夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


不変項

2011年07月24日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「“わたし”とは何か III」の項で、近親者や友人に見守られている自分の居場所について、

(引用開始)

ここでいう「居場所」とは、物理的な場所ではなく、人から見守られているという精神的な安心感のことである。(中略)この安心感があればこそ、人は「至高的存在」に近づく作業に専念できるのだ。

(引用終了)

と書いたけれど、物理的な場所(物)であっても、優れたものは、充分精神的な「居場所」足り得る。たとえば、異郷に暮らす人にとっての一枚の懐かしい写真、求道者にとっての一冊の聖なる本、里に暮らす人々にとっての奥山、都会に暮らす人々にとっての駅前広場の一本の木、商店街の灯りなどなど。

 「わたし」にとって身近なもの、身の回りに常にある物、環境の中にあって変わらない場所、自分を確認できる優れた場所や物は、「アフォーダンス」で云うところの「不変項」という概念に近い。“アフォーダンス―新しい認知の理論”佐々木正人著(岩波書店)から不変項について引用しよう。

(引用開始)

 不変なテーブルの知覚を可能にしているのは、変形があらわにする対象の性質である。テーブル板の場合、知覚者の視点の移動によってさまざまな台形に変形するが、そのようにしてつぎつぎと現れる台形の四つの角と辺の関係には常に変化しない一定の比率がある。テーブルが正方形の場合と長方形の場合とでは、この四辺がなす「不変な比率」は異なる。この不変な比率が、テーブル面が正方形か長方形か、すなわちどのような「姿」であるのかを特定する。
 ギブソンは、この変形から明らかになる不変なものを「不変項(インバリアント)」と呼んだ。

(引用終了)
<同書48−49ページ>

 目まぐるしく変転する生活環境の中にあって、自分を確認できる優れた場所や物は貴重である。近親者や友人の存在とともに、そういった場所や物があってこそ、人は「至高的存在」に近づく作業に専念できるのだ。

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“わたし”とは何か III 

2011年07月19日 [ 生産と消費論 ]@sanmotegiをフォローする

 ここまで「“わたし”とは何か」「“わたし”とは何か II」において、「わたし」とは社会の「至高的存在」(あなた)を映す鏡であり、生きがいとはその「至高的存在」に近づくことだと述べてきた。ここでは視点を変えて、ときどき近親者や友人の中に見え隠れする「わたし」自身について述べてみたい。

 近親者や友人のなかに、ちらりと自分の姿が見えることがある。母親が子供に語るその子の幼かったころの想い出、部下が上司に語るその上司の会議での態度に感銘を受けた話、仲間との集合写真に写る自分の姿、などなど。そういう、いわば社会の遠景に見える自分の姿をいとおしく感じることがある。それは、「至高的存在」に近づく努力とはまったく別なところにあるのだが、人が時としてこのような気持ちを抱くのはなぜだろう。

 「“わたし”とは何か」の項で、河野哲也氏の「自己とは、あくまで環境に立脚し、自然的・人間的・社会的環境との相互作用のなかで成立する徹底的に身体的な存在である。」という言葉を紹介した。人は環境(社会)から独立した存在ではあり得ない。いわば社会から離れられない生き物だ。だから社会の中に自分の姿を見つけると、自分の居場所を見つけたような安心感があるのだろう。ここでいう「居場所」とは、物理的な場所ではなく、人から見守られているという精神的な安心感のことである。

 以前「エッジ・エフェクト」の項で、“マージナル・マン”という言葉を紹介したけれど、それほど大げさ(特別な人)でなくとも、「生産」に携わる人は誰でも、朝親しい日常から離れて(境界を跨いで)仕事をし、それを終えると夜、また親しい日常へ帰ってくる。近親者や友人が齎(もたら)す安心感。この安心感があればこそ、人は「至高的存在」に近づく作業に専念できるのだ。

