夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


自立と共生

2010年02月23日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 ここまで「容器の比喩と擬人の比喩」「容器の比喩と擬人の比喩 II」「存在としてのbeについて」「言語技術」と書き綴ってきたのは、「内需主導と環境技術」で述べた、鳩山首相の所信表明演説にある「自立と共生」、特にその「自立」のコンセプトについて、日本語の本質にまで碇を下し「社会の力」の根本から考えてみたかったからだ。「自立」のコンセプトについて考えることは、前回「言語技術」の最後で触れた、「日本の縦型社会の見直し」とも重なる作業になる筈だ。何故ならば、これまでの日本の縦型社会は「自立」を必要としない共同体だったからである。

 結論めいた話の前に、まず去年10月の鳩山首相の所信表明演説から「自立と共生」に関する部分を引用しよう。

(引用開始)

 働くこと、生活の糧を得ることは容易なことではありません。しかし、同時に、働くことによって人を支え、人の役に立つことは、人間にとって大きな喜びとなります。
 私が目指したいのは、人と人が支え合い、役に立ち合う「新しい公共」の概念です。「新しい公共」とは、人を支えるという役割を、「官」と言われる人たちだけが担うのではなく、教育や子育て、街づくり、防犯や防災、医療や福祉などに地域でかかわっておられる方々一人ひとりにも参加していただき、それを社会全体として応援しようという新しい価値観です。(中略)
 新たな国づくりは、決して誰かに与えられるものではありません。政治や行政が予算を増やしさえすれば、すべての問題が解決するというものではありません。国民一人ひとりが「自立と共生」の理念を育(はぐく)み発展させてこそ、社会の「絆」を再生し、人と人との信頼関係を取り戻すことが出来るのです。
 私は、国、地方、そして国民が一体となり、すべての人々が互いの存在をかけがえのないものだと感じあえる日本を実現するために、また、一人ひとりが「居場所と出番」を見いだすことのできる「支えあって生きていく日本」を実現するために、その先頭に立って、全力で取り組んでまいります。

(引用終了)
<10/27/09 東京新聞より>

 ここで、私なりに「自立」のコンセプトについて整理する。例の「3の構造」によって「自立」のコンセプトを分析すれば、

1. 身体的自立
2. 精神的自立
3. 経済的自立

の三つに分けることが出来るだろう。定義はそれぞれ、

1. 身体的自立

健康で他人の手を借りずに呼吸、歩行、食事などができること

2. 精神的自立

他人に騙されることなく自分で物事の本質を見抜くことができること

3. 経済的自立

自力で生計が立てられること

といったところだろうか。鳩山首相のいう「自立と共生」の理念を実現させるためには、「教育や子育て、街づくり、防犯や防災、医療や福祉などに地域でかかわっておられる方々一人ひとりにも参加して」もらうことが重要で、そのためには、出来るだけ多くの人が経済的に自立している必要がある。

 経済的に自立するためには、親の遺産でもない限り、働かなければならないから、その為にまず身体的に自立していなければならない。また、精神的に自立していなければ、すぐに他人に騙されてしまい、経済的自立を保つことが出来ない。鳩山首相のいう「自立と共生」のためには、出来るだけ多くの人が、

1. 身体的自立
2. 精神的自立
3. 経済的自立

の三つを果たすことが重要なのである。

 しかし一方、皆がみんな経済的自立を果たすことは難しい。だから、まず三つの自立を果たした人たちが、それぞれの地域で1.と2.の自立を果たした人々を支えることが必要になってくる。これが「共生(その一)」である。次に、1.と2.の自立を果たした人たちが、教育を通して1.の身体的自立だけを果たしている人たちを2.の精神的自立に導かなければならない。これが「共生(その二)」である。そして、これらの人たちが力を合わせて1.の身体的自立を果たせなくなった人々を支える。これが「共生(その三)」である。鳩山首相のいう「支えあって生きていく日本」は、これらの活動の総体なのである。

 尚、1.の身体的自立を果たせなくなった人でも、2.の精神的自立さえ果たしていれば、社会に「出番」はある。障害を乗り越え懸命に生きることは、まわりの人々に生きる勇気を与える。そのことだけでも立派な「出番」である。

