとおり、絵画は動きを表すために、時間を止めていますよね。フェルメールの『牛乳を注ぐ女』や「真珠の首飾りの少女」も、ちょうど写真家がそうするように、ある決定的な瞬間を切り取っている。そこには、その瞬間に至る時間と、そこから出発する時間とが一瞬のうちに捉えられています。
 フェルメールが自分の「部屋」を見つけたように、千住さんは「滝」を発見されたと思うんですが、滝とはまさに、常に水が流動する動的な存在ですよね。滝を描くにあたっては、やはり動きを絵のなかに捉えたいという思いがあったんでしょうか。
千住 それはもちろん、ありました。動的なものとは、つまり、プロセスですよね。滝は上から下へと水が流れ落ちる、いわばプロセスそのものです。あるとき、私は滝の動きを観て非常に感動したんです。それは、人類がなぜ芸術を生み出したのか、その起源にまで遡るような本能的な感動だった。そして、なんとかこの動きのプロセスをつかみ取りたい、描きたいと思ったんです。

(引用終了)
<同書 202−203ページ>

ということで、フェルメールからモネの睡蓮を通って、主題を持たず動き(時間)そのものをキャンバスに描こうとする筋があり、その線上に、21世紀の絵画表現の一つがあるのかもしれない。

 20世紀には、写真や映画といった新しい視覚表現も興隆してきた。モノコト・シフト時代の新しい表現ということで、最近観た2本の映画を紹介したい。

 1本目は、『かぐや姫の物語』高畑勲監督(スタジオジブリ)という日本の映画だ。『かぐや姫の物語』は、一枚の絵全体が動くようなアニメーションが特に素晴らしかった。この、背景時空の無い、水彩画のような動画、絵画のような深みを持ちつつ、「コト」表現として充分な情報量があるアニメは、新しい視覚表現の一つの方向だと思われる。動画(投射光)でありながら、絵画(間接光)のような余韻を持つこのような手の掛かる作画方法を基に、137分の作品を作ってしまう日本アニメの底力は凄いと思う。母音満開の音楽も良かった。

 スタジオジブリの映画『風立ちぬ』は、滅びの美学だった。動く水彩画のようなアニメ『かぐや姫の物語』は、そこからの再生の美学なのかもしれない。高畑勲監督が「宮崎駿さんは引退を撤回するかもしれませんよ」と言ったのは、盟友による再生の美学を観たいという意味なのかもしれない。

 もう1本は、「議論のための日本語 II 」の項でも触れた、『ゼロ・グラビティ』A・キュアロン監督(ワーナー・ブラザース)という映画だ。これは、『かぐや姫の物語』の対極にあるようなCG・特撮・3Dを駆使したアメリカ映画だけれど、モノコト・シフト時代の視覚表現のもう一つの方向性には、このような、特撮による「コト」表現の極大化もあるのだ。今年のアカデミー賞で、監督賞をはじめ最多7冠に輝いたのも頷ける。3D眼鏡による、地球を見下ろす宇宙の疑似体験が面白かった。

 『かぐや姫の物語』と『ゼロ・グラビティ』両者に共通しているのは、地球賛歌のテーマだ。これも、資源循環を大切に考えるべき21世紀の大切な視点の一つに違いない。前者は月への帰還、後者は地球への帰還というラストの対比も面白かった。『かぐや姫の物語』が日本人のアニメ手仕事の集大成とすれば、『ゼロ・グラビティ』は西洋人の機械による特撮の集大成ともいえる。

 『ゼロ・グラビティ』には、20世紀の行き着く先を暗示した映画『2001年宇宙の旅』(1968年公開)へのオマージュも随所に見られた。『2001年宇宙の旅』に関しては、「三拍子の音楽」の項も参照していただきたい。

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議論のための日本語 II

2014年03月18日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回同様、「議論のための日本語」について話を続けたい。前回も引用した「新しい日本語」の項で、「公(Public)の場で使う言葉の創造」として、人称名詞の件と並んで私が提起したのは、英語、存在としてのbeの日本語訳についてである。

(引用開始)

 その一つは、存在としてのbeである。「XXはYYである」という等価のbe、説明のbeとは違ったかたちで、これを簡潔に表現できないものだろうか。

(引用終了)
<「新しい日本語」の項より>

 「再び存在のbeについて」の項などでも書いたが、英語のbe動詞には、基本的に(1)存在のbe、(2)等価のbe、(3)説明のbe、と三種類ある。たとえば、

(1) の例:I think, therefore, I am.
(2) の例:My name is Bond, James Bond.
(3) の例:She is so pretty.

