夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


現在地にあなたはいない

2012年12月25日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 “日本語と英語”片岡義男著(NHK出版新書)によって、日本語の話を続けよう。この本には、先回引用した「いつのまにかそうなっている」という項を含め、全部で83項目の日本語と英語に関する挿話が載っている。先回引用した本カバー裏の紹介文にある、「風呂を取る(take a bath)」ものだと思っていた少年は、ずっと「風呂に入る」ということが分からなかった…という話は、前書きの「一枚にインデックスカードに値する」という項に書かれている。日本語は、「状態」や「環境」主体の言葉だから、日本人は「風呂」を場所に見立ててそこに「入る」わけだが、動詞で能動的に働きかける主格中心の英語では、人が「風呂を取る」と表現する。たしかに日本人は何にでも入りたがる。

(引用開始)

 風呂に入る以外に、日本語の人たちは、どこへ入るか。小学校に入る。会社に入る。保険に入る。家庭に入る。話に入る。仲間に入る。人の輪に入る。鬼籍に入る、という入りかたもある。「風呂を取る」などと言っていた子供が風呂に入ることを学んだのは、ずっとあとになってからのことだった。

(引用終了)
<同書 18ページ>

仲間に入りたがるから、日本人は仲間外れにされることを極端に怖がる。会社に入るから、「出る」ことに勇気がいるわけだ。このように、83項目の挿話のどれも面白いのだが、英語と日本語の違いを端的に表すのが“「現在地」にあなたはいない”という一番初めの挿話だ。引用してみよう。

(引用開始)

 駅の改札口を出て、確かにこちらだったと思いながら、南口の商店街のほうへ歩いていこうとすると、交番の向かい側、タクシー乗り場の端に、近所の案内地図の掲示板が立っているのを見つける。最近ではこのような掲示板は堅牢な構造物となっている場合が多い。駅を中心とした単なる地図が、透明な保護樹脂に守られて暇そうにしている。役に立たない地図だから暇なのだ。
 この近辺案内地図のまんなかあたり、少しだけ下の位置に、赤い色で塗りつぶした丸、三角、あるいは四角などの図形があり、その図形の上に黒い愛想のない文字で、「現在位置」と印刷してあるのを誰もが見る。「現在位置」とは不思議な言葉だが、誰もそんなことは思わない。「あなたが現在いる位置はここです」という意味が、現・在・位・置の、そしてこの順にならんだ、四つの漢字による言葉の内部に折りたたまれている。日本で標準的な教育を受けた人なら、そのくらいのことは言われるまでもなくわかる。「現在位置」という漢字の列をひと目見ただけで、その内部に折たたまれている意味が、誰にでもとっさに理解できる。(中略)
 近辺案内地図の「現在位置」あるいは「現在地」という日本語に該当する英語の言いかたは、You are Hereだ。案内地図をふと見た人は誰もが、ほとんど名ざしで、youと特定される。そのyouはhereつまり、「ここ」にあるのだ。youと名ざしされたその人の問題として、hereという地図上の一点が提示される。誰でもがyouであり得るけれど、案内地図のなかからyouと言われたなら、そのときそこで地図を見ているその人が、特定されている。このことに比べると、「現在位置」、あるいは「現在地」という日本語の言いかたは、状況の一般論だ。現在という漠然の極みのような状態のなかに、「位置」や「地」が、なぜだか知らないがそこにある。

(引用終了)
<同書 28−30ページ>

近辺案内地図における日本語の「現在地」という表示と、英語の「you are here」という表示の違いに、「状態」や「環境」を中心に考える日本語的発想と、「主格」を中心に考える英語的発想の違いとが端的に示されている。

 以前「言語技術」の項で、“英文法の謎を解く”副島隆彦著(ちくま新書)から、

(引用開始)

 日本文を英文(ヨーロッパ語の文)と比較して、ひとつの大きな特徴があることに気づく。日本文は、どんなに複雑に見えようとも「A=B」に還元できる言語である。「きのうは疲れた」でも、「みんなの願いは景気回復だ」でも「彼はダメだ」「彼女はうるさい」でも何でも、全て、この「A=B」の構成になっている。これを英文に直すと、それが何通りかの文構成になるのである。ここに日本語という言語の重大な秘密が隠されているのではないか。

(引用終了)
<同書52−53ページ>

という文章を引用したけれど、日本語には、「A=B」を表す等価としてのbe動詞はあるけれど、存在そのものを表すbe(存在詞)が不在である。「you are here」のare(be動詞)は、この存在詞なのであって、「A=B」を表す等価としてのbeではない。

日本語に「you are here」と云える言葉を創り出さない限り、日本人はいつまでも○○に入りたがり続けるだろう。この○○は、TPPでも、原子力ムラでもいいが、○○に入る(出る)というメンタリティに留まっている限り、手ごわい組織との交渉は、初めから負けるに決まっている。なぜならそこには、自立した個人(Iやyou)が不在なのだから。この先の片岡氏の文章を引用しよう。