 これから3.の経済的自立を目指す人は、このブログの「起業論」を初めから順にお読みいただきたい。何かヒントが見つかるかもしれない。安定成長時代と助け合う社会の必要性については「チームプレイ」の項をお読みいただきたい。

 これまでの日本の縦型社会は、人を支えるという役割を、「官」と言われる人たちが担ってきた。その結果、個人の経済的自立は社会にとって必要条件ではなかった。そして精神的自立はむしろ障害であった。「官」が効率よく社会を回していくには税金が必要で、税金を効率よく集めるには、個人は精神的に自立せず騙されやすい方がよい。つまり、身体的自立さえ果たしていれば、あとは「官」がうまく社会をコントロールするというわけだ。日本社会は律令国家時代から一貫して「官」が支配する社会であった。「お上」と呼ばれる人たちが民衆を支配する社会であった。それを鳩山首相は、「民」が互いに支え合う民主社会に変えようというのである。

 この歴史的な偉業(!)を成し遂げるためには、小手先の改革ではすぐに行き詰まってしまうだろう。日本の過去を振り返ってみれば、鳩山首相のいう「自立と共生」がいかに大変なことかが分るはずだ。日本の歴史的・社会学的分析は、“失敗の本質”戸部良一他著(中公文庫)、“空気の研究”山本七平著(文春文庫)などに詳しい。この「自立と共生」がいかに大変かという認識が、「自立」のコンセプトについて、日本語の本質にまで碇を下して「社会の力」の根本から考えてみたかった所以である。

 ここまでの考察で、鳩山首相のいう「自立と共生」を実現させるためには、個人の「精神的自立」が最も大切であることが分った。「経済的自立」は身体的自立と精神的自立がなければ果たせない。「身体的自立」がなくとも精神的自立があれば社会に出番を見つけることが出来る。社会に貢献することが出来る。「精神的自立」さえ果たしていれば、地域社会に必ず自分の「居場所と出番」があるのだ。それでは「精神的自立」と「日本語」との間にどのような関連があるのか。以下見ていこう。

 日本語の本質については、これまで「広場の思想と縁側の思想」の項で、

(引用開始)

 日本語的発想には豊かな自然を守る力はあるけれど、都市計画などを纏める力が足りない。これからの日本社会にとって大切なのは、日本語のなかに「公的表現」を構築する力を蓄えて、自然(身体)と都市(脳)とのバランスを回復することである。

(引用終了)
<「広場の思想と縁側の思想」より>

という課題を提出し、「容器の比喩と擬人の比喩」などで、

A R.P.−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

B P.T.−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」

という対比を見てきた。「精神的自立」とは、他人に騙されることなく自分で物事の本質を見抜くことである。そのためには、自らの立ち位置を主体的にしっかりと把握しなければならない。上の対比でいえば、

A R.P.−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

を強化し、まわりの空気や環境に左右されない主体的な自己を確立することなのである。勿論Aばかりだと逆に自然環境を守ることが難しくなる。日本語でともすると疎かになる「主体的な自己」を強化し、その上で、AとBのバランス、身体と脳とのバランスを回復することが、「自立と共生」社会を実現させるための必要条件である。

 ここまで「容器の比喩と擬人の比喩」「容器の比喩と擬人の比喩 II」「存在としてのbeについて」「言語技術」で見てきたのも、AとBのバランス、身体と脳とのバランスを回復することの重要性であった。

 鳩山首相のいう「支えあって生きていく日本」を実現するためには、政府による経済政策だけではなく、我々一人ひとりが言葉の本質にまで碇を下し、曖昧さの無い「主体の論理」を日本語のなかに構築し、日本語のなかに「公的表現」を構築する力を蓄えることが必要とされるのである。最後にもういちど首相の所信表明演説から同箇所を引用しておこう。

(引用開始)

 新たな国づくりは、決して誰かに与えられるものではありません。政治や行政が予算を増やしさえすれば、すべての問題が解決するというものではありません。国民一人ひとりが「自立と共生」の理念を育(はぐく)み発展させてこそ、社会の「絆」を再生し、人と人との信頼関係を取り戻すことが出来るのです。

