夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


足に靴を合わせる

2014年02月25日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『養老孟司の大言論 I 希望とは自分が変わること』養老孟司著(新潮文庫)を読んだ。この「大言論シリーズ」は、季刊雑誌『考える人』に連載された氏の文章を纏めたもので、2011年に3冊の単行本として出版された。今回その第1冊目が文庫化された訳だが、このあと続けて、3月に『養老孟司の大言論 II 嫌いなことから、人は学ぶ』(新潮文庫)、4月には『養老孟司の大言論 III 大切なことは言葉にならない』(新潮文庫)が出版されるという。

 本書で特に面白かったのは、「ただの人」、「エリートとはなにか」、「個人主義とはなんだ」と題された、最後の3章だ。ここで養老氏は、戦後日本社会の基本最小単位が、「家」から「個人」になったこと(とその余波)について論じておられる。

 氏は、戦後日本が、新憲法に基づくいわゆる民主主義の下で、共同体の基本最小単位を、それまで長く培われてきた「家」から、アメリカ流の「個人」に変更したことを指摘の上で、

(引用開始)

 ところがわれわれの社会は、そこで「個人」を立て損なった。立てたつもりだということは明らかだが、千年以上も続いた社会制度を、紙切れの上の文字だけで変えることができると思っているのは、言説のみで生きている人たちか、かつてのシロタ女史のような若者だけであろう。家制度は消えたが、代わりの個人がそこまで育っていない。
 そもそも個人とは、永続する個性を前提としている。日本の世間が個性を認めるかというなら、まず認めはすまい。日本の伝統的思想からいうなら、個性は永続するどころではない。この国は諸行無常で、無我なのである。面倒になったら「靴に足を合わせろ」と、いまでもいうに違いない。
 永続する個性を保証したのは、じつは一神教の霊魂不滅である。その霊魂不滅を要請したのは、聖書に書かれた最後の審判である。霊魂が不滅でなければ、最後の審判に意味はない。(後略)

(引用終了)
<同書 192−193ページ>

と述べる。尚、シロタ女史とは、敗戦国日本を支配した連合国最高司令官総司令部(GHQ)民政局に所属し、新憲法の作成に関与した米国籍の若い女性だ。

 このブログでは、「複眼主義のすすめ」の項などで、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

といった二項対比を論じている。この対比で考えると、養老氏のいう「靴に足を合わせろ」という思想は、靴=環境ということで、B、bの日本語的発想そのものということができる。一方の「永続する個性」は、キリスト教を源とする西欧近代化を支えた思想で、A、aの英語的発想と重なる。

 敗戦後の日本は、「近代家族」の枠組みによって、「モノ経済」による高度成長を遂げてきた。近代家族の特徴は、

1. 家内領域と公共領域の分離
2. 家族構成員相互の強い情緒的関係
3. 子供中心主義
4. 男は公共領域・女は家庭領域という性別分業
5. 家族の団体性の強化
6. 社交の衰退
7. 非親族の排除
8. 核家族

といったものだが、日本人の多くは、高度成長期の公共領域において、靴=環境を、「家制度」から会社などの「組織」に置き換え、「巨人軍は永久に不滅です!」といったメンタリティで、(個人の自立など考えることなく)会社のために一心不乱に働いてきた。

 日本が、敗戦からこれほど早く「モノ経済」の繁栄を勝ち得たのは、この「靴に足を合わせる」メンタリティのお陰だったということができるだろう。その一方で、戦後の家内領域は、核家族化して縮小した。

 しかし、大量生産・輸送・消費社会の限界が見え始めた今の日本は、「コト経済」による、共存型の成熟社会への変換を迫られている。そこでは、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術といった新しい産業システムが大切になってくる。それを支える家族のあり方も「新しい家族の枠組み」の項で述べたように、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

といったものになってくる筈だ。そうなると、「靴に足を合わせる」だけではなく、「足に靴を合わせる」発想も必要になってくる、というのが私の見立てだ。すなわち、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

のバランスを大切に考えること、「公(Public)」の領域では、自立した個人として、自分の足に靴の方を合わせ、「私(Private)」の領域では、共生する仲間と一緒に、靴に足を合わせつつ生きる、という「複眼主義」的考え方が大切になってくる、ということだ。

