夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


再び存在のbeについて

2013年07月30日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 <言葉について>

 上野で“夏目漱石の美術世界”展を観た。漱石と東西絵画との繋がりを探る展覧会だが、なかでも近代日本語文学創始者の一人としての夏目漱石と、19世紀末のターナー、ウォーターハウス、ミレイらイギリス絵画との出会いが興味深かった。漱石がロンドンに暮らしたのは今から111年ほど前の1900年〜1902年のことだ。もう111年と云おうか、まだ111年と云おうか。

 その展覧会のカタログに、漱石の“我輩は猫である”という日本語の英訳があるのだが、それは“I am a cat”となっていた。以前「存在としてのbeについて」の項で、

(引用開始)

 ところで、この日本語の「我輩は猫である」の英訳だが、ネットで検索すると、“I am a cat”という訳が多いようだ。“I am the cat”では、「その猫」というニュアンスが強くなりすぎるからだろう。いずれにせよ上の議論を踏まえると、この訳は「説明」としてのbeに重きを置きすぎているように思える。漱石は、もっと「存在」としてのbeの部分を強調したかったのではないだろうか。「これは」という訳があればお寄せいただきたい。

(引用終了)

と書き、電子書籍評論集“複眼主義 言語論”のなかで、その英訳を“The cat am I”ではどうか、と書いたが、今回の展示会のカタログではネット検索どおり“I am a cat”となっていた。

 英語のbe動詞には、基本的に(1)存在のbe、(2)等価のbe、(3)説明のbe、と三種類ある。たとえば、

(1) の例:I think, therefore, I am.
(2) の例:My name is Bond, James Bond.
(3) の例:She is so pretty.

(1) の訳:我思う、故に、我あり
(2) の訳:私の名前はボンド、ジェームス・ボンドである。
(3) の訳:彼女はとても可愛い。

といったところだ。

 近代日本語におけるbe動詞の基本形は、“何々は何々である”、もしくは“何々は+形容詞”という言い方になるわけだが、これでは(1)存在のbeだけはどうやっても表現できない。だから(1)だけは訳が古文のままなのだ(無理やり近代日本語にすれば「私は考える、だから私は存在する」という具合に<存在>という言葉を補って訳すしかない)。

 漱石の“我輩は猫である”というタイトルは、“自分は人間ではなく、猫という存在である”というニュアンスが強いと思う。だから、(2)等価のbeや(3)説明のbeというよりも、まさに(1)存在のbeのような気がする。

 とすると、“I am a cat”ではあまりに(2)ないしは(3)に寄り過ぎた英訳で、“自分は人間ではなく、猫という存在である”というニュアンスが出ていないと思う。“I am a cat”を逆に日本語に訳すと、“我輩は猫である”といった重い感じではなく“私は一匹の猫だ”くらいの(等価のbe、説明のbe的な)軽い感じになってしまうのだ。私ならば“The cat am I”とでもしたいと考えたのはこういうわけだ。

 あらためて「存在のbe」の重要性について考えてみたい。前回「アッパーグラウンド II」の項で、

(引用開始)

今の日本語はProcess Technologyには向いているが、Resource Planningには向いていない。英語は逆にResource Planningには向いているが、Process Technologyにはあまり向いていないというのが私の持論だ。勿論今の日本語を鍛えることはできる。

(引用終了)

と書いたけれど、近代日本語がProcess Technologyばかり得意で、Resource Planningに向いていない理由の一つは、この「存在のbe」をそのまま訳せない(日本語の語彙にない)ことにあると思う。

 「存在のbe」は、人が公(public)の場(domain)に自立して存在することを表す動詞だから、それが日本語の語彙に無いということは、極端に言えば、日本人は(民主政治や権利と義務が生じる)公の場には存在せず、(世間体や馴れ合いと苛めが生じる)私(private)空間にばかり住んでいるということになる。

