夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


自律神経と生産と消費活動について

2011年06月28日 [ 生産と消費論 ]@sanmotegiをフォローする

 以前「交感神経と副交感神経」の項で、

(引用開始)

 この「自律神経系」と「生産と消費論」のアナロジーについては、また項を改めて考えてみよう。

(引用終了)

と書いたけれど、今回はこのことについて少し掘り下げてみたい。まずこのブログにおける「生産」と「消費」の定義から。

 このブログでいう「生産」とは、単にお金に換算できる仕事だけを指すのではなく、ボランティア活動などの「他人のためになる行為全般」を指す。「消費」とは、単に金銭的な消費行為だけでなく、食事、睡眠、休暇などの「自分のためになる行為全般」を指す。詳細はカテゴリ「生産と消費論」を参照のこと。

 次に、自律神経(交感神経と副交感神経)の役割を再度確認しておこう。今回は、“ガンは自分で治せる”安保徹著(マキノ出版)から引用する。

(引用開始)

 交感神経と副交感神経は正反対の働きをし、両者は互いに拮抗(きっこう)するように働いています。交感神経は主に運動時や昼間の活動時に優位になる神経で、心臓の拍動(はくどう)を高め、血管を収縮(しゅうしゅく)させて血圧を上げ、消化管の働きを止めて、体を活動的な体調に整えます。
 副交感神経は食事のときや休息時に優位になる神経で、心臓の拍動をゆるやかにし、血管を拡張して血流を促し、心身をリラックスモードに整えます。また細胞に分泌(ぶんぴつ)や排泄(はいせつ)を促す働きがあり、副交感神経が優位になると、消化液の分泌や排便が促進されます。

(引用終了)
<同書23−24ページ>

 それでは次に、この自律神経と生産と消費活動の関係を見てみよう。多く場合、活動的な体調が「生産」の緊張を支え、リラックスした体調が「消費」の心理状態を支えている。従って、「生産」には交感神経優位の体調が必要で、「消費」には副交感神経優位の体調が必要といえる。すなわち、

「生産」:交感神経優位
「消費」:副交感神経優位

という対比が可能になるわけだ。勿論、どちらの自律神経が優位かということであって、「生産」には交感神経だけが使われるとか、「消費」には副交感神経だけが使われるということではないので念のため。

 この対比については、さらに「理性と感性」「統合と分散」の項などを参照して欲しい。自律神経という人の体内活動が、生産と消費という人の社会活動とこのような形でリンクするのは、なかなか興味深い。

 自律神経と生産と消費活動の現場をもう少し微細に見てみよう。自律神経は、心臓や血管、胃腸や汗腺など内臓諸器官の働きを調整している。呼吸を調整しているのも自律神経で、息を吸うときは交感神経が、吐くときは副交感神経が調整している。

 我々は何かの作業に集中していると、ときどき息を吐(つ)くのを忘れてしまうことがある。これは体調が交感神経優位になるため、副交感神経の調整する呼気が疎かになるわけだ。これが「息吐く暇も無い」という状態だ。以前「体壁系と内臓系」の項で指摘したように、呼吸(特に吸気)は体壁系の横隔膜によって行われるから、人は息を止めることが出来でしまう。

 「体壁系と内臓系」の項などで紹介した三木成夫氏は、その著書“海・呼吸・古代形象”(うぶすな書房)のなかで、「仕事の唄」について考察しておられる。日本では昔から作業中息吐きを忘れないように、一緒に唄を歌いながら(息を吐きながら)作業をしたという。その部分を引用しよう。

(引用開始)

 田植えから稲刈りまで、船曳(ひ)きから樵(きこり)まで、人びとは山に海に四季色とりどりの唄ごえに合わせて仕事の手を進めていったのである。そこには「仕事すなわち息抜き」の等式があった。
 現在、ヨーガや太極拳からカラオケに至るまで、呼吸に関係する健康と娯楽のブームであるという。しかしこれらは仕事の息詰まりに対する精一杯の息抜きとして作用しているようだ。私はむしろ、この現代こそ、あの仕事の唄の呼吸の掛け声を、日々の作業の上にも何らかの形でよみがえらせるべき時ではないかと思っている。
 もちろん声で歌う必要は無い。「クビ」を正しく、肩肘(ひじ)の力を抜いて横隔膜の余分の張りをとり、つねに、この唄の吐く息で手を進めてゆけば、それでよいのだ。
 仕事になれるとは、要するに、この呼吸をマスターすることではないだろうか。