(引用開始)

 「現在位置」、あるいは「現在地」は、案内地図の掲示板が立っているその位置を示しているだけだ。目的地までの道順を探そうとしてその案内板の前に立つ人がいれば、その人は案内板とほぼおなじ位置にいると言ってもいいだろう、という恐ろしいまでのyouの不在が、「現在位置」、あるいは「現在地」の背後にある。「あなたがいまいるのはここです」ときちんと日本語で表記した案内地図が、しかし、この日本にけっしてないわけではない、きっとどこかにある。

(引用終了)
<同書 30ページ>

ということでこの項は終わっている。「あなたがいまいるのはここです」ときちんと日本語で表記した案内地図。それは、はたして日本の何処かにあるだろうか。

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いつのまにかそうなっている

2012年12月18日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 先回「日本語と社会の同質性」のなかで、日本語の環境依存性について触れたけれど、“日本語と英語”片岡義男著(NHK出版新書)にも、同じような指摘があるので紹介したい。まずは新聞の書評を引用する。

(引用開始)

片岡義男著『日本語と英語』 副題は「その違いを楽しむ」。英語と日本語の表現はどう違うのか?拾い上げた表現をインデックスカードに書き留めて両方の言葉と向き合ってきた著者が、具体的な例から論じる。「状態」を基本にする日本語表現と、動詞で能動的に働きかける英語。英語訳の日本古典文学に異なる世界観を読み解くなど、言葉を通して見た文化論でもある。
(NHK出版新書・735円)

(引用終了)
<朝日新聞 1028/2012>

ということで、ここでいう「状態」とは、「環境」とほぼ同義である。本のカバー裏の紹介文も引用しておこう。

(引用開始)

「風呂を取る(take a bath)」ものだと思っていた少年は、ずっと「風呂に入る」ということが分からなかった…主体の思考とアクション(動詞)に奉仕する言葉である英語。一方、世界をすでにでき上がっていてそこに入っていく「状態」として捉える日本語。その二つの言葉の間で、思考し、楽しみ、書き続けてきた作家が、きわめて日常的で平凡な用例をとおして、その根源的な際を浮き彫りにする異色の体験的日本語論/英語論。

(引用終了)

 この本に、「いつのまにかそうなっている」と題された項目がある。このブログでいう、日本人はなぜ人為的な環境・組織からの精神的自立が果たせないのかという話に繋がるので、少々長いが一部を引用してみたい。

(引用開始)

 主語は必要ない、という日常の言葉で、日本の人たちはその日常を生きる。自分は言葉で生きている、というような自覚などいっさい必要がないほどの日常だ。そしてそこは主語のない世界だ。言葉の構造によって言いあらされる内容のなかに、主語は内蔵される。したがってそれは暗黙の了解事項であり、いちいちおもてにあらわれる必要はないし、言葉の構造じたい、常に主語を明確に立てるようには出来ていない。
 主語がIやyouならそれらは主語にならないし、Iやyouの思考や行動を引き受けて言いあらわす動詞も、必要ないから姿をあらわさない。動詞が働きかける目的語その他、主語からの一連の構造的つながりはそこになく、そのかわりに、いつのまにかそうなっている状態、というものが言いあらわされる。英語では、なんらかの動詞によって、そうなっていきつつある動態として表現されるものが、日本語ではすでにそうなっている状態が、名詞で言いあらわされる。そうなっている状態とは、Iやyouによって思考され行動された結果のものではなく、いつのまにかそうなり、いまもそのとおりそこにある、その状態というものだ。(中略)
 なにごとも動詞をとらずにすませるための主語の不在。思考が嫌いなのだろう。というよりも、それが出来ない。主語は隠れていることがほとんど常に可能だから、主語の主語たるゆえんである思考も隠れる、つまりそれは出来ないし嫌いだとなると、当然のこととして、思考に基づく行動も嫌いだろう。だから思考と行動の両方を放棄しても、日常の言葉を日常的に使って日常を営むには、いっさいなんの不自由もない。
 いつのまにかそうなっていて、いまもそうなったままの状態のなかに、人は入りたいと願う。いつのまにかそうなって、いまもそのままに、そこにある状態。人々はこれが大好きだ。だからそこに自分も入りたがる。いつのまにかそうなってそこにある状態とは、現状とその延長に他ならない。それが大好きでそこに入っていたいのだから、いまそこにあるその状態には、身をまかせるかのように従わざるを得ない。なんの疑問も抱くことなく、ほぼ自動的に従う。だから問題はなにも見えないし解決もされない。現状は悪化していくいっぽうだとしても。
 Youという呼びかけのひと言は、きわめてぜんたい的だ。youと呼ばれたその人のすべてがyouなのだ。youというひと言のなかに、そう呼ばれたその人のすべてがある。その人はyouと呼ばれることによって、すべてが丸出しのような状態になる。
 日本語の場合は呼びかけかたにいろいろある。そのときその場でその相手から必要とされる自分、という部分的な自分が、いろんな呼びかけかたのひとつひとつをとおして、呼びかけられる。それ以外の自分は隠れている。保護されている。自分は他者に対してほとんど常に、部分的な自分なのだ。Iについてもまったくおなじだ。Iがそうだから、youもそうなる。その時その場でその相手に必要とされる部分的な自分など、Iやyouにはあり得ない。(後略)