(引用終了)

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言語技術

2010年02月16日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 「容器の比喩と擬人の比喩 II」で提起した「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という課題について、子どもの教育の視点から考えてみたい。“「言語技術」が日本のサッカーを変える”田嶋幸三著(光文社新書)は、サッカーの教育現場における言語の重要性について書かれた本である。本カバー裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

「そのプレーの意図は?」と訊かれたとき、監督の目を見て答えを探ろうとする日本人。世界の強国では子どもでさえ自分の考えを明確に説明し、クリエイティブなプレーをしている。
日本サッカーに足りないのは自己決定力であり、その基盤となる論理力と言語力なのだ。
本書は、公認指導者ライセンスやエリート養成機構・JFAアカデミー福島の仮クラムで始まった「ディベート」「言語技術」といった画期的トレーニングの理論とメソッドを紹介する。

(引用終了)

 「容器の比喩と擬人の比喩」「容器の比喩と擬人の比喩 II」などで引用してきた“日本語は論理的である”月本洋著(講談社選書メチエ)によると、日本語もけっして論理的でないわけでは無いが、空間の論理が多用されるため、主体の論理が疎かになるという。月本氏は、この主体の論理を「主語−述語」、空間の論理を「主題−解説」という関係で説明しておられる。「主語−述語」の関係は「AがBをする」、「主題−解説」は「AはBである」と置き換えて考えれば分りやすい。日本語では「AはBである」という云い回しが多用されるということである。前回「存在としてのbeについて」の項でご紹介した副島隆彦氏も、“英文法の謎を解く” (ちくま新書)の中で、

(引用開始)

 日本文を英文(ヨーロッパ語の文)と比較して、ひとつの大きな特徴があることに気づく。日本文は、どんなに複雑に見えようとも「A=B」に還元できる言語である。「きのうは疲れた」でも、「みんなの願いは景気回復だ」でも「彼はダメだ」「彼女はうるさい」でも何でも、全て、この「A=B」の構成になっている。これを英文に直すと、それが何通りかの文構成になるのである。ここに日本語という言語の重大な秘密が隠されているのではないか。

(引用終了)
<同書52−53ページ>

と述べておられる。これまでこのブログで展開してきた対比で云えば、

A 英語的発想−主格中心−擬人比喩の多用−「主語−述語」
B 日本語的発想−環境中心−容器比喩の多用−「主題−解説」

ということになる。日本語的発想では環境(空間)中心に物事を考えがちなので、環境を守る力は大きいけれど、主体的にものごとを決定していく力が弱いということなのである。サッカーで云えば、チームワークはよいのだが、シュートの決定力に欠けるということだろうか。

 勿論、社会全体としては、どちらが良いとか悪いとかという話ではなく、両者のバランスが大切なのだが、サッカーにおける言語教育としては、「主題−解説」の関係は日々日本語を話す中で会得できているのだから、それと対比する「主語−述語」の関係の体得が重要なわけだ。

 JFAアカデミーでは、「つくば言語技術教育研究所」の三森ゆかり氏による「言語技術」トレーニングを取り入れているという。くわしくは“「言語技術」が日本のサッカーを変える”田嶋幸三著(光文社新書)をお読みいただきたいが、その中にある、U−12(12歳以下)のトレーニング法の一部を引用しよう。

(引用開始)

 日本語は、主語があいまいなままでも通用する言語です。特に1人称の「僕・私」は会話の中でも文章の中でも欠落しがちです。逆にきちんと1人称が入っている会話や文章は「自己主張が強い」と嫌われる傾向にあります。けれども自分の考えに責任を持つためには、まず誰の考えなのかをはっきりさせることから始めなければなりません。そのために誰が主体となって考えを述べているのかを明らかにする必要があります。
 子どもが「僕(私)たち」「みんな」と複数形を使ったときも要注意です。誰が「複数」の中に含まれるのかを必ず確認する必要があります。無責任に複数形が使われることが多いからです。主語の認識は国内で生活する上でも重要ですが、子どもが将来海外でプレーしたいと望むとき、主語が動詞を規定する欧米の言語では、主語をきちっと認識しながら言葉を操ることが求められます。(後略)