(引用終了)
<同書27ページ>

 呼吸を正しく行わないと、交感神経優位の状態が続くことになり、いっとき作業の効率は上がるだろうが、身体は低酸素状態になる。そうなると、「解糖系とミトコンドリア系」の項で述べたように、エネルギー生成系のほうもミトコンドリア系から解糖系にシフトしていく。解糖系エネルギーは、瞬発力に優れているが持久力には向かない。だからそのままではやがて仕事も行き詰ってしまうわけだ。皆さんも、

「生産」:交感神経優位
「消費」:副交感神経優位

という大枠を理解した上で、呼吸法などを工夫しながら、バランスよく仕事を進めていただきたい。

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posted by 茂木賛 at 09:56 | Permalink | Comment(0) | 生産と消費論

“しくみ”と“かたち”

2011年06月21日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 以前「体壁系と内臓系」の項で、三木成夫氏の著書“海・呼吸・古代形象”(うぶすな書房)から、以下の部分を引用した。

(引用開始)

 まず、体壁系は、その感覚機能と運動機能を仲介する「神経系」の中枢部――『脳髄』によって、それは代表される。これに対し、内臓系は、その呼吸機能と排泄機能を仲介する「循環系」の中心部――『心臓』によって、同じように代表される。前者の“脳”そして後者の“心臓”……。これらはいうなれば、だれもが口にする“あたま”と“こころ”の、それぞれの象徴なのである。

(引用終了)
<同書146ページ>

 三木氏はその著書“生命形態学序説―根原形象とメタモルフオーゼ―”の中で、この“あたま”と“こころ”という双極性をさらに発展させ、生命形態学の観点から、あたまが考える“しかけしくみ”と、こころが観ずる“すがたかたち”という、もう一つの双極性に言及しておられる。

(引用開始)

 このことから、いったいわれわれ人間というものは、おなじ自然の構造を、ある時は“しかけしくみ”をもつ研究・実用の対象として、ある時は“すがたかたち”をもつ鑑賞・造形の対象として、まったく別々に眺めるものであるということを知るのである。いわゆる“見る眼”によって、この自然の現実は著しく異なったものとなってくるのであって、それは「ひとつの森を眺める画家と不動産業者」の例をひくまでもなく明らかなことであろう。
 以上で自然の構造とは、人為のそれのように機械と文芸の双極の間に順序よく排列される、そうしたものではなく、じつは、それを見る人間の眼によって、ひとつのものが、ある時は機械製作の手本――“しかけしくみ”をもったもの――として、またある時は文芸製作の対象――“すがたかたち”をもったもの――としてまったく別々に映る、そのようなものであることが分ったのではないかと思う。

(引用終了)
<同書213−214ページ>

すなわち、

Α 体壁系、“あたま”
α あたまが考える“しくみ”

Β 内臓系、“こころ”
β こころが観ずる“かたち”

という対比が可能となるわけだ。

 ここで「体壁系と内臓系」の項で述べた、「近」と「遠」の対比を思い起こしていただきたい。

(引用開始)

動物器官としての体壁系が「近」と相関し、植物器官たる内臓系が「遠」と呼応していること。自力栄養のできない動物たちが、獲物を取るために誂えた身の周り=「近」に反応する能力。自力栄養を行う植物たちが、太古の昔から持つ自然=「遠」に共振する能力。その二つを示すのが、「近」の思考を示すロダンの“考える人”と、「遠」を観得する広隆寺の“弥勒菩薩”であるという。

(引用終了)

すなわち、

Α 体壁系、“あたま”
α あたまが考える“しくみ”、「近」への反応

Β 内臓系、“こころ”
β こころが観ずる“かたち”、「遠」との共振

という対比が可能となる。

 三木成夫氏の生命形態学の本質は、この「遠」との共振から、「おもかげ」「原形」を探り、生命の個体発生と宗族発生との相関を跡付けたことにある。そしてその先に、西原克成氏の「重力進化学」が生み出されたのである。

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posted by 茂木賛 at 10:43 | Permalink | Comment(0) | 非線形科学

二重言語としての日本語

2011年06月14日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「音声言語と書字言語」の項において、

(引用開始)

西欧では、表音文字であるアルファベットが普及したから、その文化の中心に「音楽」があり、東洋では、表意文字である漢字が普及したから、その文化の中心に「書」がある、ということらしい。

(引用終了)

と書いた上で、声中心の言語を「音声言語」と呼び、書字中心の言語を「書字言語」と呼んだけれど、ここで日本の平仮名とカタカナを考えてみると、これはもともと漢字から作られたとはいえ一種の表音文字だから、日本語は、表意文字としての漢字と、表音文字としての平仮名・カタカナによる「二重言語」であることが分かる。

 この日本語の二重言語性について、石川九楊氏の“二重言語国家・日本”(NHKブックス)から引用したい。

(引用開始)

