夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


“モノからコトへ”のパラダイム・シフト

2012年01月31日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「“シェア”という考え方」の項で、“シェア”の時代にとって大切なテーマの一つとして、“モノからコトへ”のパラダイム・シフトを挙げた。今回はこのテーマについて掘り下げてみたい。まず同項からその部分を引用しておこう。

(引用開始)

 シェアという「コト」の分析には、アフォーダンスや言語、エッジ・エフェクトや境界設計といった「関係性」の人間科学、免疫学(生物学)や気象学、流体力学や波動力学、熱力学といった「コトの力学」の応用が必要だと思われる。

(引用終了)

ここで述べたのは学問分野だが、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」はそれに留まるものではなく、ビジネスやアート、街づくりなどといった広範囲な社会現象として捉えることができると思う。街づくりに関しては、先日「場所のリノベーション」の項で、

(引用開始)

 「三低主義」にせよ「場所のリノベーション」にせよ、これからの街づくりには、その街に住む人々や建築家の「場」に対する感度が問われているのである。

(引用終了)

と書いたように、建物という「モノ」自体よりも、「コトの起こる場」の力を大切にする考え方が重要になってくると思われる。

 アートに関しては、“ミュージッキング”クリストファー・スモール著(水声社)という本が参考になるだろう。精神科医齋藤環氏の書評を引用する。

(引用開始)

 “音楽というモノ”は存在しない。著者は断言する。あるのはミュージッキングなのだと。それは作曲家や演奏家の専有物ではない。リスナーも、ダンサーも、ローディーも、チケットのもぎりも、およそ音楽に関わるすべての人々は、ミュージッキングに参加している。
 そう考えることで、音楽は一方的な鑑賞の対象であることをやめ、あらゆる“関係性”に開かれたパーフォーマンスとなる。この視点から、とあるシンフォニー・コンサートの成立過程が詳しく検討される。そこで何が起こっているのか。
 ミュージッキングとは関係することだ、と著者は言う。それは「関係を探求し、確認し、祝う」ことなのだ。
 音楽の精神分析が難しいのはなぜか。ようやくその謎が解けた。分析において重要なのは「否定」や「否認」だ。しかし音楽には「否定」がない。そこにあるのは祝うこと、すなわち存在の肯定なのである。

(引用終了)
<朝日新聞 10/30/2011>

このような「モノ」から「コト」への関心のシフトは、音楽だけではなく、他のアート全般についても云えるのではないだろうか。先日“「本屋」は死なない”という書籍について書いた「本の系譜」という考え方も、本という「モノ」から、系譜や繋がりという「コト」への関心のシフトを示している。

 ビジネスの関しては、以前「仕事の達人」の項で紹介した、アップルの創業者スティーブ・ジョブズの創造性の法則の一つ、「製品を売るな。夢を売れ。」というフレーズを再度引用しておきたい。製品という「モノ」ではなく、夢や感動という「コト」を売ること。それがこれからのビジネスの中心的パラダイムとなるに違いない。

 学問分野に戻れば、生物学において最近注目されている「エピジェネティクス」なども、遺伝子という「モノ」から環境と細胞との相互作用という「コト」への関心のシフトを示している。生物学者福岡伸一氏の昨年末の書評から、“エピジェネティクス”リチャード・フランシス著(ダイヤモンド社)に関する部分を引用しておこう。

(引用開始)

 世界の成り立ちをどう捉えるか。それは、遺伝子万能論を脱しつつある生命観の問題についてもいえる。生物の姿かたちを変えるのは遺伝子上の突然変異だけではない。旧来の遺伝学(ジェネティクス)の外側(エピ)で生じている新しいパラダイムシフト。

(引用終了)
<朝日新聞 12/25/2011>

 以上見てきたように、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」は、“シェア”という時代コンセプトと手を携えて、ビジネス、アート、街づくり、科学など、多くの領域に広がっている。今後もこの現象について様々な角度から考えてゆきたい。起業のヒントが多く眠っている筈だ。