(引用終了)
<同書82−84ページ>

 「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という課題は、「存在としてのbeについて」の項で述べた翻訳上の努力や、このような地道なトレーニングによって、少しずつ解決していく必要がある。と同時に、「盤上の自由」の項で触れた、「日本の縦型社会の見直し」も重要になってくるだろう。それについてはまた項を改めて考えていきたい。尚、「僕たち」や「みんな」という複数形(集合名詞)を使うことの危うさについては、このブログでも以前「集合名詞(collective noun)の罠」の項で触れたので、ご参照いただければと思う。

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存在としてのbeについて

2010年02月09日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「容器の比喩と擬人の比喩 II」の最後に、「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という問題を提起したけれど、それに関連して、英語の「存在としてのbe」について考えてみたい。

 存在としてのbeとは何か。まず、「並行読書法」でご紹介した、副島隆彦氏の主著のひとつである“BeとHaveからわかる英語のしくみ”(日本文芸社)から、be動詞の四つ用法について整理する。

(引用開始)

1.「存在」としてのbe
2.A=B(等価)としてのbe
3.S+V+CのVで説明としてのbe
4.It’s…の文の中にあるbe (is)

(引用終了)
<同書17ページの図から>

be動詞には、このように四つの用法がある。そのなかで、1.「存在」としてのbeは、主格中心の英語的発想の原点である。例として、”I think, therefore, I am”(我思う、故に、我在り)という、有名な格言を思い起こしていただければよい。この「存在」としてのbeについて、副島氏の同書からさらに引用しよう。

(引用開始)

●もっとも基本的なbe動詞とは、いったい何か?

1. Jazz is (ジャズの入門書のタイトル)
2. Miles is (マイルス・デイビスのアルバムのタイトル)
3. Chances are (ボブ・マーリィのアルバムのタイトル)
4. Love is (エリック・バードンのアルバムのタイトル)

 上の四つの英文は、日本語に訳すとどうなるか。

1. ジャズとは……
2. マイルスが……
3. チャンスが……
4. 愛とは……

という訳がまず考えられる。(中略)

●「be」とは「〜が在る」ということ。「be=存在」なのだ

 isを「……がある」と訳すこと。
 すなわち、このbe動詞を「在る」と訳すことが、英語の学習の第一歩である。
 beとは「存在」のことなのである。「在(有)る」ということだ。
 従って、他の三つともに、

1. ジャズがある。
2. マイルスがいる。
3. チャンスがある。
4. 愛がある。

 という訳にしなければならないのである。

(引用終了)
<同書14−16ページ>

 1.「存在」としてのbeは、「AはBである」という形式の空間・容器の比喩では訳すことができない。このことが重要である。

2.A=B(等価)としてのbe
3.S+V+CのVで説明としてのbe

については、日本語の「AはBである」という空間の論理、すなわちベン図的な空間・容器比喩で訳しても、なんとか原文と同じ意味として理解することが出来るだろう。しかし、”Jazz is”のような「存在」としてのbeは、「AはBである」という形式の空間・容器の比喩では訳すことができないのである。「ジャズはジャズである」と訳しても意味をなさないのだ。

 「存在」としてのbeは、「主体の論理」の表現そのものであり、日本語で多用される「空間の論理」では表現できない。このことは、「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という問題において、きわめて重要な課題である。尚、4.It’s…の文の中にあるbe (is)は、1.「存在」としてのbeの変形である。

 欧米文で書かれた「存在」としてのbeを、まず「……がある」「……がいる」と訳し、そのあと、さらに文脈に応じて、最適な日本語訳を与えること。副島氏は、

1. Jazz is
2. Miles is
3. Chances are
4. Love is

という上の四つの文について、

(引用開始)

 私が、これらの四つを気のきいた訳に換えるとこうなる。

1. ジャズがわかる本
2. マイルス・デイビスのすべて
3. チャンスは必ずやってくる
4. 愛とはなにか

(引用終了)
<同書15ページ>

と書いておられる。このような翻訳の努力を通して、「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という問題を考えていくことも大切である。

