『たとえば「自由」はリバティか』渡辺浩著(岩波書店2025)という本が出版された。副題は「西洋の基礎概念とその翻訳語をめぐる6つの講義」。内容についてまず新聞の書評を転載しよう。
(引用開始)
西洋近代が育み日本語に翻訳された「自由」や「権利」「社会」といった抽象語は、概念そのものについての誤解や不理解も手伝って、原語と意味のズレが生じているものが多い。本書は日本政治思想史の泰斗が政治にかかわる言葉を取り上げ、日本語への移入と定着の過程を読み解く。
「自由」は、英語でいえばFreedomやLibertyの訳語として日本語に入った。著者は言語がもっている「自分が自分の主人である」感覚、言い換えれば「奴隷ではない状態」という含みが字面から読み取りにくくなったと指摘する。むしろ「自主」の方が原語に近い。
それでも「自由」が定着したのは、この語が昔から日本語、漢語の世界になじんでいたからだ。ただし「勝手気まま、思い通りになること」の意味で。だからこそ現代に至るまで日本で「自由」について議論すると、その可能性よりは限界や困難、はては幻想性を指摘する傾向が強くなりがちだという。
「権利」も漢語由来の「権勢と利益」の語義が前に出て、英語のRightが持つ法律的・道徳的に「正しい要求」というニュアンスが薄れてしまった。著者は江戸時代以来の文章に見出せる「一分(いちぶん)」の方が日本の伝統をよく映していると説く。言葉を巡る、優れた比較思想研究だ。
(引用終了)
<日経新聞 11/15/2025)
この本は、「Liberty」「Right」「Law」「Nature」「Public/Private」「Society」という6つの西洋の基礎概念の翻訳語、「自由」「権利」「法」「自然」「公/私」「社会」について、原語の意味と翻訳のズレを指摘、同時に、どうしてそういう翻訳になったのかについて歴史を振り返る内容となっている。詳細は本書をお読みいただきたいが、それぞれの言葉のズレを要約すると、
@「Liberty」と「自由」
奴隷でない自主を意味する「Liberty」が、気ままで便利を意味する自由自在の「自由」と訳されたことで、自主という概念が希薄になった。「どうせ人生は何かと不自由なものだ。そうであるのに、自由、自由と騒ぐのは、いい大人の態度ではなかろう」といった台詞に意味のズレが表れる。
A「Right」と「権利」
法的あるいは道徳的に正当な要求を意味する「Right」が、権勢と利益を意味する漢語「権利」と訳されたことで、正しいこと、という意味側面が見えにくくなった。
B「Law」と「法」
「Right」と表裏一体をなすところの「Law」が、旧来の秩序の維持を目的とする「法」と訳されたことで、正しいこと、という意味側面が見えにくくなった。「法務省」の正式な英語名が「Ministry of Justice」であることを奇異に思う人もいそう。
C「Nature」と「自然」
創造主による被造物を意味する「Nature」は、各々創造された際に与えられた本性(性質・本質・素質)をもその意味に含む。それが本性の意味をほぼ持たない「自然」と訳されたことで、単に「人為」と対比される意味概念に止まった。たとえばhuman natureに基づくnatural rightは自然権と訳されるが、自然権を「自然な権利」と見ただけでは、natural rightという言葉に込められた「人間の本性(性質・本質・素質)と信じられたものに由来する正しさ」という意味が読み取れない。
D「Public/Private」と「公/私」
人々全般に開いているという意味の「Public」、特定の人々のみに開いているという意味の「Private」といった、領域的区別でしかないところの「Public/Private」が、上・尊を指す「公」、下・卑を指す「私」、といった上下・尊卑関係を含有する「公/私」と訳されたことで、本来の領域的区別を超える意味合いが付加されしまった。いまでも「滅私奉公」といえば、下にある者がお上(国家や所属する組織)に奉仕するために自分や家族を犠牲にすることを意味している。
E「Society」と「社会」
共通の目的や資質を持つ人々が交流し、交際し、協力する集まり、という意味合いを持つ「Society」。それまでの日本語には「仲間」「組」「連中」「社中」などといった、societyに近い、自主的な結社・集団を意味する言葉もあったけれど、西洋語の翻訳とわかる新語ということで「社会」という訳語が作られた。しかし「社会」という語からは、集まりという以上の意味合いは読み取れない。そこでこの新語は、旧来からある、自分や身内の外にあって、自分や身内を取り囲んでいる「世間」と、ほぼ同義なものとして定着してしまった。それ故、社交性(sociability)や互助精神(mutual aid spirit)が、人の資質にとって不可欠なものであるという認識が薄れてしまった。
となるだろうか。
このブログでは、「日本語を鍛える」などの項で、日本で個人の自立が果たされないのは、明治期における日本語の近代化の失敗によるところが大きいと論じてきた。この本によって、西洋基礎概念の翻訳語のズレを頭に入れ、個人の自立をさらに考えてゆきたい。






