夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


筆蝕体感

2011年05月31日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 これまで「発音体感」と「発音体感 II」の項で、日本語の母音と子音の発音体感について纏めておいた。発音体感とは、発音された音韻によって意識と所作と情景が結ばれるという、言葉の(記号として以前の)本質的なはたらきを指す。ここで次に、言葉の「筆蝕体感」について書いてみたい。

 以前「対位法のことなど」の項で紹介した、“「書く」ということ”(文春新書)の著者で書家の石川九揚氏によると、筆蝕とは、紙と筆記用具の尖端との間に働く力のことを云う。同氏の“書に通ず”(新潮選書)から引用しよう。

(引用開始)

「かく」という行為は、手に刃物や農具や筆記具などの尖(とが)った道具を手にした人間が、土や木、石、金属、紙、なんだってよいのですが、それらの対象に対して働きかけてこれを変形する行為です。(中略)
「かく」という行為は、道具の尖端と対象とが接触し、対象からの反撥を抑(おさ)え込み、摩擦と抵抗を感じながらさまざまの力を加え、やがて対象から離脱するという三段階のプロセスを持っています。(中略)
 この対象と筆記用具の尖端との間に働く力を、ここでは「筆蝕(ひっしょく)」と呼ぶことにします。作者が対象から感じる触感や感触、その触感や感触がキャンバスに跡形として定着されたタッチという意味での「筆触」のみならず、一つの字画を書く「ひとかき」という意味でのストローク、さらに書くことは「引っ掻く」ことや「欠く」ことも背後に含んでいますから、「蝕(むしば)む」という文字を使って「筆蝕」と使うことにします。(中略)
「書く」ということは「筆蝕する」と言い換えることもできます。そして「筆蝕する」とは、思考する、考えることの別名でもあります。
 頭のなかでもやもや、ぼんやりした意識であったものが、書くことによって、眼前にさまざまな想念の像が少しずつ姿を現わし、言葉に転じていきます。書くということは、この想念の像を記録するだけでなく、その想念の像をつくりだす力でもあります。
 筆記具の尖端が紙(対象)に触れ、力をやりとりする現場である筆蝕はこの想念の像と言葉をつくり、それらをこわす場でもあります。(中略)
 筆蝕は思考する。書き手である作者が思考すると言うよりも、筆蝕が思考するのです。書くことなしに、作家や詩人の脳裏に小説や詩の言葉がくっきりと浮かんでいるなどということはありません。あくまで書くことを通じて、小説や詩は生まれてくるわけです。むろん実際に書いていない場合にも思考することはありえます。しかし書字(しょじ)を知った後のそれは、幻想、無自覚の中でペンを走らせているのだと考える方が正確です。

(引用終了)
<同書26−37ページ>

「筆蝕体感」とは、「発音体感」の対として私が考えた造語だが、書かれた文字の筆蝕によって意識と所作と情景が結ばれるという、言葉の(記号として以前の)はたらきを示す。とくに漢字とひらがなを使用する日本語においては、筆蝕体感は思考において極めて重要な役割を果たしていると思う。

 筆蝕体感の例として、ひらがなの「も」という文字について、同じく石川氏の“逆耳の言”(TBSブリタニカ)から引用したい。

(引用開始)