 日本人は、一神教抜きで、(公共領域において)「個人」を立てなければならない。その難しいチャレンジを、今後も皆さんとご一緒に考えたいと思う。私が考える方策のひとつは、「新しい日本語」の項で述べたように、明治以降の近代日本語を鍛えることである。同項では次の3点を挙げた。

1.公(Public)の場で使う言葉の創造
2.初等教育の改革
3.不思議な日本語の見直し

他にもあると思うので、ご意見などを戴けたらと思う。

 尚、養老氏は、戦後の「家制度」崩壊の問題点を、『日本のリアル』(PHP新書)における岩村揚子さんとの対談でも指摘しておられる。それについては、「近代家族 III」の項を参照していただきたい。

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カヤックと鯨の骨のモニュメント

2014年02月18日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 「竜神伝説」の項で紹介した梨木香歩さんの『冬虫夏草』は、鈴鹿山中愛知川流域という狭いミクロ・コスモスの物語だった。「青玉伝説」の項で紹介した星川淳氏の『タマサイ 魂彩』は、海流域というマクロ・コスモスを跨ぐ壮大な物語だ。そのスケールは対照的だが、内容は共に、聖なる奥山と人の心の奥とを結ぶ「両端の奥の物語」である。小説を演出する「竜神」と「青玉」、二つの伝説はどちらも、それぞれの流域を繋ぐ“コト”の象徴としての役割を果たしていた。

 私は二つを並行的に読み進めながら、竜神伝説と青玉伝説の神秘を愉しむとともに、前者の「内部に籠もる」感じと後者の「外へ拓く」感じの双極性、いわゆる「内臓系と体壁系的双極性」をも同時に楽しんだ。複眼主義でいえば、内臓系=女性性、体壁系=男性性ということで、梨木さんと星川氏の性別と重なるわけだが、女性性を感じさせる小説の主人公が男性(綿貫征四郎)で、男性性を感じさせる小説のメイン主人公が女性(由紀)というのもまた、メビウスの輪のように捻れていて興味深い。

 奥山と人の心の奥とを結ぶ物語といえば、今から18年前(1996年)に急逝した、写真家星野道夫氏のことを想い起こす。星野氏は、アラスカを舞台に、自然と人の魂とを繋ぐ優れた写真(とエッセイ)を数多く残したことで知られている。小学館から出版されている、

『アラスカ 風のような物語』星野道夫著
『アラスカ 永遠なる命(いのち)』星野道夫著
『ぼくの出会ったアラスカ』星野道夫著

の3冊は、持ち運ぶのに便利な文庫スタイル(小学館文庫)でありながら、多くの写真とエッセイを楽しむことのできる素敵なシリーズ本だ。解説はそれぞれ、作家大庭みな子氏、尊父星野逸馬氏、奥様星野直子さんとなっている。私は『冬虫夏草』と『タマサイ 魂彩』を読み進めながら、合間に上の3冊のページを開いては、その素晴らしい写真とエッセイを堪能した。

 たとえば、『アラスカ 風のような物語』の冒頭にある、雄大な自然をバックに写した動物たち。平原を横切るカリブーの群れ、夕暮れのマッキンレー山脈を背にして湖に佇む一頭のムース、白い息を吐きながら雪原を歩む二頭の北極グマの後姿、切り株の上で木の実を食む愛らしいアカリス。そして(これは植物だが)、陽を浴びて背を伸ばす紫色のワイルドクロッカス。最初のカリブーの写真の右上には、

(引用開始)

あらゆる生命は同じ場所にとどまってはいない
人も、カリブーも、星さえも、
無窮の彼方へ旅を続けている

(引用終了)

という言葉が刻まれている。3冊の本には、全編に亘ってこのような詩情豊な写真と文章が載っている。是非手に取ってご覧いただきたい。

 梨木香歩さんと星川淳氏は、それぞれ、星野氏の写真を本のカバーに使っている。梨木さんのそれは、『春になったら苺を摘みに』(新潮文庫)と『水辺にて』(ちくま文庫)、星川氏のそれは、『ベーリンジアの記憶』(幻冬舎文庫)と今回の『タマサイ 魂彩』(南方新社)である。『水辺にて』で使われたのはカヤックの写真。梨木さんは同書の「発信、受信。この藪を抜けて」の項で、その辺りのことを次のように書いている。