 最後にもう一言付け加えておくならば、「コト」に関して重要なのは、そこには必ず固有の「時間と空間」が関わっているということだ。「モノ」においては、それが作られた固有の「時間と空間」は内部に凍結している。「コト」においてはそれが動いている。逆に云うと、自分が気に入った「時間と空間」に注目してゆけば、必ずそこで起こっている素敵な「コト」に出会うことができるということである。そしてまた、「モノ」であっても、自分が気に入った「モノ」をよくよく観察していれば、やがて、それが作られたときの「時間と空間」が解けて見えてくるかもしれないということでもある。

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森ガール II 

2012年01月24日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 「森ガール」の話を続けたい。以前「布づくり」の項で、人が身に纏う「布」は、身体境界の社会的な表現でありまさに「第二の皮膚」といえるだろうと述べたけれど、服装は、社会と自身との境界設計であるという意味において、街づくりにおける中間領域(縁側や庭や道路)と共通するところがある。

 街づくりにおいて、“三低主義”の三浦展氏が注目しているのが、中央線沿線の高円寺である。三浦氏は、去年出版されたSMLとの共著書“高円寺 東京新女子街(トウキョウシンジョシマチ)”(洋泉社)のなかで、次のように書いておられる。

(引用開始)

 路地が多く、街区が小さい高円寺では、都市のなかに多くの隙間が生まれやすい。その隙間を利用して、人が集まり、飲み、食べ、語らう場所ができる。
 人が集まる場所にはいろいろある。子供連れの母親は公園にあつまるだろう。仕事帰りのサラリーマンはガード下の飲み屋に集まるだろう。しかし、公園に集まる場合でも、ホッとひと休みするのは緑の木陰のベンチだろう。つまり人は、ちょっとでこぼこしていて、隠れられるような空間にいるときに安らぐのである。ガード下の飲み屋、のれんで半分見えない屋台などがそうである。

(引用終了)
<同書 68ページ>

くわしくは同書をお読みいただきたいが、高円寺の「ちょっとでこぼこしていて、隠れられるような空間」づくりと、森ガールの「ゆったりしたワンピースにファーなどのふわふわしたアイテム。レギンスやタイツをはき、露出が少ない」という服装は、「街と建物」、「社会と自身」という違いはあるけれど、「境界設計」としてのテイストは共通しているように思う。

 「森ガール」の服装は、ゆったりしたワンピースにファーなどのふわふわしたアイテム、自然素材、アースカラー、重ね着、ローヒール靴などにその特徴があり、高円寺の街は、路地が多く、街区が小さく、道路に面したサーフェスが、ゆるく、でこぼこしたりひらひらしたりしている。

 三浦氏は、“高円寺 東京新女子街(トウキョウシンジョシマチ)”の「はじめに」に、次のように書いておられる。

(引用開始)

 高円寺が今とてもいい。とても時代に合ってきている。どう合っているのかというと、まず、街の雰囲気がゆるい。がつがつせずに、毎日を楽しく生きたいという雰囲気が街全体に漂っている。それが今の若者に合っているし、仕事で疲れているサラリーマンやOLの癒やしの場にもなっている。
 二番目に、ゆるいのに個性的である。郊外は巨大なショッピングモールが増え、都心の百貨店が次々と撤退し、代わりに家電量販店と世界のブランド店が競い合い、町の個性が失われている。そのなかで、高円寺は他の街にはけっしてない個性を持っている。それは、街をつくるのが大企業ではなく、あくまで自由な個人としての人間だからである。

(引用終了)
<同書 18ページ>

 その高円寺の街に、「森ガール」の聖地“HATTIFNATT”がある。

Hattifnatt.JPG

この“HATTIFNATT”については、同書の「高円寺ガーリー日記」というコラムから引用しよう。

(引用開始)

 ティータイムは、お気に入りの「HATTIFNATT(ハティフナット)」。今日は2階の奥の席をゲットする。“森の中席”と勝手に命名。“さくさくシフォンのふわふわショート”と“プリンのかくれんぼ”に“かぼちゃ君ちのモンブラン”を注文。お隣の席のラテアートがすごくかわいい。真似して頼んじゃえ。待っているあいだのさっき買ったものをお互いにお披露目。きゃっきゃっ。ケーキをちょっとずつ楽しみながらこの後の予定について話し合う。話し合いの結果、南口へ。