 人から見守られているという安心感は、隣近所との朝の挨拶、行きつけの店で店主と交わすやりとりなどでも確認できる。特に災害に遭った場合や病気になったときなどは、見ず知らずの人からでも一声掛けて貰うととても励みになる。

 ここで、親しい人の死が何故それほど悲しいのかを考えてみよう。それは、親しい人にもう会えないからばかりではなく、その人の中にあった自分がその人と一緒に消えてしまうからではないだろうか。人はなんと多くの他人を自分の記憶のうちに住まわせるのだろう。なかでも「わたし」の鏡に映る「至高的存在」(あなた)の姿は常に眩く輝いている。人生の晩年のドラマは、そういう知己を現実世界で次々と失っていくということであり、それはまた、他人の中にあった自分を次々に失っていくということでもあるのだ。自分の中にある親しい人の存在感はその人が亡くなった後も消えることはないから、人は長生きすればするほど、晩年、その(自分のうちに住む他人と他人のうちに住む自分の数の)非対称性に耐えなければならない。

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posted by 茂木賛 at 09:46 | Permalink | Comment(0) | 生産と消費論

“わたし”とは何か II 

2011年07月11日 [ 生産と消費論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「“わたし”とは何か」の項で、「わたし」と社会の関係を「公と私論」の観点から論じたが、今回は、「わたし」と社会の関係を、「生産と消費論」との関連で考えてみたい。

 尚、このブログでいう「生産」とは、単にお金に換算できる仕事だけを指すのではなく、ボランティア活動などの「他人のためになる行為全般」を指す。「消費」とは、単に金銭的な消費行為だけでなく、食事、睡眠、休暇などの「自分のためになる行為全般」を指す。詳細はカテゴリ「生産と消費論」を参照のこと。

 先日「自律神経と生産と消費について」の項で、

(引用開始)

多く場合、活動的な体調が「生産」の緊張を支え、リラックスした体調が「消費」の心理状態を支えている。従って、「生産」には交感神経優位の体調が必要で、「消費」には副交感神経優位の体調が必要といえる。すなわち、

「生産」:交感神経優位
「消費」:副交感神経優位

という対比が可能になるわけだ。勿論、どちらの自律神経が優位かということであって、「生産」には交感神経だけが使われるとか、「消費」には副交感神経だけが使われるということではないので念のため。

(引用終了)

と書いたように、「生産」は交感神経優位の理性的・統合的な活動であり、「消費」は副交感神経優位の感性的・分散的活動である。従って、

「生産」の司令塔は「脳の働き(大脳新皮質主体の思考)」
「消費」の司令塔は「身体の働き(脳幹・大脳旧皮質主体の思考)」

ということが出来るだろう。勿論、実際に働いたり休んだりするのは「わたし」の脳と身体両方である。

 この「脳と身体」の双極性と「生産と消費」の対極性は、前者を横軸にとれば、後者は縦軸となる関係である。相関の詳細については、「縦軸と横軸」、「楕円と斜線分」、「上下のベクトル」の各項を参照していただきたい。

 さて、前回、人は日々「至高的存在」に近づこうと努力するが、「わたし」自身はその人にとって「至高的存在」ではあり得ない、と述べた。このことを「生産と消費論」の観点からみると、「至高的存在」に近づくことは「生産」(他人のためになる行為全般)であり、「消費」(自分のためになる行為全般)では無いということである。そして、「至高的存在」に近づくことが人生の目的であるならば、人生は「生産」のためにあるということになる。

 このことは、以前「生産が先か消費が先か」の項で、

(引用開始)

人はまずこの世に生まれてくる。そしてこの「生まれてくる」ことは決して「自分の為」ではありえない。人は何のために生まれてくるかと言うと、家族や社会の為に生まれてくる。このことは大変重要なことだ。

(引用終了)