 現在の日本語は大まかに言って、漢字と女手(平仮名)、つまりは漢語と和語の「詞」を中核に、これに和語の「辞」を添えることによって成立している言語である。だが、この漢語は単なる中国語ではなく、また和語も単なる古孤島語(倭語)ではない。
 日本語における漢語とは、漢語の背後に和語が、また和語とは、和語の背後に漢語が貼りつき、複線化した語彙を指す。たとえば、地方によってどれほど発音が異なっても、中国語の「雨」は「雨」にすぎないが、日本語の一部である漢語の「雨」は「雨(ウ)」であると同時に「あめ」であり、和語の「あめ」は「あめ」であると同時に「雨(ウ)」であるという二重・複線の構造を持っている。
 中国語を輸入するにとどまらず、中国語に相当する和語を新たに創出する二重・複線化運動によって、日本語はつくりあげられた。和語は古来から存在した倭語というよりも、擬似中国時代に再編され、また新たに創り出されたのだ。

(引用終了)
<同書129ページより>

いかがだろう。日本語は、表音文字(平仮名・カタカナ)と表意文字(漢字)が組み合わさったものだが、ベースはあくまでも漢字(書字言語)だから、アルファベット(音声言語)のような音楽性は見られない。二重言語の詳細については、さらに本書をお読みいただきたい。

 これまでこのブログでは、言葉の「発音体感」と「筆蝕体感」とについて書いてきたけれど、これら言葉の(記号として以前の)本質的なはたらきは、空気と紙媒体に対する身体運動(口腔や手の運動)のアフォーダンスである。母音語でありかつ二重言語である日本語において、この二つ(「発音体感」と「筆蝕体感」)は、特に深い意味があると思う。言葉に関するソシュールやパースなどの記号論は、ここからあとの話なのである。

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posted by 茂木賛 at 09:32 | Permalink | Comment(0) | 言葉について

音声言語と書字言語

2011年06月07日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 以前「対位法のことなど」の項で、石川九楊氏の“「書く」ということ”(文春新書)から、以下の文章を引用した。

(引用開始)

 東アジアは書字中心の言語であり、その文化の中心に書があり、対する西欧は声中心の言語であり、その文化の中心に音楽がある(後略)

(引用終了)
<同書122ページ>

 ここで、この二つについて、さらに石川九楊氏の“「書く」ということ”から引用したい。

(引用開始)

 無文字社会は音楽を、文字化社会は書を発展させる。なるほど西欧のアルファベットは、文字には違いないが、母音と子音とからなるその発音記号のごとき文字は、言葉における声や音への注意を促し、クラシック音楽やオペラ、バレエなどを文学の周辺に再組織し、音楽や舞踏を発展させてきた。
 これに対して、秦時代の脱神話文字「漢字」の成立によって、古代宗教文字の形式を残したまま政治文字=文字へと転生を遂げた東アジアの言語は、周囲の無文字の前音楽的言語を解体し、文字中心言語地帯として、音楽や舞踏の発展を妨げ、書を文学の周辺に組織し、発展させた。

(引用終了)
<同書39−40ページ>

西欧では、表音文字であるアルファベットが普及したから、その文化の中心に「音楽」があり、東洋では、表意文字である漢字が普及したから、その文化の中心に「書」がある、ということらしい。

 そもそも西欧で何故、東洋における「漢字」のような文字は生まれなかったかというと、エジプトの象形文字=古代宗教文字から脱神話文字が生まれる可能性はあったのだが、高度な政治的・思想的語彙と表現を持つギリシャ語(アルファベットの原形)が地域を席巻したからだという。石川氏はさらに同書の中で、

(引用開始)

 文化における真の世界基準(グローバルスタンダード)は、西欧アルファベット声文化と異なる東アジア書字文化を欠いては生まれえず、文(かきことば)をも含めた言語学の世界基準は東アジアの膨大な書字史を中心に据えて今後構築されていかねばならない。西欧古典音楽(クラシック)は、たとえば日本の声明や雅楽と同程度の一種の西欧地方音楽とは考えることはできず、やはり、音楽の世界基準と考えることができよう。同様に、東アジアの書は単に東アジア地方に咲いた特殊なカリグラフィと済ますことはできず、書字の世界基準の位置にあるのではないだろうか。

(引用終了)
<同書121ページ>

と書いておられる。言葉というものを、この二つ(音声と書字)の分類から見ていくと、いろいろと面白いことが見えてきそうだ。声中心の言語を「音声言語」と呼び、書字中心の言語を「書字言語」と呼んで、今後さらにこの二つについて考えてみたい。

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posted by 茂木賛 at 10:36 | Permalink | Comment(0) | 言葉について

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