「もう師走も半ば」という会話が交わされるようになった。「もう」の「も」や「師走も」の「も」にはこもごもの思いが盛り込まれているが、平仮名の中でも特異で孤立した書きぶりの文字が、「も」である。
「あ」「お」「ぬ」「め」「わ」など右回転で書かれる平仮名が多い中で、「も」の第一筆は左回転(逆回転)で書かれる。これが第一。「し」もまた左回転の文字だが、漢字「之」の崩しに生じたこともあって、縦に伸びる。漢字「毛」から生じた「も」は、少し斜めに倒れた放物線を描く。
 第二に、この第一筆の末尾が、上方にはね上げられる。「い(井・胃)」や「と(戸)」などを除けば、他の文字と連合してはじめて語を形成する平仮名は、下部の閉じたはね上げる書きぶりは少ない。
 第三に、次字との結合を求めて、最終筆は下部に至る平仮名が多い中で、「も」は、「か」「ひ」む」と並んで上部で書き終わる。
 第四。さらにこの終わりの位置が、前述の三字においてはいずれも右上方に来るのに対して、「も」は逆に左、中ほどにくる。
 そして第五。逆回転運動の第一筆の後、右下方から左上方へと第一筆を宙空で横切り、第二筆は反転して右回転で第一筆と交叉する。この動きを抽象化すると、正方形の四隅の右上から左下、左下から右下、さらに右下から左上、そして左上から右下という「文(あや)」の航路をたどる。
 第六に、「き」「ま」では短い横筆が二筆書かれ、これを後続の長い縦画が切断するが、「も」は逆に反復画が最後に来る。
 つまり、「も」は逆転に逆転を重ねた書きぶりを内に秘めた特異な文字である。否定と肯定、結合と分離、言語以前の意識のくぐもった、含みの多い語である日本語においては、「も」が重ねられる「もしも」の語の深みはただ事ではない。順接に順接を重ねるシュミレーションが横行し、「もしも」と問うことが少なくなったせいか、未来へ向けた理想や希望が描けないでいる。

(引用終了)
<同書74−75ページ>

いかがだろう。「も」と書いたときの複雑な「筆蝕体感」がご理解いただけただろうか。それにしても、「も」と書くときに、指先にこんな大事件が起こっているとは思いもしなかった。

 さてここで、「発音体感」と「筆蝕体感」とを併せて考えると、我々の思考は、まず音韻によってある意識と所作と情景が結ばれ、その後筆蝕によって新たな意識と所作と情景が加わるということなのであろうか。たとえば「も」という語は、発音体感によると、

<子音>「M」: 柔らかさの質、丸さ、母性、遅さ
<母音>「O」: 口腔内の大きな閉空間。自身を包み込むような大きさの空間や物体をイメージさせる。包み込む感じ。

ということで、「包み込むような柔らかさ」が伝わってくるわけだが、それが紙に書かれると、上述の筆蝕体感によって、さらに「逆転に逆転を重ねた複雑さ」が加わってくるという次第だ。なるほど「もも」という名前には、包み込むような優しさと、内に秘めた複雑な気性が感じられる。

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南船北馬

2011年05月23日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日の東日本大地震で、書棚の本が多少崩れ落ちたのだが、片付けるとき一冊の本が目に止まった。“老子”金谷治著(講談社学術文庫)である。パラパラと頁を開いてみると、昔読んだので忘れていたが、「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」「其の雄を知りて、其の雌を守る」など、このブログで書いていることの参考になる内容があった。

 これはまた後日じっくり読むことにして、とりあえず老子や荘子の思想を復習してみようと思って手にしたのが、これまた本棚に奥に埋もれていた“飲食男女”福永光司・河合隼雄〔聞き手〕共著(朝日出版社)である。

 この本は、臨床心理学者の河合隼雄氏が、中国哲学者の福永光司氏に「老荘思想」についていろいろと聞く内容となっている。目次を見ると、

第一章 道とはなにか
第二章 命の哲学――生老病死と飲食男女
第三章 万物斉同という思想
第四章 日本に受け継がれた老荘思想
第五章 今こそ求められる老荘的発想
第六章 老荘思想入門

ということで、本のサブタイトルには“老荘思想入門”とある。尚、著者の河合氏も福永氏も共に既に故人である。

 この本の中で、福永氏が繰り返し述べているのが、老荘思想の「道教」と、孔孟思想の「儒教」の違いをわかりやすく示す「船の文化と馬の文化」という言葉である。詳しくは同書をご覧戴きたいが、船の文化とは、中国大陸南の老荘思想を象徴し、馬の文化とは、大陸北の儒教を象徴する。