と書いたことと整合する。

 ここにおいて、人生の意味が構造的に明らかになる。人生の意味とは、少しでも「至高的存在」に近づき、それをさらに高めることに貢献することである。それが「生産」活動の本質であり、その活動を支えるために「消費」がある。そして、人は社会の中でこの二つの行為を繰り返している。ある人の「生産」は別の人の「消費」であり、ある人の「消費」は別の人の「生産」である。

 人は「生産」(交感神経優位)と「消費」(副交感神経優位)とを繰り返しながら、「至高的存在」を目指す。それは、呼吸(吸気:交感神経調整、呼気:副交感神経調整)を繰り返しながら、山の頂を目指す登山家のようなものだともいえる。いや、登山とはそもそも人生のアナロジーなのだろう。「人はなぜ山に登るのか、そこに山があるから」と言う問答は有名だが、人はなぜ「至高的存在」を目指すのかといえば、人生がそこにあるからということである。

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posted by 茂木賛 at 08:53 | Permalink | Comment(0) | 生産と消費論

“わたし”とは何か

2011年07月05日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 以前「継承の文化」の項で、「あなた」という二人称について、

(引用開始)

人間の存在は、環境(社会)がなければ積極的な意味を持たない。社会という環境を、「他者」という味気ないことばでではなく、この「あなた」ということばで表現し、日本人にとって「あなた」とは何か、を問う力作が“「あなた」の哲学”村瀬学著(講談社現代新書)である。(中略)村瀬氏は、日本人が「あなた」と呼びかける先は、目の前の相手だけではなく、親子三代を含む「三世代存在」、さらには日本の社会と文化を継承する「至高的存在」であるという。

(引用終了)

と書き、「継承の文化」について探ったけれど、今回は、あなたと呼びかける「わたし」の側についていろいろと考えてみたい。

 まず、“<心>はからだの外にある” 河野哲也著(NHKブックス)から引用しよう。

(引用開始)

 身体は環境のなかを動き回り、光や空気の振動などの媒質を利用しながら、環境中の事物や事象と接してゆく。知覚者である動物が知らなければならないのは、自分を取り囲んでいる生態学的環境がどのようになっているかである。とするならば、知覚が生じる舞台は、やはり知覚者の頭のなかではなく、知覚者を取り囲んだ環境においてなのである。知覚された世界とは、まさに知覚者の周囲にある環境そのものなのである。(中略)自己とは、あくまで環境に立脚し、自然的・人間的・社会的環境との相互作用のなかで成立する徹底的に身体的な存在である。自己は身体的存在として世界の一部をなしており、自己と世界とは内在的意識と物理的世界という二つの異質な領域をなしているのではない。

(引用終了)
<同書41−44ページより>

河野氏はここで、ギブソンのアフォーダンス理論をベースに<心>の哲学を論じておられる。環境から切り離された「わたし」は存在し得ないというわけだ。

 以前「心と脳と社会の関係」の項で、月本洋氏の“日本人の脳に主語はいらない”(講談社選書メチエ)を参照しながら、

(引用開始)

 月本氏はさらに、心というものはこのような脳の働きであり、それは自己完結的なものではなく、複数の人間の間に作用する相互作用であるとする。氏は、物質間に重力が相互作用を及ぼしているように、人間には心が相互作用を及ぼしているという。

(引用終了)

と書き、次の「社会の力」の項でさらに、

(引用開始)

 特に「社会」の及ぼす力は重要だ。「心と脳と社会の関係」でみたように、社会とは自分と他人とを心的相互作用で結ぶ集合である。それは言葉だけでなく、振る舞いや姿勢、顔の表情などの身体運動、拍手や発声、身体を育む食、身体を守る衣服や家、自然の風景、場としての学校や職場、街並みなど、「身体」に係る全てのものが含まれる。勿論身体を規制するところの慣習、制度としての政治や法律なども含まれる。これら社会の有り様全てが、日々われわれ日本人の脳神経回路の組織化に寄与しているのである。