(引用終了)
<同書 101−104ページ>

いかがだろう。日本人はなぜ人為的な環境・組織からの精神的自立が果たせないのかというと、日本語が「なにごとも動詞をとらずにすませるための主語の不在」の言語だからなのだ。日本人が、公的な領域で精神的自立を果たすためには、日本語のなかに、Iやyouとおなじような「ぜんたい的」な主格を表す言葉が必要なのだろう。

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posted by 茂木賛 at 10:26 | Permalink | Comment(0) | 言葉について

日本語と社会の同質性

2012年12月11日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「日本の農業」の項で紹介した神門善久氏は、その著書“日本農業への正しい絶望法”(新潮新書)の中で、日本社会の「同質性の問題」を指摘しておられる。その部分を引用しよう。

(引用開始)

「自由」なはずの今日の日本においても、不愉快な正論を大衆は抹殺しようとする。マスコミと「識者」が事実を捻じ曲げた論陣を張ることでそういう大衆に迎合する。本書では、農業という話題を使って、七十五年前も今も変わらない日本社会の体質を描いた。
 おそらく、日本社会の同質性の高さが、この歪みの元凶だろう。不快な事実から目を背けようとするのは日本人に限ったことではない。しかし、異質性が高く、価値観の異なる隣人に常に晒されている社会では、相互監視の緊張感があり、非生産的な逃避行に対しては隣人が目ざとく咎める。ところが、日本社会は同質性が高いため、まとまって「見なかったことにしよう」という雰囲気を作れば、それが通用してしまう。

(引用終了)
<同書 230−231ページ>

 このブログでは、カテゴリ「言葉について」や「公と私論」などで、環境に同化しやすい日本語の特色について繰り返し述べてきた。日本語は、母音を主体に言語認識するので、対話者同士の意識や自然との融和を促し、対話の場における<我>と<汝>との繋がりを生む。<我>と<汝>との繋がり、すなわち「和」を生み出す日本語には異質物を調和させる力があり、それ故に自然環境を守る力が強いのだが、同時にそれは、自然環境に対してだけでなく人為的な組織に対しても同じような力として働く。自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力になってしまう。それがいわゆる「ヨソ者排除」という社会の悪しき風習を助長するのだと思う。

 母音言語の環境依存性については、「母音言語と自他認識」の項で、以下のような循環運動として説明したことがある。

(引用開始)

1.   人の言語野は左脳にある
2.   子供ははじめ右脳経由で言葉を覚える
3.   習熟すると人は左脳(言語野)で言葉を処理するようになる
4.   人の脳の自他認識機能は右脳にある

5.   日本語には身体性が強く残っていて母音の比重が大きい
6.   英語は子音の比重が大きい

7.   人は発話時に母音を内的に聴く
8.   社会と母国語の学習によって脳神経回路が組織化される
9.   母親と社会から日本語(母音語)を聴かされて育つと、母音に習熟し、発話時に母音を左脳で聴くようになる
10.  母親や社会から英語(子音語)を聴かされれて育つと、母音に習熟せず、発話時に母音を右脳で聴き続ける

11.  日本人は発話時に自他分離の右脳をあまり刺激しない
12.  欧米人は発話時に自他分離の右脳を刺激する

13.  日本語は容器(空間)の比喩が多く、擬人の比喩が少ない
14.  英語は擬人の比喩が多く、容器(空間)の比喩が少ない

15.  日本語は空間(環境や場)の論理が多く、主体の論理が少ない
16.  英語は主体の論理が多く、空間(環境や場)の論理が少ない

17.  日本語的発想は環境中心で、環境と一体化しやすい
18.  英語的発想は主格中心で、環境と一体化しにくい

19.  日本語に身体性が残り続け、母音の比重が大きくあり続ける
20.  英語は子音の比重が大きくあり続ける

(引用終了)