 船の文化の特徴は、天候や気候に左右される「混沌」を是とし、社会としては横に結ぶ連帯を尊ぶ。馬の文化の特徴は、天候や気候に左右されない「秩序」を是とし、社会としては縦に貫く支配構造を尊ぶ。

 「南船北馬」とは、広辞苑によると、“(中国の南方は川が多いから船で行き、北方は陸地続きだから馬を馳せる意)絶えず各地にせわしく旅行すること”とあるけれど、このブログでは、南の船の文化を象徴する「道教」と、北の馬の文化を象徴する「儒教」とを対照的に示す言葉として、今回のタイトルに使用した。

 さて、前回「体壁系と内臓系」の項でみた“胎児の世界”三木成夫著(中公新書)21ページに不思議な記号が書き込まれている。南北の方位を示すローマ字「N」の矢印だ。そのページには、無脊椎動物と脊椎動物の、内臓系と体壁系の横断面略図があるのだが、北の方位に体壁系が、そして南の方位に内蔵系が描かれている。

 この謎解きは、三木氏の“海・呼吸・古代形象”(うぶすな書房)に書かれている。135ページから166ページに亘る「南と北の生物学」の部分だ。その初めの文章を引用しよう。

(引用開始)

 先年「胎児の世界」を描いた挿絵の一つに、人体の横断面を略図で載せたが、その時、図の片隅に、かなり唐突な感じの記号を一個入れておいた。およそ解剖図とは無縁の、それは地図に出てくる、あの「北方」を表すローマ字「N」の矢印だった。当時としては、ただ漠然と一部の読者を想定しての、それは、ささやかな問題提起だったのである。(中略)
 
(引用終了)
<同書137ページより>

詳しくは同書をお読みいただきたいが、ここで三木氏は、体壁系の中枢部が『脳髄』であり、“あたま”の世界は「冷」=「北」で形象され、内蔵系の中枢が『心臓』と『子宮』であり、“こころ”の世界は「温」=「南」で形象される、と述べておられる。北の「体壁王国」と南の「内臓王国」というわけだ。

 この「冷の体壁系」と「温の内臓系」という対照性は、上でみた福永氏のいう「北の馬の文化」と「南の船の文化」と整合するように思われる。“あたま”=「秩序」と“こころ”=「混沌」といった対照性である。すなわち、

A 体壁系、冷たい“あたま”
a 馬の文化、縦に貫く支配

B 内臓系、温かい“こころ”
b 船の文化、横に結ぶ連帯

ということで、これをさらに先日「複眼主義のすすめ」の項で示した「公(public)」と「私(private)」の対比に当て嵌めると、

「公(public)」     「私(private)」

脳(t = 0)        身体(t = life)
都市(t = interest)   自然(t = ∞)
自立           共生

解糖系          ミトコンドリア系
男性性          女性性
体壁系          内臓系

北             南
馬の文化        船の文化
孔孟思想        老荘思想

となる。都市の孔孟思想、自然の老荘思想という対比構造は昔からよく云われている。

 それにしても、中国の古い思想と現代の生命形態学とが、こうも見事に(「公(public)」と「私(private)」の対比軸上で)シンクロするとは驚きである。「複眼主義」の奥の深さを示していると思う。そういえば“胎児の世界”(中公新書)にも、「北」と「南」の双極を示唆する挿話として、「月の砂漠」と「椰子の実」という二つの歌曲への言及があった。

 “飲食男女”で語られた内容は、南船北馬以外にも、老荘思想の日本仏教への影響、神道と道教など、奥が深く興味は尽きない。これからも歴史や宗教についていろいろと勉強していきたい。

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体壁系と内臓系

2011年05月17日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 以前「新書読書法(2010)」の項で、“胎児の世界”三木成夫著(中公新書)について、

(引用開始)

体壁系と内臓系、個体発生と宗族発生、分節性と双極性など、人間と社会についての示唆に富む項目が並ぶ。

(引用終了)

