夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


会話と対話

2013年08月27日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 “わかりあえないことから”平田オリザ著(講談社現代新書)という本を有意義に感じながら読んだ。このブログでは、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き(大脳新皮質主体の思考)―「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き(脳幹・大脳旧皮質主体の思考)―「私(Private)」

という対比を掲げ、両者のバランスを大切にする生き方を「複眼主義」と呼んで推奨しているが、平田氏が指摘する、日本人における「対話」能力の必要性は、この考えと重なるように思う。どういうことか説明するために精神科医の斉藤環氏による書評を引用しよう。

(引用開始)

矛盾を抱えた「コミュ力」偏重

 著者の経歴は興味深い。10代で世界一周自転車旅行を決行して体験記を出版し、90年代には「静かな演劇」ブームを牽引したかと思えば、最近ではコミュニケーション論の専門家として名をなしている。
 いっけんばらばらに思われるその活動の軌跡も、本書を読めば、むしろ一貫したテーマの追求であったことが見えてくる。
 かつて旧守的な日本の演劇界に苛立っていた青年は、今わが国の国語教育の抱えた大問題に直面している。著者のいう「ダブルバインド」問題である。
 それは簡単に言えばこういうことだ。明治以降に急ごしらえで整備された国語教育は、タテマエとしては欧米型のコミュニケーションを教えようとしつつも、ホンネの部分では「和を乱さず」「空気を読」み、互いに察し合うような“コミュ力”を求めている。この矛盾を温存したまま、日本社会はどんどん“コミュ力”偏重社会になりつつある。
 私たちは今なお、わかりあえない他者を前提とした「対話」よりも、気心の知れた者どうしの「会話」ばかりを大切にしてはいないか。そのことが多くの子供たちに生きづらさをもたらしてはいないだろうか。
 著者はこうした状況を打開すべく、空気を読み合う「協調性」よりも、他者と交渉するための「社交性」の大切さを強調する。そこで必要となるのは、複数の役割を主体的に“演じ分ける”能力であるという。この指摘には膝を打った。
 震災以降、ばらばらになってしまった私たちの心は、そうなって初めて、対話に向けて開かれた。ここから先も、決して楽な道のりではない。せめて辛い時には、著者の口ぐせを真似てみよう。「みんなちがって、たいへんだ」と。

(引用終了)
<朝日新聞 4/21/2013(フリガナ省略)>

 平田氏による「会話」と「対話」の定義は、

「会話」:価値観や生活習慣などが近い親しい者同士のおしゃべり。
「対話」:あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは親しい人同士でも、価値観が異なるときに起こるその摺りあわせなど。

ということで、これをこのブログの対比と関連付ければ、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き(大脳新皮質主体の思考)―「公(Public)」
「対話」−社交性の重視

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き(脳幹・大脳旧皮質主体の思考)―「私(Private)」
「会話」−協調性の重視

となるだろう。平田氏が指摘するように、今の日本語に欠けているのは、公(Public)的な「対話」のための語彙なのだ。

 また、平田氏のいう「対話」と「社交性」の重視は、このブログで挙げているモノコト・シフト以降の「新しい家族の枠組み」の価値観、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

とも整合する。「対話」と「社交性」は、これから海外で飛躍しようとする起業家にとっても、欠かすことのできない能力である。

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posted by 茂木賛 at 10:13 | Permalink | Comment(0) | 言葉について

クレタ人の憂鬱

2013年08月21日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 “不完全性定理とはなにか”竹内薫著(講談社ブルーバックス)を読んだ。この本は、カントールやデデキント、ゲーデルやチューリングの仕事を分りやすく解説したものだが、それはそれとして、私は、第4章の「不完全性と不確定性の関係(203ページ)」以降の著者のコメントが面白かった。

 ここで著者は、超ひもとブラックホール、質量とエネルギー、時間とエントロピーなど、「似ている」ことを辿って、ゲーデルの不完全性と量子力学の不確定性の相関を考え、「視点」という言葉に行き着く。

 著者は、相対性理論と量子力学、不完全性定理に共通するのは、「視点」を意識しなければならないことだという。それは、自分を客観的立場において宇宙や量子を考えるという意味だが、この「視点」は、「時を抜いた“モノ”」としてのいわゆるメタな視点だと思う。

 「時を抜いた“モノ”」については、「時空の分離」と「再び複眼主義について」の項で述べた。20世紀を席巻し、今も多大な影響力をもつ「時空の分離」を前提とした「視点」そのものは、実は、大きさのない点や太さのない線のように、人が脳の中でつくったフィクションでしかない。人の本当の視点は常にどこかの「場」に置かれているからだ(勿論、フィクションも多数決や工学計算には必要だが)。

 ゲーデルが証明したのは、あるシステム内では、真だけれども証明できない数式があるということだが、システムの外にいる人間については何も語っていない。ゲーデルは、自分を含むシステムを数学的に考えると矛盾が生じるといったわけだが、それはシステムに矛盾があるのではなく、システムを数学的に(「時を抜いた“モノ”」として)考える「自分」の側に矛盾があるということを言いたかったのはないか。