 このブログでは、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(Public)」−男性性

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(Private)」−女性性

といった二項対比を論じているけれど、我々が人為的な環境・組織からの精神的な自立を果たすためには、Aの側の力を意識的に強化していかなければならない筈である。

 以前「五欲について」の項で、脳の働き(大脳新皮質主体の思考)を生産(他人のための行為)に持ちいず、消費(自分のための行為)のみに使っていると、名声欲と財欲とが無限増殖すると述べたけれど、日本語的発想における脳の働きは、どうしても身体の働き(脳幹・大脳旧皮質の思考)に引きずられてしまうので、「公(Public)」の概念をしっかりさせておかないと、生産(他人のための行為)に向かうよりも、消費(自分のための行為)に向かってしまうようだ。戦前までは、よくも悪しくも家制度が「公(Public)」の概念を作っていたのだが、戦後は、父権が喪失し「公(Public)」の概念が希薄になってしまった。「マスコミと「識者」が事実を捻じ曲げた論陣を張って大衆に迎合する」のは、環境依存型の日本語の特質である「ヨソ者排除」意識に加えて、戦後顕著になった「公(Public)」の概念の欠如という面もあると思う。

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Season’s Greetings 2012

2012年12月04日 [ プレイリスト ]@sanmotegiをフォローする

 クリスマスに贈る、プレイリストによる架空ディナー・ショーはこれまで、

2009年 原由子と桑田佳祐(クワタ)「Season’s Greetings 2009
2010年 原由子「Season’s Greatings 2010

とあるが、今年は桑田佳祐(クワタ)に戻って、彼の最新アルバム「I LOVE YOU - now & forever - 」を使って企画したい。サプライズ・ゲストも登場する。

<A面>

「悲しい気持ち(JUST A MAN IN LOVE)」
「今でも君を愛してる」
「幸せのラストダンス」
「100万年の幸せ!!」
「明日晴れるかな」
「愛しい人へ捧ぐ歌」

<B面>

「明日へのマーチ」
「君にサヨナラを」
「CAFÉ BLUE」
「DESTINY」
「セシルの週末」
「Kissin’ Christmas(クリスマスだからじゃない)」

ということで、今回も「A面B面合わせて12曲」というプレイリスト作成の独自ルールに従った。

 <A面>の最初の二曲、「悲しい気持ち(JUST A MAN IN LOVE)」と「今でも君を愛してる」は、クワタ初期のソロアルバム「Keisuke Kuwata」(1988年)から。懐かしい気分になる。次の二曲、「幸せのラストダンス」と「100万年の幸せ!!」は、最新アルバムから。さくらももこさんが作詞した「100万年の幸せ!!」は、震災後の日本を元気にしようという気持ちが込められている。クワタも続けて、愛しい人へのオマージュ「明日晴れるかな」と「愛しい人へ捧ぐ歌」を歌う。

 <B面>の最初の曲「明日へのマーチ」も前曲同様、愛しい人たち、特に震災で故郷を失った東北の人たちへの応援歌だ。二曲目の「君にサヨナラを」は、2008年に亡くなったお姉さん岩本えり子さんへの追悼歌でもある。三曲目は、最新アルバムから「CAFÉ BLUE」。そしてここでサプライズ・ゲストが登場する。

 なんと、ユーミンこと松任谷由美が、「DESTINY」と「セシルの週末」の二曲を歌う。なぜここでユーミンが登場するかというと、「幸せのラストダンス」の歌詞にそのヒントがある。そのなかに、ユーミンが「DESTINY」と「セシルの週末」で歌った“Destiny”と“Marry me”という二つの言葉が、韻を踏むように印象的に使われているのだ。

 そのあとクワタが再登場。フィナーレに、ユーミン作詞のクリスマス・ソング「Kissin’ Christmas(クリスマスだからじゃない)」を歌う。実際の曲はユーミンがボーカルに加わっているわけではないが、そこは架空ディナー・ショー、バックボーカルにユーミンも加わっていると想定すると尚盛り上がるだろう。

 以下、曲の入ったアルバムをリストしておく。といってもクワタの曲は全て
「I LOVE YOU - now & forever - 」からだから、ユーミンの曲だけリストしておこう。iPodに入れて楽しんでいただきたい。

「DESTINY」(1979年 松任谷由美「悲しいほどお天気」)
「セシルの週末」(1980年 松任谷由美「時のないホテル」)

 クワタが「幸せのラストダンス」を作詞したとき、ユーミンの「DESTINY」と「セシルの週末」にある“Destiny”と“Marry me”という二つの言葉が頭にあったかどうかは分からない。しかし、この最新アルバムで、ユーミン作詞の「Kissin’ Christmas(クリスマスだからじゃない)」を初音源化したわけだから、少なくとも、潜在意識のなかには存在していたのではないだろうか。このプレイリストは、そんなことを思いながら作成した。

 尚、ユーミンとクワタのコラボとしては、以前「LONELY WOMAN」というプレイリストを作ったことがある。併せてお楽しみいただければと思う。

Season's Greetings 2012.JPG

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posted by 茂木賛 at 11:07 | Permalink | Comment(0) | プレイリスト

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