 この存在のbeは、物事を俯瞰するResource Planningに必要な言葉である。この言葉をそのまま訳せないところに、夏目漱石たちが創始した(そして今我々が使っている)近代日本語の最大の欠陥があると思う。人が「存在」しないところに、民主政治も権利も義務もなにも「存在」し得ないのだから。

 話が逆転するのは、私(private)空間にしか住んでいない日本人は、“草枕”で描かれるような自然との一体化はとても得意である。リーダーシップでいえば、Process Technologyの方の世界だ。この能力が実は世界の環境破壊を救うかもしれない。ここに今の日本語の限界と、逆にその存在価値があるような気がする。

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アッパーグラウンド II 

2013年07月23日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回に引き続き日本社会の今を検証するために、福島第一原発事故のドキュメント“メルトダウン”大鹿靖明著(講談社文庫)と、“死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日”門田隆将著(PHP)の二冊を読んだ。

 “メルトダウン”では、無能な政治家や無責任な官僚、原子力ムラ人たちのリーダーシップ欠如の詳細が描かれている。こちらは主にResource Planning型リーダーシップだ。村上春樹は“アンダーグラウンド”の最後に、地下鉄サリン事件を巡る責任回避型の社会体質は(戦争に突入した)それ以前と変わっていないと述べているが、今回の原発を巡る諸々の出来事は、それが今も全く変わっていないことを示している。

 “死の淵を見た男”では、先日亡くなった吉田所長を始めとする現場作業員たちの決死の努力が描かれている。こちらのリーダーシップは主にProcess Technology型だ。自衛隊と消防隊の協力も忘れてはならない。端的に言って、この人たちがいなかったら今の日本列島はない訳だ。それといくつかの僥倖があった。たとえば何故か4号機の燃料冷却プールの水がなくならなかった。しかし、また同じ事が起こったら今度こそ日本列島は使い物にならなくなるだろう。

 二冊の本により、原発事故の処理を巡って明らかになるのは、本部のResourcePlanning型リーダーシップの欠如と、現場のProcess Technology型リーダーシップとチームワークの力である。まさに地下鉄サリン事件や戦争の時と同じ構図だ。事故に当たり、システム全体を俯瞰して資源配分などを効率よく進める(社会基盤を効率的に運用する)ためのリーダーシップは前者Resource Planning型で、東京の政治家や官僚、原子力ムラの住人達の役目の筈だが、今回も(昔戦争に突入したときと同じく)機能しなかった。一方、福島の現場のリーダーシップは、正に原発システムの中に入り込んでそれを制御するわけだからProcess Technology型で、これは(与えられた過酷な環境下で)最大限機能したと思う。

 日本社会のResource Planning型リーダーシップの欠如の一端は、その言語構造(日本語の環境依存性構造)にあるというのが私の見立てである。詳細は、このブログのカテゴリ「言葉について」や「公と私論」をご覧戴きたいが、私はリーダーシップを二つの型に分けて、システム全体を俯瞰して資源配分などを効率よく進めるリーダーシップをResource Planning型、システムの中に入り込んで改善を行なうそれをProcess Technology型と呼んでいる。日本社会に欠如しているのは、このうちのResource Planning型だと思う。今の日本語はProcess Technologyには向いているが、Resource Planningには向いていない。英語は逆にResource Planningには向いているが、Process Technologyにはあまり向いていないというのが私の持論だ。勿論今の日本語を鍛えることはできる。

 村上春樹は、2010年の“1Q84”で、リトル・ピープルに象徴される20世紀的価値観が崩壊した世界を描いたわけだが、「世界の問題と地域の課題」の項の最後で触れたように、最新作“色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年”ではそのテーマは足踏み状態だ。この本では、日本社会の問題は「人々の人生は人々に任せておけばいい。それは彼らの人生であって、多崎つくるの人生ではない」(351ページ)として傍観している。好意的に考えれば、今回は東日本大震災後の共同体に暮らす個人の内面に焦点を当てた為だと思われる。村上春樹は長年鍛えた自分の日本語(表現)によって、いずれこの問題に切り込んでいくだろう。そう願いたい。