 ゲーデルの不完全性定理とは、「時を抜いた“モノ”」信仰の限界を、自己言及性の無限ループとして数学的に証明したものではないだろうか。フィクションは、自然を扱うには限界があるということなのだ。

 この本に、「嘘つきクレタ人」の話が出てくる。嘘つきクレタ人が「クレタ人は嘘つきだ」といったときにその話を信じて良いのか、という例のパラドックスだ。このパラドックスは「時を抜いた“モノ”」信仰を象徴している。

 モノコト・シフト後(「時を含んだ“コト”」時代)の我々は、シンプルに、「嘘つきクレタ人とは、いつの時点のどのクレタ人を指しているのか?」と問えば良い。クレタ人は「時を抜いた“モノ”」ではなく、日々生滅を繰り返す生きもの=「時を含んだ“コト”」なのだから。

 「時を含んだ“コト”」は「場」=「環境」において発動する。これからの科学の知見は「場」の研究にシフトしていくだろう。ヒトゲノムの全解読が「エピジェネティクス」の研究に、ヒッグス粒子の解明が「ヒッグス場」の研究にシフトしつつあるのはそういうことではないのか。

 理論科学も、カオス理論や複雑系を経ていまや同期現象や集合知などの「場」の研究に加速的にシフトしている。宇宙科学でも「時を抜いた“モノ”」信仰の名残のような理論は早晩新しい知見に止揚されると思う。

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posted by 茂木賛 at 09:46 | Permalink | Comment(0) | 非線形科学

再び複眼主義について

2013年08月13日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「時空の分離」の項で、

(引用開始)

 21世紀を迎え、世界は「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)の時代を迎えている。「時を含んだ“コト”」を研究するには、まずこの「時空の分離」を見直す必要があると思うがいかがだろう。

(引用終了)

と書いたけれど、今回もこのテーマについて考えてみたい。

 様々な“コト”は、そのサイズの中に、そのコトを起こすためのエネルギーを固有の時間とともに内包している。「酵素の働きと寿命との関係」の項で探ったのはその法則性だ。生物だけでなく、石炭や石油など鉱物であっても、“コト”としての長い長い固有の時間をその体内に秘めている。全ての“モノ”(existance or being)は“コト”(becoming)なのである。鉱物や宇宙の時間は生物のそれに比して恐ろしく長いから、我々がそれに気付かないだけだ。

 アインシュタイン以前の“モノ”信仰は、そこに流れる時間の存在を前提としていたため、分解・合成による利用の行き過ぎについては自然な制約があったと思う。“モノ”はexistanceであると共にbeingでもあったわけだ。アインシュタイン以降の「時を抜いた“モノ”」信仰は、「時を含んだ“コト”」をも「物質」と見なすようになった。石炭しかり、石油しかり、動物しかり、植物しかり、そして人しかり。変化した物質は「中間体」という名を与えらるようになった。“モノ”はexistance一辺倒に変わったというべきか。

 20世紀の文明は、その「物質」を次から次へと破壊することでエネルギーを取り出し、それを工学的に変換して都市文明を維持してきた。“コト”の時間とサイズを圧縮してエネルギーを無理やり取り出してきたわけだ。

 このブログで以前、

(引用開始)

 世界は、XYZ座標軸ののっぺりとした普遍的な空間に(均一の時を刻みながら)ただ浮かんでいるのではなく、原子、分子、生命、ムラ、都市、地球といった様々なサイズの「場」の入れ子構造として存在する。それぞれの「場」は、固有の時空を持ち、互いに響きあい、呼応しあい、影響を与え合っている。この「場所の力」をベースに世界(という入れ子構造)を考えることが、モノコト・シフトの時代的要請だ。

(引用終了)
<「場所の力」より>

と書いたけれど、「時を抜いた“モノ”」信仰は、効率を求める近代文明を加速的に拡大させ、やがて放射性物質までエネルギーとして分解し、利用するようになった。そしてそれが、地球の環境自体を加速的に破壊させるに至り(その際たるものが核爆発だろう)、21世紀の時代のパラダイムは、「時を抜いた“モノ”」信仰から、「時を含んだ“コト”」を大切にする考え方に移りつつあるというのが私の見立てだ。

 西洋近代文明を育んだ「存在のbe」は、自立精神とともに“モノ”信仰を生み、やがてそれは「時を抜いた“モノ”」信仰へと発展した。環境破壊は、21世紀における地球規模の問題の一つだが、それは主に、「存在のbe」を駆使して作り出された西洋近代文明の「行き過ぎ」によるものだと思う。人は本来、地球という「時を含んだ“コト”」と同期しながら生息している。石炭、石油、特に放射性物質を急速にエネルギーとして開放すれば、地球環境は激変せざるを得ない。「時を抜いた“モノ”」信仰が、地球の環境自体を加速的に破壊させたわけだ。