 副島氏の“BeとHaveからわかる英語のしくみ”(日本文芸社)は、他にも、”have”、”get”や”would”、時制について、格文法理論など、英語と日本語に関する重要な項目が、図やイラスト入りで分りやすく解説してあり、英語を勉強する人の必読書である。副島氏にはまた、“英文法の謎を解く”(ちくま新書)、“続・英文法の謎を解く”(ちくま新書)、“完結・英文法の謎を解く”(ちくま新書)の三部作がある。

 さて、ここで応用問題として、夏目金之助(号漱石)の“我輩は猫である”という小説のタイトルについて考えてみたい。これぞまさしく「AはBである」形式の日本語文である。まず、「容器の比喩と擬人の比喩」、「容器の比喩と擬人の比喩 II」で引用した“日本語は論理的である”月本洋著(講談社選書メチエ)から引用する。

(引用開始)

 現代の日本語は、江戸末期や明治維新のころの日本語とはずいぶん変ったものになった。たとえば、「私は日本人である」という文は、現在ではまったくふつうの文である。しかし、この「〜は…である」という文は、明治時代に登場した表現であり、目新しくてハイカラな響きがしたようである。夏目漱石はそれを意識して、『我輩は猫である』という題にしたという説もある。(後略)

(引用終了)
<同書161ページ>

 夏目漱石は、英国へ留学し、おそらく「存在としてbe」に遭遇し、カルチャー・ショックを受けたことであろう。帰国後かれは、日本語において”A is B”が「AはBである」と訳されていることに気付いた。ここまでの議論を踏まえれば、漱石はこの訳に違和感を覚えた筈だ。そこでかれは、明治社会を風刺するユーモア小説を執筆するに当たり、多少の批判精神と諧謔心とをもって、小説のタイトルにこの「AはBである」形式の日本語を採用したのではないだろうか。

 結果として「我輩は猫である」は、表現の斬新さ、我輩と猫をつなぐ動詞が「存在」のbeなのか「説明」のbeなのかよく分らない曖昧さ、さらに猫が話すというそもそもの非現実性とを併せ持つ、類まれなる(多義的な)タイトルとして日本人の記憶に長く残ることになったのであろう。

 曖昧さは漱石にも自覚されていたに違いない。なぜならこの猫には名前がないのである。「我輩は猫である。名前はまだ無い。」この小説が書かれたのは1905年、いまから100年ほど前のことだ。日本人は、この猫に名前を与えないまま、「存在」のbeをきちんと理解しないまま、そのあと100年を過ごしてきてしまったのではないだろうか。

 ところで、この日本語の「我輩は猫である」の英訳だが、ネットで検索すると、”I am a cat”という訳が多いようだ。”I am the cat”では、「その猫」というニュアンスが強くなりすぎるからだろう。いずれにせよ上の議論を踏まえると、この訳は「説明」としてのbeに重きを置きすぎているように思える。漱石は、もっと「存在」としてのbeの部分を強調したかったのではないだろうか。「これは」という訳があればお寄せいただきたい。

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容器の比喩と擬人の比喩 II

2010年02月01日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「容器の比喩と擬人の比喩」の項において、

(引用開始)

 命題論理とは、真偽を問う文同士の接続・比較ロジックであり、述語部分とは、「何々がこれこれをする」というような、文の主体−対象−動作に関するロジックである。命題論理は、「ベン図」などの空間・容器比喩で示されることが多く、述語部分は、数学のf(x)などと同様、「関数」として示されることが多い。

(引用終了)

と書いたけれど、述語部分には、「何々がこれこれをする」の他にもうひとつ、「何々はこれこれである」という文の形式がある。この「何々はこれこれである」という文は、場(空間)を設定する助詞「は」が使われているので、述語部分というよりも、むしろ、命題論理(容器の比喩)ではないのか?今回はこのことについて考えてみよう。