 とここまで書いて、2011年に出版された“小澤征爾さんと、音楽について話をする”(新潮社)のことを思い出した。誰もそういう読み方をしていないけれど、この作品は、単にクラシック音楽界のことではなく、“アンダーグラウンド”で戦後日本の挽歌を書いた村上氏が、同じ戦後日本へのポジティブなオマージュとして、国際舞台で活躍する小澤征爾という「最も良き戦後の日本人」を一度は描いておこうと思い立って出来た作品ではあるまいか。その意味ではだれでも良かったのだけれど、あのタイミングで全ての条件に合ったのが小澤征爾だったのだと思われる。そう考えて作品のタイトルを見ると、“音楽についての話をする”ということで殊更“音楽”が強調されている。神戸大震災が主人公なのに“神の子供たちはみな踊る”、戦後日本が主人公なのに“アンダーグラウンド”、東日本大震災が主人公なのに“色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年”、といった形で作品を書いてきた村上氏の「ひそかな韜晦術」を見る気がするがいかがだろう。それはそれで村上氏らしい確信犯的韜晦だ。

 それにしても、今の日本は、世界的潮流としてのモノコト・シフトや、地域特有の兆候(高齢化、人口の減少など)に相応した社会基盤の構築が急務だと思う。社会基盤の不備とgreedとbureaucracyによる自由の抑圧システム。この二つの犠牲者は我々自身である。たとえば連日どこかで繰り返される「人身事故」のアナウンス。私を含めて人はみな遅刻を気にして舌打ちする。我々の同胞の一人が、システムの犠牲になっていまこの近くで命を失った(かもしれない)にも拘らず!本当は、誰にも犠牲者を哀悼する気持ちはあると思う。でも忙しさなどからその気持ちを無意識に抑制してしまうのだ。その小さな隠蔽が、人々の心ここに在らずの状態(認知の歪み)をさらに助長していく。

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アッパーグラウンド

2013年07月16日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 “アンダーグラウンド”村上春樹著(講談社文庫)を読んだ。1995年3月20日(月曜日)、都内の地下鉄で何が起こり、被害者が何を考えどう行動し、そしてその後どういう状況に置かれたのか。

 膨大なインタビューを通して浮かび上がるのは、通勤地獄と長時間勤務に耐える「近代家族」の姿と、非常時に社会基盤(インフラストラクチャー)を効率的に運用できないResource Planning型リーダーシップの欠如だ。このドラマの主人公は1995年の日本社会そのものだと思う。だからこの項のタイトルは、アンダーグラウンドではなく、アッパーグラウンド(地上)とした。

 リーダーシップには二種類ある。一つは、システム全体を俯瞰して資源配分などを効率よく進めるResource Planning型、もう一つは、システムの中に入り込んで改善を行なうProcess Technology型である。今の日本語的発想は、環境に同化しやすいので、後者には強いが前者には弱い。

 「新しい家族の枠組み」の項で述べたように、21世紀に入って、家族や労働のあり方に対する価値観は、根本的に変わってきている。これは、このブログで指摘している“モノからコトへ”のパラダイム・シフト(略してモノコト・シフト)に呼応した世界的潮流だ。

 20世紀的価値観は、

1. 家内領域と公共領域の分離
2. 家族成員相互の強い情緒的関係
3. 子供中心主義
4. 男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5. 家族の団体性の強化
6. 社交の衰退
7. 非親族の排除
8. 核家族

といったものだったが、「新しい家族の枠組み」の価値観は、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

といったことだ。勿論、両者は当面斑模様のように混在する。

 新しい家族や労働のあり方に関する価値観は、新しい産業システムと、それを支えるエネルギーや交通、住宅や社会保障などの社会基盤を必要とする。20世紀的価値観における産業システムは、基本的に、大量生産・輸送・消費だったから、それを支える社会基盤も、高度な交通網、郊外団地、終身雇用を前提とした年金制度などが用意されたわけだ。