(1)の訳:我思う、故に我あり
(2) の訳:私の名前はボンド、ジェームス・ボンドである。
(3) の訳:彼女はとても可愛い。

近代日本語におけるbe動詞の訳は、「何々は何々である」もしくは「何々は+形容詞など」となるわけだが、(1)存在のbeは、どうやってもこれだけでは表現できない。(1)はいまの近代日本語では簡潔に訳せないのだ(だから訳が古文調になる)。

 この存在のbeは、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

における、A、aの「主格」の拠点を表す重要な言葉である。もともとキリスト教の霊魂不滅から齎された「永続する個性」が、時代を経て、存在のbeによって「自立した個人」という概念になり、それがいまの西欧近代社会の「公(Public)」の精神を支えているのである。

 この存在のbeが日本語にない(簡潔に表現できない)ということは、日本社会においては、世間体や馴れ合いが生じる「私(Private)」空間は常に近景にあるが、民主政治や権利と義務が生じる「公(Public)」の場は、あくまで遠景にあるということだ。会話は得意だが主張や対話は不得意ということである。

 前回「議論のための日本語」の項で論じた人称代名詞の問題も、「公」の場において、「私」的空間で使われる「わたし」「僕」「おれ」「手前」、「あなた」「君」「お前」「きさま」といった(環境中心の)人称代名詞を使おうとする故の混乱ともいえる。存在のbeと人称名詞の問題は、議論のための日本語の脆弱さという点で、互いに深く関連している筈だ。

 この存在のbeと「自立した個人」をどう説明したら実感して貰えるだろう。みなさんは映画『ゼロ・グラビティ』をご覧になっただろうか。あの映画の冒頭、ベテラン宇宙飛行士マット・コワルスキー(ジョージ・クルーニー)が一人で宇宙遊泳を楽しんでいる感じ、通信でヒューストンとジョークを交わしながら、陽気にスペース・シャトルの周りをぐるぐると周っている感じ、とでもいえばわかって貰えるだろうか。ジョージ・クルーニーは一人、何もない宇宙空間で、いかにも自立して存在していた。

 それに較べるとメディカル・エンジニアのライアン・ストーン(サンドラ・ブロック)は、初めての宇宙飛行ということもあって、環境(スペース・シャトルとのロープ)に縋って何やら作業していた。ストーリーの展開は、事故で宇宙空間に放り出されたサンドラ・ブロックを、ジョージ・クルーニーが冷静に探し出し、ロープを繋いで彼女を国際宇宙ステーションまで誘導するのだが、二人が揃って生還するには残った酸素の量が少なすぎることを覚り、ジョージはサンドラを助けるために、自らの命綱を断つ。Resource Planningの極致とでもいうべき決断(!)。「社交のための言葉」ではないが、ジョージが最後まで社交精神、“sense of humor”を失わないことにも注目してほしい。

 その後のストーリーは映画を見てのお楽しみということにして、さて、存在のbeをどう日本語に訳すか。私がいま考えるのは、「!」記号を使ってみたらどうかということだ。

I think, therefore, I amは、「私は考える、だから私!。」
Chances areは「チャンス!。」
Let it beは「そのまま!。」

という具合。発音をどうするかは未定。感嘆符は人の気持ちを立ち止まらせるから、日本語にとって目新しい「存在のbe」の表現に相応しいと思う。数学の「階乗」という意味も、「自立」の社会的波及力を示しているようでインパクトがある。この場合、いまの感嘆符「!」は「!!」に変更すればよい。

 『話し言葉の日本語』井上ひさし・平田オリザ共著(新潮文庫)という本を読むと、この議論(主張や対話)のための日本語の脆弱さに対して、作家故井上ひさし氏が強い危機感を持っておられたことが伝わってくる。「自分の母語を鍛えようとしない人たちはいずれ滅びます」(283ページ)と井上氏はいう。本書から、議論のための日本語に関する井上氏のことばを引用しよう。

(引用開始)