(引用終了)
<同書 冒頭カラーページ>

 「“シェア”という考え方」の時代を象徴する「ゆるくて個性的で自由」な高円寺の街に、これからの安定成長時代の産業システムを象徴する「森ガール」の聖地があるのは、考えてみれば当然のことなのかもしれない。これからも高円寺界隈に注目してゆきたい。

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森ガール

2012年01月17日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「場所のリノベーション」で紹介した“三低主義”のあとがきの中で、三浦展氏は、

(引用開始)

 実際、今、若い世代を中心に、時代の感覚がすごく変化している。たとえば、バブル時代の若い女性は、銀座で遊び、青山の高級マンションに住み、高級外車や高級ブランド品を買う暮らしに憧れた。しかし現代の若い女性は、青山のマンションよりも谷中の長屋に住みたがる。高級外車には興味がなくなり、鉄道が好きな「鉄子」や中古カメラを持って浅草や向島を散歩する「カメラ女子」が増えている。ブランド品への関心もなくなり、ユニクロや無印や古着や浴衣を好んでいる。お墓めぐりを趣味とする女性すら増えているという。そこでは完全に「近代」が笑いとばされている。と言うか、すでに「近代」が眼中にない。

(引用終了)
<同書 250ページ>

と書いておられる。先日「“シェア”という考え方 II」のなかで、

(引用開始)

 地球規模でエネルギー循環が求められるようになり、日本が安定成長時代に入った今、われわれの社会は必然的に変わらざるを得ない。どう変わらなければならないかというと、人々は「世間」に縛られすぎることなく「所有原理」を自覚して精神的に自立すること、政治やビジネスは、女性性に基づく「関係原理」を大胆に取り入れること、この二つである。

(引用終了)

と書いたけれど、“三低主義”のルーツには、この「女性性に基づく関係原理」があるようだ。

 さて「鉄子」や「カメラ女子」の元祖と言えば、やはり「森ガール」ということになるのではないだろうか。過去の新聞から「森ガール」に関する記事を拾ってみよう。

(引用開始)

 「森ガール」は三年前、インターネットの会員制サイト「mixi」で森ガールコミュニティーができてから、表舞台に登場した。「森にいそうな女の子」のファッションは少女っぽいメルヘンな世界。ゆったりしたワンピースにファーなどのふわふわしたアイテム。レギンスやタイツをはき、露出が少ないのも特徴だ。

(引用終了)
<東京新聞 11/23/2009>

(引用開始)

 森ガールと呼ばれる人はファッションや雑貨など、趣味の領域では好き嫌いがはっきりしている。マニアの気質を備えてはいるのだが、執着心が強いわけではない。「ないもの」ねだりを繰り返すのではなく、手の届く届くもので満足する。そこには、「今あるもの」を大切に繰り返し使おうとするエコロジーの考え方からの感化もみてとれる。(中略)健康と環境に配慮したライフスタイルを表す「ロハス」ブームの系譜に連なるかのような、環境意識の高まりにつながる要素を抱えている。

(引用終了)
<日経新聞 1/23/2010>

ということで、その服装には、上の記事にある「ゆったりしたワンピースにファーなどのふわふわしたアイテム。レギンスやタイツをはき、露出が少ない」という特徴のほかに、自然素材、アースカラー、重ね着、ローヒールの靴などといった特色もある。

 それらの特徴は、勿論西洋化を生活に取り入れたあとのファッションだから着方やスタイルは違うけれど、自然素材、重ね着、ローヒール、ゆったりとしたワンピース、露出が少ないなどといった点で、日本古来の「和服」とコンセプトが似ている。