(引用開始)

 ちょうど連載の第一稿を編集部へ送り、それから一人で近くの雪の降るS湖に漕ぎに行った日のことだった。帰宅すると郵便が届いていた。出版社から回送されてきたひとまとまりの中に、ポストカードが二枚、丁寧に封筒に入れられて入っていた。そのポストカードの写真を、思わず見つめ直した。一枚目の写真はたぶんアラスカの湖、カヤックが一艘浮かんでいる。私のカヤックと全く同じ色(大きさと形は違う。写真に写っているものは、いわゆる、「長期のツーリングに耐える」、大荷物を運ぶための、けれどやはりフォールディングタイプ)、係留されていて、固定されたパドルが片方、湖面に入っている。人はいない。たぶんこの艇の持ち主はこの写真を撮っている当人。そしてきっとそれは、と確かめるとやはり、アラスカの写真で有名な、亡くなった写真家のものだった。(中略)
 そのポストカードに書かれた肝心の文章自体は、私の過去の作品使用に関する、短いがとても感じのいい礼状のようなものだったが、添えられていた異国の歌の詩が、どういうわけか、このとき私が巻き込まれていた状況を俯瞰するようなものだった。それまで会ったことも話したこともないその送り主は、こちらの事情などご存知のはずもないのに、それらは本当にタイムリーに、まるでいくつもの偶然を利用し、届いた、「何か」からの「信号」のように、そのときの私の内側と奇妙にも深く響き合った。

(引用終了)
<同書 46−47ページ>

同書カバーの靄に翳む湖に浮かぶカヤックの写真は、美しく幻想的だ。

 星川氏の『ベーリンジアの記憶』では、鯨の骨のモニュメントの写真が使われている。その写真について、氏は同書のあとがきの中で次のように書いている。

(引用開始)

 末筆ながら、この物語の誕生にもかかわり、出版を喜んでくれた写真家の星野道夫氏が九六年、カムチャッカ半島でヒグマに襲われ帰らぬ人となった。ちょうど私が前述の一年にわたる旅をするころ、星野氏も絶筆となった『森と氷河と鯨』(世界文化社)の連載でアラスカとシベリアにまたがる旅をしていて、忙しい中からこんな感想を寄せてくれた。

  ……読み始めてすぐこの世界に入ってゆくことができました。現代と重複させながら書かれたのも良かったと思います。“すきま”という言葉はとても面白く、イメージをふくらませてくれました。骨が散らばるベーリンジアの書き方は、つかみどころのないこの草原に確かなイメージを与えてくれました。とても好きだった言葉は、“かんじんなのは他人の考えをよむことじゃない。そのもっと奥にある大きな願いというか、たくさんの人間や生きものが、太初のときからずっと抱きつづけてきた希望をくみとることだ”というところです。

 死の直前、ロシア側チョコト半島の海辺で鯨の骨のモニュメントに出会ったとき、星野氏はその撮影に大量のフィルムを費やしていいる。もしかすると、彼の頭の中にはユカナたちの見た<境>の風景が重なっていたのかもしれない。――そんな勝手な想像から、文庫本化にあたって遺作の一枚を表紙に使わせていただいた。

(引用終了)
<同書 311−312ページ>

同書カバーを飾る鯨の骨のモニュメント写真は、明瞭にして超越的だ。

 星野氏が存命であれば、『冬虫夏草』と『タマサイ 魂彩』が出たところで、梨木さん、星川氏、そして星野氏3人の「鼎談」などを企画したいところだ。テーマは「自然と人の魂を繋ぐ物語について」。北海道とアラスカ、鯨とオオワシ、カヤック、琵琶湖と屋久島、竜神と青玉伝説、沖縄とハワイ、きっと話は尽きないだろうに…。その早すぎる死(享年43歳)に対して、哀惜の念を禁じえない。

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posted by 茂木賛 at 10:27 | Permalink | Comment(1) | アート&レジャー

青玉伝説

2014年02月11日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 前回「竜神伝説」の項で紹介した『冬虫夏草』と同時に読み進めたのが、友人星川淳氏の小説『タマサイ 魂彩』(南方新社)という本だ。今回はその話をしたい。まず、本カバーの帯と表紙裏の案内文を紹介しよう。

(引用開始)

魂の源流をたどって<海の道>へ――
青い石が語る祖霊たちの声
新しいSF=ソウルフィクションの誕生か!?