 先日「再び存在のbeについて」の項の最後に、

(引用開始)

 話が逆転するのは、私(private)空間にしか住んでいない日本人は、“草枕”で描かれるような自然との一体化はとても得意である。リーダーシップでいえば、Process Technologyの方の世界だ。この能力が実は世界の環境破壊を救うかもしれない。ここに今の日本語の限界と、逆にその存在価値があるような気がする。

(引用終了)

と書いたが、今の日本語は「存在のbe」をその語彙に持たない。日本人は、西洋近代文明を真似てここまで来たけれど、「存在のbe」を理解していないから本当の近代社会を築くことがまだできない。しかし、Process Technologyを得意とする日本語は、もともと「時を含んだ“コト”」を大切にする考え方には親和性がある。それが逆に、環境問題で悩む世界にとっての存在価値となる。

 人が近代文明を享受し、「生産」(他人のための行為)の質を高めていくためには、「存在のbe」を理解し、“コト”としての生物や鉱物を、そこに流れる時間を感じつつ、環境を決定的に破壊しない範囲で適時エネルギーに変えていかなければならない。

 「存在のbe」と「環境のbecoming」、その両方の重要性。「複眼主義」において、脳(大脳新皮質)の働き=Resource Planningと、身体(大脳旧皮質・脳幹)の働き=Process Technologyとのバランスを大切に考えようというのは、このことを言っている。

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posted by 茂木賛 at 09:15 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

時空の分離

2013年08月09日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 “「単位」の本質”潮秀樹著(技術評論社)という本を読んでいたら、次のような文章があった。

(引用開始)

 アインシュタインは時間と長さがある意味で同等であるというきわめて奇抜な考えに基づいて、相対性理論(特殊相対性理論)を作り上げました。時間と長さが同等であれば、空間の3つの座標軸x軸、y軸、z軸に加えて、時間軸を考える必要があります。空間の3次元に対して、時間を加えた4次元を考えることになります。

(引用終了)
<同書 87ページより>

ここにある「きわめて奇抜な考え」という言葉が興味深い。

 アインシュタインの特殊相対性理論は、「どの慣性系でも物理法則は同じ形で表される」という相対性原理と、「ある慣性系から見たとき、光源が静止しているか動いているかにかかわらず、光速cは一定である」という光速一定の原理の二つから導かれた。

 光速cは一定であるから、光速の到達時間と長さは同等であり、時間と長さが同等であれば、空間の3つの座標軸x軸、y軸、z軸に加えて、時間軸cを考えることができ、世界は、それまでの空間の3次元に、時間を加えた4次元で表現されることとなった。

 ここで何が起こったのか。それはこれまで言われてきたような「相対性原理の定立」だけではない。そこで起こったのは「時空の分離」ではないだろうか。

 前回「再び存在のbeについて」の項で述べたように、存在のbeは、自分をその環境から切り離して物事を俯瞰することを可能にするから、デカルトを始めとする西洋の近代科学者たちは、環境から自分を切り離し、空間を3つの座標軸x軸、y軸、z軸によって表現した。そして、その座標軸の中の“モノ”を数理的に計算し、分解・合成することでエネルギーを取り出し、文明を発展させてきた。“モノ”信仰時代の始まりと言っても良いだろう。

 しかし、当時の空間3次元は、そこに流れる時間の存在を前提としていた。空間と時間とはつねに一体のものと認識されていたから、誰も空間3次元に時間要素を書き加える必要など感じなかった。縦・横・奥行きの3次元空間は、3次元「時空」でもあったわけだ。

 アインシュタインは、どの慣性系でも物理法則は同じ形で表されるが、光速という時間はどこへいっても一定だから、空間3次元と時間とは分けて表現しなければならないとした。ここで、時間はそれまでの空間からはじき出されたのだ。

 すなわちアインシュタインは、世界を、それまでの時間を暗黙裡に含む空間3次元ではなく、時間を含まない空間3次元と時間を加えた4次元で表現した。当時は、誰も宇宙の寿命など考えなかったから、ほぼ全ての科学者がこの新しい宇宙表現のレトリックに同調した。

 夏目漱石がロンドンを離れた1902年からわずか3年後、1905年に発表されたこの「きわめて奇抜な考え」が20世紀を席巻した。

 時空一体から時空分離へ、それがアインシュタインの特殊相対性理論の新しさだったのだと思う。そこから、「時間を抜いた“モノ”」が科学の主役に踊りだした。いや、科学のみならず「時を抜いた“モノ”」は、近代文明の時代のパラダイムとなっていった。

 21世紀を迎え、世界は「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)の時代を迎えている。「時を含んだ“コト”」を研究するには、まずこの「時空の分離」を見直す必要があると思うがいかがだろう。

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posted by 茂木賛 at 10:04 | Permalink | Comment(0) | 非線形科学

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