(引用終了)

と続けたけれど、人の脳と身体にとって、環境(社会)の及ぼす力は大きい。月本氏の「身体運動意味論」は、河野氏のアフォーダンス理論における自己のあり方を、脳科学の面から補強する。

 身体は環境(社会)の中にある。「わたし」は身体を通して環境の意味を発見し、それを現在進行形の頭の中に記憶として蓄える。環境は「わたし」の中で「至高的存在」と「非至高的(日常的)存在」に分けられ、「わたし」はその「至高的存在」に近づくべく日々の努力を重ねる。身体は環境の中にあり続けるから、このサイクルに終わりは無い。

 環境のアフォーダンスについては、“包まれるヒト <環境>の存在論”佐々木正人編(岩波書店)や、“環境のオントロジー”河野哲也・染谷昌義・齋藤暢人編著(春秋社)などの本にさらに詳しい。

 ところで、河野氏や月本氏が使う<心>という単語は、英語で言うところの”Mind”と”Heart”とを併せた意味合いが強く、「“しくみ”と“かたち”」の項で見た三木成夫氏の“こころ”=内臓系とは違うようだ。

 さて、環境は「わたし」の中で「至高的存在」と「非至高的(日常的)存在」に分けられ、「わたし」はその「至高的存在」に近づくべく日々の努力を重ねる。ここまではいいだろう。では「わたし」にとって、「わたし」自身は「至高的存在」になり得るだろうか。

 勿論「わたし」の身体は自己意識のなかにあるだろう。五感の源である身体は、「わたし」にとって大切なものだ。「至高的存在」としてのあなたを発見するのも「わたし」の五感に違いない。しかしそれは「非至高的(日常的)存在」の一部に過ぎないのではないか。

 逆に、「わたし」に呼びかけられたところのあなたの立場に立ってこの問題を考えてみよう。あなたの中にも、「至高的存在」と「非至高的(日常的)存在」がある。けれど、そのなかに「わたし」に呼びかけられたところの「至高的存在」としてのあなたはあるだろうか。おそらくそれは無いのではないか。

 自分のことを「至高的存在」と思う人はあまりいないと思う。そう思うのはギリシャ神話に出てくる自己愛の強いナルキッソスぐらいだろう。彼も一時そう思っただけで、年を重ねればいつまでも自分を「至高的存在」と思っているわけにはいかなかった筈だ。しかし幸か不幸か彼は水面に映る自分の姿に口づけをしようとしてそのまま落ちて水死してしまった。

 どういうことか整理してみよう。ここで「わたし」を甲、「わたし」に呼びかけられた「至高的存在」としてのあなたを乙として考えてみる。

 甲の中にあるのは、乙を含む「至高的存在」の数々と、自分の身体を含む「非至高的(日常的)存在」の数々。乙の中にあるのは、別の「至高的存在」の数々と、自分の身体を含む「非至高的(日常的)存在」の数々。ただし、乙の中にある「至高的存在」に甲が含まれていれば、甲と乙はいわゆる「相思相愛」ということになる。

 人は無数の「非至高的(日常的)存在」に取り囲まれて、生き抜くためにいつも四苦八苦している。お金のことや身体の健康のこと、その身に降りかかるあらゆる不条理。しかしそのなかでも人は、日々「至高的存在」に近づこうと努力する。その姿が、別の人から「至高的存在」に見えることがある。“見る者”と“見られる者”とは別々の存在だ。

 「わたし」とは、社会の「至高的存在」を映し出す鏡のようなものではないだろうか。多くの人が慕う「至高的存在」は皆の鏡に映るので、逆に「彼は人の鑑だ」などと云われる。西郷隆盛のことを「大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く鼓のような男」というのは、西郷という「至高的存在」に対する、「わたし」の鏡の性能に関する話なのである。

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posted by 茂木賛 at 10:09 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

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