と書いたけれど、今回はこのなかの「体壁系と内臓系」という対比について私の興味をまとめておきたい。

 体壁系と内臓系の詳細については、本書及び三木氏の他の著書、たとえば“内臓のはたらきと子供のこころ”(築地書館)や“海・呼吸・古代形象”(うぶすな書房)などをお読みいただきたいが、簡単に纏めると、「体壁系」とは、人の身体の“感覚―運動”をつかさどる器官を指し、「内臓系」とは、“栄養―生殖”をつかさどる器官を指す。前者は動物器官とも呼ばれ、後者は植物器官とも呼ばれる。

1. 3の構造

体壁系、内臓系とも、次のような「3の構造」を持っていることが興味の第一である。

「体壁系」
外皮層 (感覚)
神経層 (伝達)
筋肉層 (運動)

「内臓系」 <食の相>
腸管 (吸収)
血管 (循環)
腎管 (排出)

「内臓系」 <性の相>
精巣 (排出)
導管 (導入出)
卵巣 (受容)

このことは、身体の分節性や双極性を考える上で重要だと思われる。

2. 呼吸について

呼吸(とくに吸気)が内臓系ではなく体壁系の筋肉(横隔膜)によって行われていること。以前「重力進化学」の項で述べたように、これは、生物の上陸劇にともなう呼吸器官の「鰓から肺への変容」がその理由であるという。人体における体壁系と内臓系のバランスが大切な由縁である。

3. 「近」と「遠」

動物器官としての体壁系が「近」と相関し、植物器官たる内臓系が「遠」と呼応していること。自力栄養のできない動物たちが、獲物を取るために誂えた身の周り=「近」に反応する能力。自力栄養を行う植物たちが、太古の昔から持つ自然=「遠」に共振する能力。その二つを示すのが、「近」の思考を示すロダンの“考える人”と、「遠」を観得する広隆寺の“弥勒菩薩”であるという。

 以上私の興味を三点に纏めてみたが、三木氏の前掲著書“海・呼吸・古代形象”(うぶすな書房)には、体壁系と内臓系について、さらに次のような指摘がある。

(引用開始)

 まず、体壁系は、その感覚機能と運動機能を仲介する「神経系」の中枢部――『脳髄』によって、それは代表される。これに対し、内臓系は、その呼吸機能と排泄機能を仲介する「循環系」の中心部――『心臓』によって、同じように代表される。前者の“脳”そして後者の“心臓”……。これらはいうなれば、だれもが口にする“あたま”と“こころ”の、それぞれの象徴なのである。
 前回、私達は“いのちの波”を、大きく「食」と「性」の、二相に分けたが、これは、あくまで「食」の相での代表であって、これが「性」の相ともなると、おのずから、その様相は異なったものとなってくる。そこでは、雄雌の「合体」によって、初めて一つの個体が形成されるものとすれば、このいわば「二重体」では、まず、体壁系の中枢として、性の行動の主導権を握る、雄性の『脳髄』が、また、内臓系の中心をなすものとして、精巣と卵巣を結ぶ、雌性の『子宮』がそれぞれ選び出される。前者の“男の脳”そして後者の“女の子宮”……。性における、男女の思考の座を、みごとに抉り出したものではないか。詳細は次回に譲るとして、これらの代表器官が個体体制を把握する上での、貴重な“勘どころ”となることを忘れてはならない。


(引用終了)
<同書146ページ>

体壁系が男の脳、内臓系が心臓と女の子宮とで代表されるものであれば、体壁系=男性性、内臓系=女性性ということで、初期論的には、先日「複眼主義のすすめ」の項で示した「公(public)」と「私(private)」の対比と以下の様に整合する。

「公(public)」    「私(private)」

脳(t = 0)        身体(t = life)
都市(t = interest)   自然(t = ∞)
自立           共生

主格中心        環境中心
広場           縁側
マップラバー      マップヘイター

Resource Planning   Process Technology
効率           効用
子音語          母音語

解糖系         ミトコンドリア系
男性性         女性性
体壁系         内臓系

今後、上の興味三点と併せ、この観点からも人と社会について考えていこう。

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posted by 茂木賛 at 10:42 | Permalink | Comment(0) | 非線形科学