まことに、この世は白い民の訪れと、あの火筒のせいで終わる。
これから五百年後、その病が地上を覆い尽くし、焼き尽くすだろう。
だが、われらは次の世の備えをしなくてはならぬ。
そのとき、青い石を通じて魂の自由を思い出させるのは
私らよりももっと古い祖霊たちの声だ。

(引用終了)

 本書の主人公は、以前「文庫読書法(2010)」の項で紹介した、星川氏の『ベーリンジアの記憶』と同じ語り手由紀、それと、種子島に鉄砲が伝来した16世紀を生きる龍太の二人である。

 話は、由紀の生きる201X年と、龍太の時代1545−1550年を舞台として、交互に展開する。由紀は、飛行機で日本からカナダ、ハワイ、屋久島、沖縄、広島、アメリカ・ニューメキシコへと旅をし、16世紀の龍太は、舟で種子島から黒潮にのって北米大陸へ、そして大陸沿いに南へ下る。その間、由紀は様々な人と巡り会い、龍太は各地で冒険を繰り返す。男女の愛の物語も進行する。

 21世紀と16世紀という離れた時空を繋ぐのは、両方に登場する「青玉(ターコイズ)」だ。昔、ヒマラヤ山中にある、宝石のような湖で生まれた三つの美しい青玉。そのうちの二つは龍太の時代に、龍太や双子の姉妹の手を経て、もう一つは他の時代に別ルートで、共に北米大陸に渡る。

 三つの青玉は、その後さらに数奇の運命を辿り、最終的に、一つは主人公由紀のブレスレットに、もう一つは由紀がハワイで出会うケン(由紀の許婚となる男性)の胸に、そして三つ目は、北米大陸インディアンの末裔の手元に残された。

 「三つの石がふたたび出会うのは、次の世がはじまるとき。この世の終わりが終わるときだ」とは、龍太が出会った土地の老女の言葉だった。その予言をなぞるように、由紀とケンは、旅先ニューメキシコの地で(201X年8月28日に)、三つ目の青玉を持つインディアン女性と邂逅する…。

 この小説のテーマは、太古の昔からあったであろう、太平洋を跨ぐ民族の交流を跡付けることと、火縄銃に象徴されるヨーロッパ文明の次に来る筈の、新しい時代について考えることだ。その意味でこの本は、前作『ベーリンジアの記憶』や、星川氏の他の活動と密接に繋がっている。本の「あとがき」から一部引用しよう。

(引用開始)

 前作以来、魂の源流を探っていくと、そのむこうに現代や未来の問題が見えてくる、そしてその逆も真である、一見不思議だけれども、ある意味ではあたりまえの共時世界に馴染んだ私にとって、この物語は時間と空間を越えた“親族”の来歴の一端です。過去から未来を見ているのか、未来から過去を見ているのか――いやじつは、私たちの深い学びはそういう矢印とはあまり関係なく起こるのかもしれません。

(引用収容)

民族交流の本当の歴史、物質文明の次の世界、どちらも21世紀のモノコト・シフト時代の重要なテーマである。これからも氏の仕事を応援したい。

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竜神伝説

2014年02月04日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 以前「両端の奥の物語」の項で、流域の両端(奥山と奥座敷)を言葉で繋ぐ梨木香歩さんのエッセイを紹介したけれど、去年の秋出版された梨木さんの『冬虫夏草』(新潮社)は、小説の形で流域の両端を結ぶ味わい深い物語だ。初めに、本カバーの帯(表、裏)から案内文を引用しておこう。

(引用開始)

ここはすでに、天に近い場所(ところ)なのだ――。
『家守綺譚』の主人公にして新米精神労働者たる綿貫征四郎が、鈴鹿山中で繰り広げる心の冒険の旅。それはついこのあいだ、ほんの百年すこしまえの物語。