 価値観が変われば、それに相応しい産業システムも変わる。日本におけるモノコト・シフトでは、その社会的事情(歴史や経済、地理や人口構成など)に応じて、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術といった産業システムが相応しいことは、「世界の問題と地域の課題」の項で述べた。

 あの事件から18年後の2013年現在、家族や労働のあり方に関する価値観が変わってきているにも拘らず、Resource Planning型リーダーシップの欠如の方は相変わらずだ。

 本来、これからの社会基盤は、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術といった新しい産業システムを支えなければならないのに、Resource Planning型リーダーシップの欠如によって、そちらは、旧態然とした大量生産・輸送・消費の産業システムを支えるままなのだ。老朽化も目立っている。「新しい家族の枠組み」の項で、

(引用開始)

 日本社会は今、「近代家族」の崩壊を目の当たりにしながらも、糸の切れた凧のように彷徨っている。それは、敗戦直後アメリカに強制された理念優先の新憲法のもと、長く続いた経済的高度成長が、まともな思考の停止と麻薬のような享楽主義とを生み、環境に同化しやすい思考癖(日本語の特色)と相俟って、財欲に駆られた人々による強欲支配と、古い家制度の残滓に寄りかかった無責任な官僚行政とを許しているからである。

(引用終了)

と書いたけれど、社会基盤の方が旧態然としたままだから、多くのまともな人々も、心ここに在らずの状態で、20世紀型の通勤地獄と長時間勤務に従っている、というのが日本社会の(少なくとも東京の)現状ではないだろうか。

 村上氏が“アンダーグラウンド”を書き上げたのは1997年のことだ。まだ「モノコト・シフト」や「新しい家族の価値観」はその全貌を現していないけれど、この作品は、村上氏の作家的直感による「近代家族と戦後的日本」への挽歌ともいえると思う。村上氏は“アンダーグラウンド”のあと、日本社会のアッパーグラウンド(地上)を、“スプートニクの恋人”、“海辺のカフカ”、“アフターダーク”と追いかけていき、2010年“1Q84”に至るわけだが、そこでは、リトル・ピープルに象徴される20世紀的価値観が崩壊した世界が描かれている。以前「1963年」の項で、村上氏は「現実は1984年以降、暗澹たる“1Q84”の世界に迷い込んだままだ」と言いたいのかもしれないと書いたけれど、その作品発想の種は、“アンダーグラウンド”の頃に生まれたのだろう。

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里山と鎮守の森

2013年07月11日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 “森の力”宮脇昭著(講談社現代新書)という良い本を読んだ。まずは新聞の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 副題は「植物生態学者の理論と実践」。1970年代から世界各国で植樹を推進する著者は、日本全国で鎮守の森に代表される土地本来の環境の総和から導かれた「潜在自然植生」を調査し、それをもとに「ふるさとの森」再生にとりくんできた。現在進行する、被災地のがれきも使った災害に強い自然の復元のためのプロジェクトにいたるまでを概説する。

(引用終了)
<朝日新聞 5/19/2013>

 今回この本を読んで特に腑に落ちたのは、その土地本来の樹木(潜在的自然植生)と、里山のそれとの違いだ。「里山ビジネス」の項で述べたように、里山は、人の生活を支える資源循環のシステムである。だから土地本来の樹木を植えるわけではない。本書から、その違いの部分を引用しよう。

(引用開始)