流域社会圏

2011年05月09日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 “地域社会圏モデル”山本理顕・中村拓志・藤村龍宝・長谷川豪共著(INAX出版)という本を読んだ。“地域社会圏”とは、400人程度の人が一緒に暮らす居住空間を指し、「一住宅=一家族」という既存の仕組みとは違った社会のあり方を考えようという思考実験だという。リーダーは建築家の山本理顕氏である。

 山本氏はこの本の中で、戦後展開された「一住宅=一家族」という住宅施策は、官僚による統治システム(管轄部局の内部が私的に運営されていること)と同型であり、そこから脱却するためには、エネルギーの供給からごみ処理、看護や子育て、買い物までを400人程度の共同体で賄う新しい仕組み(地域社会圏モデル)が必要なのではないか、と提案しておられる。

 このブログでもカテゴリ「公と私論」などで、地域社会の再生には、戦後の“官僚と会社父長制”システムとは異なる、“新しい公共”の共同体理念が必要であることを論じてきた。

 三人の若手建築家の案はどれも面白いが、特に私の目を引いたのは、「コミュニティーに於けるのっぴきならないものとは何か」という議論(共著者の四人に伊藤豊雄、藤森照信氏を交えた講評会の部分)だ。地域社会圏モデルが成功するためには、コミュニティーに何か「のっぴきならないもの」が必要なのではないか、という指摘である。

 このブログでは、“新しい公共”理念の必要性と共に、街づくりにおける「流域思想」の重要性について書いてきた。そして、流域における「両端の奥の物語」の大切さについて述べてきた。その観点からしてみると、この「のっぴきならないもの」とは、流域における“両端の奥の物語”と重なるように思える。

 この本では、「のっぴきならないもの」は、学校であったり農業であったりといささか抽象的に議論されているけれど、「それがないと社会圏としての存在理由がない」といった地点までこの「のっぴきならないもの」を掘り下げていくと、それは必然的に、神話や御伽噺を含むところの流域“両端の奥の物語”にまで行き着くのではないだろうか。

 “長良川をたどる”山野肆朗著(ウェッジ)という本がある。この本は、長良川の文化と歴史を河口から源流、さらに分水嶺の先まで辿った紀行文だ。サブタイトルに“美濃から奥美濃、さらに白川郷へ”とある。本の帯の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

清流に育まれた文化と歴史を訪ねて

織田信長の築いた岐阜城、豊かな水をたたえた群上八幡の城下町。1300年以上の歴史をもつ鵜飼、極上の天然鮎にサツキマス、関の日本刀に美濃の和紙、そして世界文化遺産の白川郷―――。

(引用終了)
<同書の帯の紹介文>
 
長良川の下流域、中流域、上流域、源流域それぞれに伝わる文化は、長い歴史を経て、その流域にとって「かけがいのないもの」となっており、それぞれの文化を貫く軸としてその中心に「長良川」が存在している。長良川流域における“両端の奥の物語”があるわけだ。

 さて、前回「水辺のブレイクスルー」の項で、河川法などについて、

(引用開始)

法の整備は、流域ごとに自然環境が違うわけだから、基本理念は全体共有した上で、その流域に合うように、地域主権で進められなければならないと思う。

(引用終了)

と書いたけれど、「かけがいのないもの」や「のっぴきならないもの」を共有するという意味で、“新しい公共”の理念においては、法律のみならず、都道府県や市町村といった既存の行政単位も、「流域」を一つの纏まりとして考えてみてはどうだろうか。全国には109の一級水系があるというから、それぞれの流域毎に政治や文化の特色が出せれば、全体として、自然に沿った形の多様性に富む社会が構築できるのではないだろうか。