井上 僕がいちばん興味を持っているのは、「満州」問題なんです。(中略)当時の日本には、自分たちが危機に陥ったとき、仲間内を助ける「言葉」はあるんですが、国家とか団結とか敗戦とかを、包括的につかまえる言葉をもたなかった。そのために、代表を出し、難民をどう守るかという交渉をすることが出来なかった。
 もっと言えば、戦後責任を日本人は他の諸国に対してとっていないといわれますが、それもひょっとしたら、日本語が悪いんじゃないか、または日本語を十分使い切っていないために、そうしたことが起きてしまっているのではないか、と思うのです。(中略)
 満州問題を考えていくと、すぐにシベリア抑留という問題につながってきます。(中略)つまり、当時の日本人たちは連合国側と交渉しようという意欲もなければ、言葉も知らない。つまり、自立していないんです。仲たがいした恋人たちが月を見ながら、言葉もかわさずに、お互い仲直りするなんてことは戦争ではありえないわけですから(笑)。ですから「何を書くか」という問題を考えるときには、ある思想、信念をもった人間なり、家族なりの「自立」が必要で、それが主張や対話という名の「言葉」を生むわけですから、自立はひとつの大きなキーワードになるのだと思います。

(引用終了)
<291−295ページより>

外国との交渉において必要なのは、議論のための「言葉」である。人は言葉で考えるわけだから、交渉人の頭の中に議論するための言葉が存在していなければ、会議の場で何語に翻訳しようと議論は出来ない。

 存在のbeの訳語に「!」を使う件、いかがだろう、人称代名詞の数字利用と同様、拙い初歩的な提案かもしれないが、こういう議論を重ねることで、近代日本語に、「公(Public)」の場で使える新しい言葉が加わればと切に思う。

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posted by 茂木賛 at 10:18 | Permalink | Comment(0) | 言葉について

議論のための日本語

2014年03月11日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「社交のための言葉」の項で、ビジネスには社交が欠かせないと書いたけれど、ビジネスには議論も欠かせない。ここでいう議論とは、(理念実現の為の)戦略、施策や計画を練る際、様々な意見を持ち寄ってその内容を弁証法的に高めてゆく対話を指す。これは、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

という複眼主義の対比でいえば、(社交と同じく)A、aの領域の話である。

 いまの日本語で行なう議論は、最後に人格の批判や中傷に墜する場合が多い。それは、「足に靴を合わせる」の項で述べたように、公共の場であっても、日本(語)人は自分の靴=環境を中心にものごとを考えてしまい、議論の相手に対して、その人がどのような意見を述べているかではなく、どのような靴を履いているか(どのような環境にいる人なのか)が主たる関心事となってしまうからである。先日の都知事選挙の議論でもそれが顕著だったように思う。

 森林太郎(号:鷗外)の作品に「杯」(明治43年発表)という短編小説がある。西洋人の「自立精神」といったものを、温泉宿に集う少女たちを主人公にして印象的に描いた作品で、『山椒太夫・高瀬舟』(新潮文庫)の中に収められている。このブログの姉妹サイト「茂木賛の世界」(短編小説館「日本文学」の中)にも載せておいたので覗いてみていただけると嬉しい。これを読むに、鷗外も、日本人の過剰な環境中心の考え方に問題を感じていたに違いない。

 議論の場においては、その人がどのような環境にいるかではなく、その人の意見がどのようなものかが重要であり、年齢、性別、上司・部下、先輩・後輩、といった靴=環境は関係ない。

 この問題に関して私が(「新しい日本語」の項で)提出した日本語改善案は、公共の議論において、環境に依存する人称代名詞を、非環境依存的な表現にしてはどうかというものだ。

 よく知るように、日本語の人称代名詞は、概ねその場の関係性に応じて、自分は「わたし」「僕」「おれ」「手前」、相手は「あなた」「君」「お前」「きさま」、第3者は「彼・彼女」「彼ら」「やつら」など沢山存在する。それまで「わたし」と言っていた人が急に「おれ」と言い出したら、互いの関係性が変わったことを示す。それまで「あなた」と呼ばれていたのが急に「お前」「きさま」と呼ばれ始めたらなにかが変わったことが分る。

 私的な場所ではそれも良いが、公共の議論では、呼び方・呼ばれ方が変わっただけで、その人の意見そのものが変わったように受け取られてしまう。それまで「わたしはこう考えます」と言っていた人が急に「おれはこう考えるんだよ」と言い出したら、まわりの人は引くだろう。いまの日本語のままでは、意見の内容が、人称名詞に隷属化してしまうわけだ。