 里山と言われて親しまれてきた雑木林もまた土地本来の森ではありません。雑木林とは、国木田独歩の『武蔵野』や徳富蘆花の『自然と人生』に出てくるようなクヌギ、コナラ、エゴノキ、ヤマザクラなどの落葉広葉樹林で、長い間それが自然の森だと思われてきました。学会でも一九六〇年代半ばまでそれが定説でした。
 しかし、わたしがドイツで学んだ潜在自然植生の概念からすると、それもまた土地本来の森ではないのです。
 里山とは、何百年もの間、人間が薪や木炭をつくるための薪炭林として定期的に伐採したあとの切り株から芽生えが生長した「伐採再生萌芽林」であり、二〜三年に一回の下草刈りや落ち葉掻きなどの人間活動の影響下における代償植生、置き換え群落として持続してきたのが雑木林です。化学肥料が無かった時代に、あくまでも人間が肥料・飼料・建築材などの「資源」として利用するために管理してきた二次林なのです。
 つまり、都市公園の中や地域の散策の場としては、数百年から人間活動と共存し、人間が手入れしてきた雑木林が好ましい。その一方で、環境保全機能や災害防止機能を重視するのであれば、潜在自然植生に基づく土地本来の森が望ましいと言えます。

(引用終了)
<同書 71−72ページ(ふりがな省略)>

潜在自然植生に基づく森は、一度木々を植えてしまえば、そのあと余り手を掛ける必要がないという。だから流域の環境保全や災害防止に向いているのだ。里山と長く親しんできた日本人は、「潜在自然植生」のことを忘れ、戦後、いたるところに生育が早くまっすぐ伸びて使いやすい、しかし手入れの必要なマツ、スギ、ヒノキを造林してしまったということらしい。

 日本の潜在自然植生は、照葉樹林(常緑広葉樹林)地域ではシイ、タブ、カシ類、落葉(夏緑)広葉樹林ではブナ、ミズナラ、カシワなどが主木だという。それらは、いまも地域の「鎮守の森」に残っているという。これからの日本の植林は、「里山」と「鎮守の森」とのバランスを考えていく必要がありそうだ。

 紹介文にもあるとおり、宮脇氏は、東日本大震災後の防潮提林を潜在自然植生によって作ろうというプロジェクトを進めておられる。くわしくは本書をお読みいただきたいが、宮脇方式の植樹方式においては、木を植えるマウンド(丘)づくりが必要で、その基礎に被災地の瓦礫が使えるという。とても優れたアイデアだと思う。プロジェクトはすでに、宮城県岩沼市の沿岸部などで、「千年希望の丘」事業として始まっているようだ。

 尚、宮脇氏の本は、以前「森の本」の項でも紹介したことがある。併せてお読みいただけると嬉しい。私は木がとても好きだ。これからもその植生や効用について勉強していきたい。

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自分の殻を破る

2013年07月02日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「思考の癖」の項で、自分の後姿(思考の癖)をよく知ると、それによって生じた認知の歪みを修正できると述べたけれど、もっと積極的考えれば、自分の後姿をよく知ると、自分の殻そのものを打ち破ることが出来ると思う。

 ここでいう自分の殻とは、性格や思考の癖、知識や経験などを合わせた自分の力の限界を指し、性格(パーソナリティ)そのものではない。殻とは、英語でいうdispositions(資質)という言葉に近いのではないだろうか。だから(この定義でいうと)自分の殻を破るとは、自分の資質を高めるという意味になる。

 前回、自分の後姿(思考の癖)をよく知るためには、言語や時代のパラダイムなどと並んで、自分の性格について理解を深める必要があると書いたわけだが、自分の性格の来歴を知れば、思考の癖が見えてくると同時に、どうすればその癖を直せるかも分かってくると思う。知識や経験は別に積むとして、自分の性格とその来歴、思考の癖との相関を見つめることで、どういうトレーニングをすれば、自分の殻を破れるか、自分の資質を高めることが出来るかが分かってくる筈だ。

 参考までに、「6つのパーソナリティ」の項で述べたPCM (Process Communication Model)による性格(パーソナリティ)の分類を再掲しておこう。