 勿論そうなると、社会圏としては400人という規模を上回ることになる。400人という規模が、エネルギーの供給からごみ処理、看護や子育てなどの自治にとって適当なサイズなのであれば、流域全体の物語(のっぴきならないもの)を共有した上で、その中を複数の(400人程度の)共同体に分ければ良い。“地域社会圏モデル”の最後にも、こういった集団の階層性について、“SLM”という「3の構造」による単位の考察がある。

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水辺のブレイクスルー

2011年05月02日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 震災からの復興に向けた動きが始まっている。街づくりについて、流域思想の観点から考えを発展させてみたい。

 このブログでは、街づくりにおける、流域思想境界設計の大切さを述べてきたが、街の水辺設計は、まさにその実践と云える。“まちづくりへのブレイクスルー 水辺を市民の手に”篠原修・内藤廣・二井昭佳編(彰国社)は、日本における水辺設計の成功例を紹介した好著だ。新聞の紹介記事を引用しよう。

(引用開始)

生活に水辺を取り戻す各地の活動を紹介したシンポジウムの記録。木野部海岸(青森県)と源兵衛川(静岡県)のプロジェクトでは、市民やNPOが奮闘。児(ちご)ノ口公園(愛知県)と和泉川(横浜市)では、行政が主体となって悪戦苦闘した。

(引用終了)
<東京新聞 1/17/2011>

どのプロジェクトにも元気なリーダーがいて、その人の周りに各分野の専門家や地域住民が集い、豊かな水辺づくりが展開する。ここでもリーダーの存在が成功の秘訣のようだ。

 この本を読むと、リーダーシップや、行政と市民・NPO間のコラボレーションの大切さもさることながら、そのベースとなる、法(河川法など)の整備の重要性がよく分かる。法の整備は、流域ごとに自然環境が違うわけだから、基本理念は全体共有した上で、その流域に合うように、地域主権で進められなければならないと思う。特に今回の津波被災地には特別な措置が必要だろう。

 これからの街づくり・水辺づくりには、この本にある基本計画作成方法など、プロジェクトの具体的な進め方が大いに参考になる筈だ。子供目線から地域を読み解くこと、地域知の重要性、成果確認などなど。

 このブログでは、これからの社会を牽引する産業システムの一つとして「資源循環」を挙げている。流域における川と海とは、資源循環の要(かなめ)である。こういった活動によって川が動き出せば、昆虫や動物、植物たちが流域に集い、流域の住人たちによって新しい継承の文化が紡ぎだされるだろう。それが“両端の奥”をさらに豊かなものにしてゆくに違いない。

 ところで、この本の編者の一人である内藤廣氏は、私の高校時代のバスケットボール部一年先輩、故瀧脇庸一郎氏と早稲田大学の建築学科(吉阪研究室)で同期だったとのこと。私は、瀧脇氏の追悼文集“後世”に寄せられた内藤氏の文章(「第二章」というタイトル)によってこのことを知った。瀧脇氏が病気で亡くなったのは1993年、追悼文集は1996年に出版された。私は瀧脇氏のバスケットボール部時代しか知らないけれど、コート上でいつも全力を尽くす彼の姿が忘れられない。周りの誰かが手を抜いているとよく彼の叱咤声が飛んだ。背はあまり高くなかったけれど、ロングシュートの姿がとても綺麗だった。追悼文集の年譜を見ると、氏は1978年にアトリエを持ったとあるから、療養期間もあっただろうが、亡くなるまで約15年間、建築家として活躍していたことになる。内藤氏の編んだ本を読むうちに瀧脇氏のことを思い出し、もし彼が存命であったならば、今どのような作品を手がけているだろうかと考えた。

<お知らせ>

以前「牡蠣の見あげる森」の項で紹介した“海は森の恋人”の地が今回の地震と津波で被災し、緊急支援を募っています。小額ながら私も義援金を送りました。参考までにURLを転載しておきます。
http://d.hatena.ne.jp/mizuyama-oyster-farm/20110412/1302595826

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