 だから、公共の議論の場では、

自分は「1」
相手は「2」
第3者は「3」

と称することにしてはどうかというのが私の提案だ。自分の意見は「1の意見は」、相手の意見は「2の意見は」、第3者の意見は「3の意見は」という具合。これは、

「1」=「I」
「2」=「you」
「3」=「he、she、they」

と英語(の人称代名詞)を数字に置き換えただけのことだが、たとえば「君の案のままでは不十分だけれど、わたしの案と併せれば良くなりそうだね」というより、「2の案のままでは不十分だけれど、1の案と併せれば良くなりそうだね」と言ったほうが、案や意見が人間関係に縛られたものではなく、公のテーブルに載った客観物であると見なしやすいのではないだろうか。いかがだろう。

 まあ、これは拙い初歩的な提案かもしれないが、近代日本語に、公(Public)の場で使う新しい言葉を加えてゆくことは、これからの日本の発展とって非常に大切なことだと思う。

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posted by 茂木賛 at 11:33 | Permalink | Comment(0) | 言葉について

社交のための言葉

2014年03月04日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「足に靴を合わせる」の項で触れた「新しい家族の枠組み」の中に、「社交の復活」という項目(6番目)がある。

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

 これからの時代は、生活の様々なシーンで「社交」が大切になってくる筈だが、いまの日本語は、あまりそれに適していないと思われるところがある。「あれは単なる社交辞令さ」といえば悪口に決まっている。社交とは、優れて都会的な振舞いである。複眼主義の対比でいえば、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
α 都市の時間(t = interest)

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
β 自然の時間(t = ∞)

におけるA、aの領域の話だ。だからいまの日本(語)人にはなかなか難しい。

 この面における近代日本語の欠陥について早くから自覚的だったのは、作家の丸谷才一氏だとおもう。氏はその著書『挨拶はたいへんだ』(朝日文庫)における野坂昭如氏との対談のなかで、社交的挨拶の難しさについて次のように述べている。

(引用開始)

野坂 そんなふうにいろいろな配慮が必要なのは、結局、村落共同体での挨拶とはちがふ、都市社会での挨拶の仕方を考へなければいけないからでせう。
丸谷 そのとほりですね。われわれが今、挨拶の問題で困っているのは、村落共同体的な社会から都市的な社会へ、移りかけてゐるし、あるいは移ってしまってゐる。ところが言葉の実態はそれに伴つてゐない。新しい型は出来てゐないし、古い型はとうに亡んでしまつた。つまり非常に困る。その困り方を痛感するから、ぼくの困り方を例に出すことで、みんなで考へようというのがこの本なんです。

(引用終了)
<同書 243ページ>

社交には、村落共同体的な馴れ合いではなく、自立した都会的な言葉が必要なのである。この『挨拶はたいへんだ』と『あいさつは一仕事』(朝日文庫)の2冊は、丸谷氏の各種挨拶文を纏めたユニークな本だ。氏が苦労して練り上げた日本語のスピーチが楽しめる。一読を勧めたい。

 『あいさつは一仕事』の中で、対談相手の和田誠氏は、丸谷流スピーチ術の心得を次の七つに纏めている。

その一「原稿を作って準備する」
その二「長すぎるのはだめ」
その三「余計な前置きを入れるな」
その四「引用は一つにせよ」
その五「おもしろい話を入れろ」
その六「ゴシップを有効に使え」
その七「悪口を言うなら対策を考えておけ」

 以前「現場のビジネス英語“sence of humor”」の項で、近代日本語は環境べったりで、自らの無知や誤解、思考の癖、不得意分野などに自覚的であるという「精神的自立の条件」に不十分であり、そのせいで日本人はユーモアのセンスに欠けているのではないかと指摘したけれど、社交に大切なものの一つは、このユーモアのセンスである。それは、その五「おもしろい話を入れろ」という心得と重なる。

 ビジネスでも挨拶は欠かせない。「新しい家族の枠組み」の時代、丸谷氏の本などを読みながら、自分の「社交のための言葉」を鍛えようではないか。

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posted by 茂木賛 at 10:24 | Permalink | Comment(0) | 言葉について

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