 以前「牡蠣の見上げる森」や「森の本」の項で、日本では古来より「森」が産業や文化のルーツとなっていることをみてきた。言語に強い身体性を持つ日本人は、本来的に自然志向である。そういう意味で「森ガール」の生まれた土壌は肥沃であり、その現象は決して一過性の流行とは思われない。以前「本の系譜」の項で紹介した“「本屋」は死なない”のなかに登場する「ひぐらし文庫」の原田真弓さんは、昨今のいわゆる“ブーム本”を批判するなかで、

(引用開始)

「最近だと“森ガール”のブームがそれにあたると思います。森の中にいるイメージの女の子やそのファッション。見方を変えれば昔からあるものだし、多くの人にはなんだかよくわからないですよね(笑)。最初にそういう視点で本をつくった出版社があって、これは面白い、と私も思った。魅力が定着するには、時間をかけてゆっくり広がっていったほうがいいんです。それが、あっという間に行き渡っちゃう。(中略)じっくりやれば、渋谷の洋服屋さんなんかとも組んで、いろんなことができたと思うんだけれど」

(引用終了)
<同書 35‐36ページ>

と述べて、関連本のブームが過去のものになってしまったことを嘆いておられる。関連本ブームは去ってしまったはかもしれないが、「森ガール」が成長しそのファッションがさらに洗練されてくれば、日本古来の「和服」とも融合(fusion)し、近代以降の日本の服装として社会生活に定着していくのではあるまいか。

 自然志向の「森ガール」は、多品種少量生産、食の地産地消、資源循環といったこれからの安定成長時代を象徴し、政治やビジネスに必要な「女性性に基づく関係原理」を体現する存在なのである。

 「鉄子」や「カメラ女子」のみならず、「山ガール」、「新書読書法(2010)」で紹介した三浦展氏の“シンプル族”といった人たちは、みな「森ガール」の血筋を受け継いでいるといってよいと思う。

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posted by 茂木賛 at 10:07 | Permalink | Comment(0) | 起業論

場所のリノベーション

2012年01月10日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 「フレームとシークエンス」の隈研吾氏と「“シェア”という考え方」の三浦展氏が、都市や建物のあり方について対談した本が去年出ている。“三低主義”隈研吾+三浦展共著(NTT出版)がそれで、新聞の書評には、

(引用開始)

 『負ける建築』を書いた建築家と『下流社会』の消費社会研究家が、時代状況や建築史をふまえつつ生活重視の住居論や都市論を語る。「三低」は低層、低姿勢、低コストなどを意味し、丹下健三に続く「三高」的建造物を批判的に総括。古い住宅の再生など自身らの活動も披露しながら、新築より減築、所有よりシェア、地域の活性化、福祉や雇用など政策面にも言及。今日の気分にマッチした興味深い対談集だ。(NTT出版・1575円)

(引用終了)
<朝日新聞 2/14/2010>

とある。三浦氏のいう三低主義とは、街の記憶を大切に考え、古い街並みや建物をリノベーションして使い回すことを楽しむ生き方であるという。以前「街並みの記憶」の項で、

(引用開始)

昨今、日本の多くの地域で、優れた街並みが廃れてきている。20世紀型の大量生産・輸送・消費システムが、行き過ぎた資本主義を生み出し、それが人々に大切な「至高的存在」を忘れさせ、街並みが醜くなった。(中略)これからは、21世紀型の「多品種少量生産」「食の地産地消」「資源循環」「新技術」といった産業システムに相応しい、新しい街づくりが必要だ。

(引用終了)

と書いたけれど、これからの街づくりは、街の記憶(「自分を確認できる優れた場所や物」=「不変項」)を大切に考えるところから始まるといって良いだろう。

 隈氏はこの対談の中で、

(引用開始)

隈  建築の設計っていうのは、結局すべて「場所のリノベーション」じゃないかって、最近よく思うんだよね。普通に考えると建築には新築とリノベーションがあって、近頃は新築よりリノベーションのほうが注目を集めている。なんてことになるんだけど、どっちも含めて結局は場所のリノベーションをやっているって考えたほうが、僕のめざしているデザインという行為の本質に近いような気がする。

(引用終了)
<同書 219ページ>

と述べておられる。場所に存在する「不変項」を引き継ぎながら、それをさらに刷新していこうという建築家の心意気が「場所のリノベーション」というキーワードに込められていると思う。