疎水に近い亡友の生家の守(もり)を託されている、駆け出しもの書き綿貫征四郎。行方知れずになって半年あまりが経つ愛犬ゴローの目撃情報に加え、イワナの夫婦者が営むという宿屋に泊まってみたい誘惑に勝てず、家も原稿もほっぽり出して分け入った秋色いや増す鈴鹿の山襞深くで、綿貫がしみじみと瞠目させられたもの。それは、自然の猛威に抗いはせぬが心の背筋はすくっと伸ばし、冬なら冬を、夏なら夏を生き抜こうとする真摯な姿だった。人びとも、人間(ひと)にあらざる者たちも……。

(引用終了)
<傍点省略>

どこか漱石『草枕』の語り手を髣髴させる本書の主人公綿貫征四郎は、愛知川流域を遡る道中、村びとや友人の細菌学者、河童や天狗、赤竜の化身などと巡り会い、最後に瀑声轟く滝の下で愛犬ゴローと再会する。

 この小説は、以前に出版された『家守綺譚』(新潮文庫)の続編であり、ほぼ同時に出版された『村田エフェンディ滞土録』(角川文庫)とも話が繋がっている。その繋がりを演出するのが、いづれの書にも登場する「竜神」だ。『家守綺譚』の白竜、『村田エフェンディ滞土録』に登場する火の竜サラマンドラ、そして『冬虫夏草』の赤竜の化身である。

 村人たちの言い伝えによると、奥山竜ヶ岳から四方へ流れ出る宇賀川、青川、田光川、そして愛知川は、それぞれ白竜、青竜、黒竜、赤竜に守られているという。そのなかで、愛知川を管轄する赤竜が、長いことその地を留守にしていた。征四郎は道中、愛知川に戻る赤竜の化身と出会う。赤竜が愛知川に戻れば川は守られる。しかし、征四郎の亡友高堂は、宿に泊まる征四郎の枕頭で、「この地は将来、巨大な河桁によって水の底に沈む」と不吉な予言を残す。巨大な河桁とは、おそらく昭和に入って出来た永源寺ダムのことのようだが、この小説ではそこまで詳らかではない。

 鈴鹿地方の竜神伝説は、以前「“タテとヨコ”のつながり」の項で述べた『オオカミの護符』の「オイヌさま」同様、流域の奥山と奥座敷とを結ぶ山岳信仰の神秘の象徴である。各地の流域には、このような奥山と奥座敷との間を結ぶ「魂の通う道」があった。しかし、大量生産・輸送・消費の時代に(ダムなどによって)寸断され、その多くが忘れ去られてしまった。「ついこのあいだ、ほんの百年すこしまえ」まで頻繁な行き来があったのに。

 21世紀のモノコト・シフトの時代、これら山岳信仰の神秘は、流域を繋ぐ“コト”の象徴として、再び見直され始めている。梨木さんは、その辺りのことについて雑誌のインタビューの中で次のように述べておられる。

(引用開始)

 ここ数年来、私自身意識する自分の「志向」として、匂い立つようなローカリティが書きたい、ということがあります。車で国道を走っていてもどうかすると北海道も鹿児島も同じような郊外型大型店やショッピングモールばかりで、方言も、もう昔のような方言は今の若い人には使えない、という話は全国至るところで聞きます。それはすなわち、噛み応えのある「その土地らしさ」が消え失せつつあるということ。おっしゃるような、土地の歴史、神話、地勢、習俗ひっくるめたローカリティというものを、せめて作品の中に、微(かす)かにでも残したい、という思いはあります。

(引用終了)
<小説現代1月号 581−582ページ>

 この小説は、村人たちが豊な方言で語る土地の伝承や風習、各章を彩る草木の名前、最後に泊まる竜の眷属イワナの宿、愛犬ゴローが見つかる暴たる竜など、愛知川流域の人や天地自然の気を描いて余すところがない。完成させた梨木さんの筆力を称えたい。また、綿貫征四郎物語は今後も書き続けられるだろうからそれも楽しみだ。

 本書を読んで興味を覚えた人は、『家守綺譚』と『村田エフェンディ滞土録』にも当って戴きたい。世界が広がり、感興が増すに違いない。

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posted by 茂木賛 at 09:53 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

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