 その前に、この先必要になるので、月本洋氏の“日本語は論理的である”(講談社選書メチエ)によって、論理学における「単文」と「複文」についてレビューしておこう。単文とは、述語部分であり、上で述べた「何々がこれこれをする」や「何々はこれこれである」などのように、それ以上分解できない文の単位である。複文とは、命題論理であり、「何々がこれこれをする、かつ、何々がこれこれをしない」「何々はこれこれである、または、何々はこれこれでない」などのように、「かつ」「または」という論理接続詞で、単文をつなげたものである。

 さて、「何々はこれこれである」という言い方を英語にするとどうなるか。英語にすると、”A is B”とするのが妥当だろう。そして、英語の”A is B”であれば、主体−対象の関係を表わす擬人の比喩(主体の論理)として、たしかに述語部分であると理解できる。にもかかわらず、「何々はこれこれである」という日本語では、容器の比喩に変身してしまうのは何故なのだろうか。

 月本氏は、そこに英文和訳の問題が横たわっているという。“日本語は論理的である”(講談社選書メチエ)からその部分を引用したい。

(引用開始)

 (「何々はこれこれである」という文の形式は)英語では、

 A is B

が基本である。これを日本語に訳すと、

AはBである

となる。(中略)そうすると、これは、助詞「は」を使っているので、容器の論理であり、主体の論理ではないと思われる読者もいよう。しかしながら、これは英語を日本語に訳した文であることに注意したい。isが「は……である」と対応しているが、そもそも「である」という語はisに相当するオランダ語を訳すために作られた造語である(中略)。
 すなわち、isを「は……である」と訳すところで、主体の論理から容器の論理に移っているのである。言い換えれば、isという主体の論理の表現にもっとも近い容器の論理の表現が「は……である」なのである。
 主体の論理では、AとBという個物が存在し、それをisがつなぐ。これに対して、容器の論理では、Aという場所が与えられ、それをBで解説する。この溝は埋めることができない。(後略)

(引用終了)
<同書125ページより。括弧内は引用者による注。>

いかがだろう。必要に迫られて、はじめて欧米文和訳を行なった人たちが、述語部分(主体の論理)の単文”A is B”を、容器の論理「AはBである」と訳してしまったのである。

A R.P.−英語的発想−主格中心−擬人比喩の多用
a 脳の働き−「公(public)」

B P.T.−日本語的発想−環境中心−容器比喩の多用
b 身体の働き−「私(private)」

という対比を考えれば、なぜ当時の日本人が、述語部分の単文”A is B”を、容器の比喩「AはBである」と訳してまったのかが理解できる。日本語的発想では、”A is B”という主格中心の欧米文も、「AはBである」という、環境中心の容器の比喩で表現せざるを得なかったのである。

 先ほどの単文、複文の関係と、英語における「主体の論理」と「容器の論理」との関係について、月本氏は、英語の場合、単文(”A is B”のようにそれ以上分解できない文の単位)は主体の論理で構成され、複文(論理接続詞で単文をつなげたもの)は容器の論理で構成されるという。

 ここまでで解るのは、論理学上、日本語と英語は、明治時代の英文和訳によって、特に単文において、「容器の論理」と「主体の論理」とに別れてしまったということである。

 月本氏は、単文と複文、日本語と英語、容器の論理と主体の論理の関係を、以下のように纏めておられる。

(引用開始)

 複文、すなわち単文の接続は、日本語も英語も容器の論理で組み立てられている(中略)。日本語の単文は、主に容器の論理で構造化されている。これに対して、英語の単文は、主に主体の論理で構造化されている。より正確にいえば、日本語の単文は、容器の論理等の空間の論理で構造化されるが、主体の論理で構造化されることもある。英語の単文は、主に主体の論理で構造化されるが、空間の論理で構造化されることもある。

(引用終了)
<同書126ページ>

 今後、「広場の思想と縁側の思想」(1/27/09)の項から懸案であるところの、

(引用開始)

 日本語的発想には豊かな自然を守る力はあるけれど、都市計画などを纏める力が足りない。これからの日本社会にとって大切なのは、日本語のなかに「公的表現」を構築する力を蓄えて、自然(身体)と都市(脳)とのバランスを回復することである。

(引用終了)
<「広場の思想と縁側の思想」より>

という課題について、「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という問題に置き換えて考えてみよう。

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