 「三低主義」にせよ「場所のリノベーション」にせよ、これからの街づくりには、その街に住む人々や建築家の「場」に対する感度が問われているのである。

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posted by 茂木賛 at 09:44 | Permalink | Comment(0) | 街づくり

イームズのトリック

2012年01月03日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 以前「マップラバーとは」の項で、“世界は分けてもわからない”福岡伸一著(講談社現代新書)に関して、

(引用開始)

 ところで、福岡氏のこの著書には、もう一つ「イームズのトリック」という面白い話題がある。それについてはまた後日触れてみたい。

(引用終了)

と書いた。今回はこのことについて考えてみたい。家具のデザインで有名なチャールズ・イームズとレイ・イームズは、「パワーズ・オブ・テン」という映像作品を作ったことでも知られている。パワー・オブ・テンとは10のn乗という意味で、その作品とは、10のn乗単位でカメラをズームイン・ズームアウトさせ、世界の階層構造を映像によって示そうとしたものだ。イームズのトリックとは、この作品に関する話だ。福岡氏の著作からその部分を引用しよう。

(引用開始)

 しかしながら、イームズのすばらしい映像にはひとつだけトリックがあった。解像度を上げて対象を拡大すればその視野はより暗くなる、というシンプルな物理学的事実が捨象されていたことである。
 生体のある細胞組織を顕微鏡で観察するとしよう。四十倍の倍率からパワー・オブ・テンを一段あげて四百倍としたとき、視野はどうなるだろうか。視野のフレームの大きさ自体はかわらない。かりに視野が正方形で、四十倍の時に見えていた映像を縦横10 x 10の方形のグリッドで分割したとすれば、その1 x 1のグリッドのひとつが縦十倍、横十倍に拡大されて、四百倍の際のフレームの縦横に貼り付けられた、ということである。だから、新しい視野に拡大して捉えられた映像は、もとの視野にあった百分の一のグリッドを切り取ったものである。そして切り取られたものは映像だけではない。映像とともに明るさも切り取られているのだ。新しい視野を照らしているのは、四十倍の視野の明るさの百分の一の光でしかない。
 したがってもし顕微鏡の倍率を十倍だけ上げると何が起こるか。それは視野が暗転するということである。そしてさらに重要な事実は、もともと見えていた視野のうち99%はその光とともに失われてしまったということである。
 イームズの映像は、倍率をどんなに上昇させても、視野はどこまでも同程度に明るかった。解像度が上がる快感だけが表現されることになった。
 暗転した視野の内に見えるもの。そしてその外に捨象されてしまったものの行方について、何かを語ることができれば良いと私は願う。

(引用終了)
<同書 42−43ページ>

ということで、イームズのトリックとは、光の量と対象の大きさとの問題であった。狐につままれたような話だが、一見科学的と思えるこのような作品にトリックが潜んでいようとは、普通なかなか気付かない。このトリック、倍率がさらに上がって、対象が可視光の波長よりも小さくなれば、単に暗くなるだけでなく、可視光のままでは対象を解像できなくなる。その場合、電子顕微鏡やSPM(走査型プローブ顕微鏡)で見たり放射光を使ったりするわけだが、そうなると対象物への影響(吸収、散乱など)も出てくるから、結果の分析も一筋縄ではいかない。様々な要因を解析して総合的にみなければならないわけだ。最終的にはそれこそ“世界は分けてもわからない”のかもしれない。

 このような極限の世界について、我々は知っているようでまだまだ理解していないことが多い。最近、素粒子ニュートリノが光よりも速く動いたという測定結果や、質量の起源とされるヒッグス粒子の発見が近づいたというニュースが話題になっている。トリックにひっかからない為にも、我々はこれらの研究を専門家任せにするのではなく、先日「鉄と海と山の話」の項で触れた“境界学問”の精神を持って、いろいろな角度から勉強・照合していかなければならないと思う。

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posted by 茂木賛 at 09:32 | Permalink | Comment(0) | 非線形科学

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