(1)リアクター:感情・フィーリングを重要視する人。
(2)ワーカホリック:思考・論理、合理性を重要視する人。
(3)パシスター:自分の価値観や信念に基づいて行動する人。
(4)ドリーマー:内省、創造性に生きる静かな人。
(5)プロモーター:行動の人。チャレンジ精神が旺盛。
(6)レベル:反応・ユーモアの人。好きか嫌いかがという反応重視。

 勿論、この分類はいわば「理念型」で、現実にはみなそれぞれの要素を併せ持っているわけだが、食べ物の味覚(甘み・酸味・塩味・苦味・旨み)と同じで、性格はその特徴が前面に出てくるから、どのタイプが一番当て嵌まるかを見れば、自分の性格が大体分かると思う。

 性格の来歴については、生来的(内的)なものとして、性差、体質、体格、運動の癖(利き腕など)があり、後天的(外的)なものとしては、育てられた環境(家族や社会)、教育、人生経験などがあるだろう。

 性差については、「6つのパーソナリティ」の項で、男性は(2)、(3)、(5)、女性は(1)、(4)、(6)のタイプが多いらしいと書いたけれど、さらに「女性性と男性性」などの項も参照していただきたい。

 自分の殻などという曖昧な言葉を使ったため、話が逆に見えにくくなったかもしれない。整理の意味で、このブログで使っている言葉の定義を書いておこう。全体の構成が分かると思う。

●本来の人とは、

理性を持ち、感情を抑え、他人を敬い、優しさを持った責任感のある、決断力に富んだ、思考能力を持つ哺乳類

●人の健全な認知(思い)とは、

健全な脳(大脳新皮質)の働きと健全な身体(大脳旧皮質・脳幹)の働き

●健全な脳の働きとは、

相手や環境についての構造や働きを理解し記憶できること、決断できること、責任感を持っていること、自分の思考の癖、性格、得意・不得意を自覚できていること、過剰なgreed(財欲と名声欲)を抑えることができること、感情や好き嫌いを抑えることができること。

思考の癖とは、健全な脳の働きを妨げる要因となるような習慣

●健全な身体の働きとは、

相手の気持ちを思いやり敬うができること、相手や環境につて豊かな感情を持ち共感(または反感)できること、自分の体調(恒常性)や三欲(食・睡・排)を調整・コントロールできていること。

●性格(パーソナリティ)とは、

脳の働きと身体の働きとを合わせたその人の特徴

●自分の殻とは、

性格や思考の癖、知識や経験などを合わせた自分の力の限界を意味し、英語でいうdispositions(資質)に近いと思われる。

●認知の歪みとは、

二分割思考(all-or-nothing thinking)
過度の一般化(overgeneralization)
心のフィルター(mental filter)
マイナス思考(disqualifying the positive)
結論への飛躍(jumping to conclusions)
拡大解釈と過小評価(magnification and minimization)
感性的決め付け(emotional reasoning)
教義的思考(should statements)
レッテル貼り(labeling and mislabeling)
個人化(personalization)

●認知の歪みを誘発する要因とは、

<内的要因>

体全体:病気・疲労・五欲
脳(大脳新皮質)の働き領域:無知・誤解・思考の癖(くせ)
身体(大脳旧皮質・脳幹)の働き領域:感情(陽性感情と陰性感情)
陽性感情(愛情・楽しみ・嬉しさ・幸福感・心地よさ・強気など)
陰性感情(怒りと憎しみ・苦しみ・悲しさ・恐怖感・痛さ・弱気など)

<外的要因>

自然的要因:災害や紛争・言語や宗教・その時代のパラダイム
人工的要因:greedとbureaucracyによる騙しのテクニック各種
(greedとは人の過剰な財欲と名声欲、bureaucracyとは官僚主義)

●人類の宿啞とは、

(1)社会の自由を抑圧する人の過剰な財欲と名声欲
(2)それが作り出すシステムの運用とその自己増幅を担う官僚主義
(3)官僚主義を助長する我々の認知の歪みの放置

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